第8話 姉に甘い弟と、ラーメンでほろしょっぱい
「ただいまー」
ほろ酔い気分で家に着き、玄関の鍵をバッグから取り出そうとした。
化粧ポーチの中身がいつの間にか散らばってしまっていて、バッグの中で暴れている。そのせいで、鍵がなかなか見つからず、ついつい舌打ちが漏れる。
がさがさとしばらくあさるが、鍵が見つからない。
どうしようかと逡巡して、家を見上げる。
私は未だに実家に住んでいる。
都内近郊に実家があるせいで、給料との兼ね合いやそのほか諸々のらくちんさを考えると、家から離れる気になれずにいるのだ。
両親には、そろそろ結婚でもして家を出ろ、なんて言われるようになってしまった。
一人暮らしはやっぱりしたいし、そのためのお金も貯めてあるけど、貯蓄をするという意味でも、実家は便利だ。
そんな風に思い悩んでいるうちに、そろそろ結婚するだろうから一人暮らしはいいか、なんて考えるようになってしまっていた。
もちろん、元彼……端木恭彦と結婚するのも近いはずという思惑があったためだ。
彼はしょっちゅう「結婚したいね」と口に出していたから。
今となっては、奥さんがいるくせに何寝ぼけたこと言ってやがったんだ、と嫌味のひとつでも言ってやりたいけれど。
彼は三十一才で、結婚を考える年齢だったろうし、私も周りの友達にちらほらと結婚する子が出始めてきていたから、それはごくごく自然のことのように思えた。
優しくて頼りがいがあって居心地のよい彼となら、結婚してもいいかなと思っていた。
……それなのに!
唇をかみしめて、バッグを引き裂きたくる衝動に駆られる。
「くそーーー」
小さく雄たけびを上げながら、すっかり闇に包まれた我が家を睨む。携帯電話の液晶画面で踊る時刻は0時をとっくに過ぎ、静まり返った住宅街はすでに深夜の空気に飲まれていた。
両親はもう寝ている時間だ。
弟なら起きているかもしれない。……たぶん。
家の鍵は家を出る時に忘れてきてしまったんだ。いくら探してもバッグの中には入っていない。
携帯電話の電話帳を開き、弟――豊介の携帯電話にかける。
しばらくの着信音の後、弟の気だるそうな声が受話器越しに聞こえてきた。
『……なに』
「玄関の鍵、開けろ」
『また酔っ払ってんのかよ』
弟のくせに咎めるような口調を使ってくる。玄関開けたら即ぶったたいてやる。
「はやくあけろー」
弟のセリフを聞かなかったことにして、甘えた声で何度もせがんでいたら、いつの間にか玄関のドアを開けに来てくれていたらしく、「うるせー」という罵声と共にドアが開いた。
「ありがと。あいしてる、ほうちゃん」
チュ、と投げキッスのふりをしたら、おもいっきり手で払われた。
むかつく。
「もっと早く帰って来いよなー。俺が寝てたらどうするつもりだったんだよ」
「起きるまでケータイ鳴らすから大丈夫」
「全然大丈夫じゃねえし」
「てか、あんた起きてたんだ」
豊介は意外と寝る時間が早い。二十二時過ぎには布団に入っているのだから、お子ちゃまというか、健全というか。
「受験勉強してんだよ。最近はこのくらいの時間まで起きてる」
「あ、そうだったの。ね、軽くしょっぱいもの食べたい」
「はあ?」
お酒を飲むと、ラーメンが食べたくなる。しょっぱいものっていうか、しょうゆラーメンが食べたい。
「しょっぱいものが食べたい」
「……食べればいいだろ」
「しょっぱいものが食べたい」
「作ればいいじゃん。棚にインスタントラーメンあったぞ」
「しょっぱいものが食べたい」
「……わかったから、居間で待ってろよ」
うん。うちの弟はいい子だ。
***
火にかけた鍋からクツクツと湯が煮える音がする。
ソファーに寝転びながら、夢見心地でその音を聞いていた。
携帯電話を開くと、メールのマークが点滅している。いつの間にメールが届いていたのだろう。
メールのマークをクリックすると、文面が現れた。
『会って話がしたい』
それだけ綴られていた。
あて先を見ると、『端木恭彦』の表示。
「話すことなんて、今更何があるのよ……」
ひとりごちて、宛名を指でなぞる。
もう、終わったのだ。話すことなど、何もない。
それなのに、未練がましくこんなメールを送られても、私にはどうすることも出来ない。
携帯電話を胸の前で抱きしめて、ぎゅっと目をつぶる。
恋愛がひとつ終わるたび、自分の中の何かが、死んでいく気がする。
キラキラした恋心に彩られ、人を愛することや愛されることに喜びを抱く自分が、小さく萎れて消えていく気がする。
それは、新たな恋が始まればまた生まれてくるものだけれど、あの時の『自分』とは違う。
一皮向けて大人になったと、そう表現するのが的確なのだろう。
だけど。
純真で無垢だった私は、どんどんいなくなっていくのだ。
「ねーちゃん」
「――いきなり話しかけるな!」
「ラーメン出来たんだけど、そういう口の聞き方するなら俺が食べる」
「やーん! ほうちゃんてばいじわるー!」
弟は「キモい」と舌を出しながら、湯気を立てるラーメンを差し出してくれた。ついでに自分の分まで作ってるあたり、小賢しい。
ダイニングのテーブルに向き合う形で座り、ラーメンをすする。
「最近、どうよ?」
唐突に質問すると、弟は不機嫌そうに「なにが」と答えた。
「彼女と幸せ?」
生意気なことに、このくそばかな弟には彼女がいる。一度街中ですれ違ったことがあり、彼女と少しだけ話したこともある。
線が細くて、髪がまっすぐ長くて、かたちのいい目をした綺麗な子だった。
「まあ、それなりに」
ちろりと私を見て、弟はずずっと勢いよくラーメンをすすった。
「それなりってなによ、それなりって。くそっ。幸せなヤツって腹立つ。目の中に箸の先っぽ入れていい?」
「入れていいわけないだろ! やりそうで怖いわっ」
むかつくから箸でラーメンの汁をちょいちょい飛ばしてやると、弟は本気で嫌そうに体をずらした。
……高校生くらいのときに戻れたらいいのに。
弟がうらやましく思うのは、本心だ。
以前にも後書きで書きましたが、この作品は拙作『空に落ちる』『空を歩く』のスピンオフなのです。
主人公の弟は『空に落ちる』の登場人物なのでした。
たまに夜中ラーメンが食べたくなります。
せがんだら作ってくれる便利な執事がいたらいいのになーと思います。
どっかに落ちてないかな……