第6話 体も心も、覚えてました
「再会にかんぱーい」
のん気にグラスを掲げるジャイさんを冷めた目で睨みながら、私もグラスを掲げた。
カチンとグラスを軽く合わせ、そのままぐいっと酒をあおる。
「まさかの再会だよなー。運命的だよ」
口についたビールの泡をぬぐって、彼は爽やかに笑った。
「ストーキングでもしてたんじゃないですか」
「凛香ちゃんはひどいなあ」
私の嫌味に気付いてるだろうに、わざと気付かないふりして笑顔でかわしてくる。こういう男ってやりづらい。
「言っておきますけど、私、簡単にヤレる女じゃないんで。あの時はたまたまですからね。たまったまっ前後不覚になるくらい酔っ払い、たまったまっ振られたあとだったからですから!」
「わかってるよ」
そう言って、ジャイさんは一瞬真顔になる。まぶたに一線の切れ込みをいれたようなすっとした二重に彩られる瞳は、爽やかを絵に描いたようで、嘘なんてつくようには思えない。
女なんて簡単に落としてきたであろう百戦錬磨の目力だと思う。
「仕事関係の女の子で遊ぶような真似はしないよ。凛香ちゃんのことは興味があるけど」
「くどいてるんですか」
「そうだよ」
薄い唇を半月型に開いて、にっこりと笑いかけてきた。
馬鹿にしてるんだか、バカ正直なのか……たぶん、前者だろう。
「凛香ちゃんって、呼ぶのやめて下さい」
「なんで? かわいい名前だし、名前で呼びたい」
捨てられた子犬みたいな目で私を見るな。
「言ってるじゃないですか。馴れ馴れしいの嫌いなんです」
「じゃあ、りんりん」
「……殴っていいですか」
「パンダみたいでかわいくない?」
私はパンダと同列かいっ!
「もう何でもいいですよ……好きに呼べばいいじゃないですか」
押しが強すぎて、ついていけない……。
性格もさりげなくジャイアンなんじゃん。もう本名忘れたし、ジャイさんでもういいや。
「りんりんは、結局彼とはどうなったの?」
いつの間にか空になったビールジョッキを片付けながら、彼はサラリと聞いてくる。
「別れたに決まってるじゃないですか。不倫なんてする気ないし」
「そっか。完全フリーなわけだ」
「そうですけど……吹っ切れたわけじゃないんで、くどいても無駄ですよ」
「あのねえ、男に振られてズルズルしてるより、とっとと次の男見つけた方が、楽だよ?」
手を仰ぎながら、鼻で軽くあしらってくる。
私の手に持っていたグラスも空になっていたから、私は焼酎をロックで頼んだ。
かわいこぶってカクテル飲んでる気分じゃない。
「私、軽い女じゃないんですー」
口をとがらせてぼやく私は、早くも少し酔ってきたらしい。
まだはっきりとした自覚はあるし、この軽いハイテンションの時間が一番心地いい。ぽわっと熱くなる頬を両手で押さえて、ジャイさんを睨んだ。
「不倫する男なんて、ろくな男じゃないんだから。今すぐにも吹っ切るべきだぜ」
「そう簡単に忘れられるなら、好きになんてならないもん」
彼と付き合ったのは一年にも満たない。
それでも、一緒にいる時間は幸せで大切だった。これからどんどん一緒の時間を積み重ねていくんだと思っていた。
一緒にいればいるほどに『好き』の気持ちが降り積もって、まるで東北の雪のように、堆積し重量を増し、固くなっていった。
好きで好きで好きで。変わらない思いが私の心の芯にいた。
だから、別れがこんなにも唐突に訪れるなんて、思ってもいなかった。
そして、こんな理由で別れるとは、想像だにしてなかった。
自分のことを馬鹿な女だと思う。
女っていうのは、そういう嗅覚は鋭い生き物のはずだ。なのに、私は鼻づまりでもおこしたみたいに、『女の勘』っていう機能が働かない。
いや、もしかしたら、気付いてはいても気付きたくなかったから、本能的に『既婚者の匂い』をかがないようにしていたのかもしれない。
「まっすぐな恋をしたんだねえ」
朗らかな声に、はっとする。
「ま、っすぐな、恋」
「違うの?」
ぽかん、と口が開いてしまった。
真っ直ぐな恋を、していた?
そうなの?
私は、まっすぐな思いを、彼に向けていたの? だからこんなにも……ひっかかっている?
――わからない。
「でも、好きだった」
すごく。
すごく、好きだった。
「じゃあ、いい恋をしたんじゃん?」
ジャイさんはにっこりと満面の笑みを浮かべて、ビールを煽った。
私も焼酎に口をつけて、カラコロと氷を鳴らした。
「いい恋をした……」
「そう思って、次の恋をすればいいじゃない」
もしかしなくても、励まそうとしてくれてる?
まさか、今日飲みに誘ってくれたのも、気落ちしてる私をなぐさめるため?
喉仏を上下に動かしながら幸せそうにビールを飲む姿を見ると、そんなことまで考えてくれてるようには思えない。
でも……素直に聞き入れてもいいと思えた。
私もずいぶん酔ってきている。
疲れているせいか、酔いが回るのはやい。
クルクルと回る視界をふわふわと浮いた気持ちで眺めながら、彼の声にうなずいていた。
何を言っているのか、いまいちわからない。
ジャイさんの低音の声は、ただ心地良くて、何もかもを委ねたくなる。
――名前は?
――教えない。
――あんたの体、すっげえいい。
――嘘。
――ほんと。また会いたい。
――またって、またなんて無いよ。
視界いっぱいに広がるシーツの海。ごつごつした手の平が胸に触れる。ぶわりと胸の奥がうずいて、体が火照る。
呼吸が乱れる。体が熱い。声が我慢できなくて、吐息まじりに「ああ」と言ったら、彼は楽しげに指を動かした。
だめだ、だめだ。何をしてるんだ、私。
なぜだか妙に冷静な自分がそこにいて、快楽に身を委ねる私を叱責する。
でも、抗えない。
「……ちゃん!」
耳元の怒鳴り声で、はっとした。
視界が急に開けて、テーブルに並んだゴハンが目に飛び込んできた。
「凛香ちゃん、どうしたの? もう酔った?」
「え、あ、ううん」
急激に酔いがさめていく。
今の、夢?
ジャイさんとの、あの日のことが、まるでついさっきのことのように脳裏をよぎっていった。
「意外と酒弱いの?」
「う、ううん。強い方なんだけど……一瞬意識飛んじゃった。疲れてるのかも」
ジャイさんを直視できず、うつむいたまま答えた。
あんまり覚えてないはずなんだけど、しっかり記憶はあるらしい。
私、この男に抱かれたんだ。
覚えている。声も体も感触も。
ちゃんと、覚えてる。