第2話 さ迷い歩けば、棒に当たる
私はどこから道を踏み誤ったのだろう。
振り返った道の向こうにあるのは、霧のかかった夜の闇だけ。
「あんたは恋愛をしてないよ」
――独り相撲をしてるだけ。
「自分の都合を押し付けるだけしか出来ないなら、あんた、この先ずっと独りぼっちだよ」
――わかってる。この気持ちは。
深い森の中を歩いているかのようだった。
隣にいる人は顔の見えない、黒い影。
手を繋がれ、その手に引かれ、ただ、ついていくだけ。
深いほうへ、深いほうへと――。
むせ返るような緑の芳香。
光を通さない葉の群れ。
湿った大地に、足は沈み込んでいく。
歩いて、歩いて。
見えたものは。
――見えるものは。
***
「悪い。伝票、渡し忘れた」
「またですか」
向かいの席に座る男の顔も見ずに、私は低い声だけを返した。
営業事務を務めて四年。大学を卒業してからずっとこの仕事を続けてきた。それなりに仕事をこなし、それなりに周りに認められ、それなりに生きてきた。
「またって、そんなしょっちゅうじゃねえよ」
向かいに座るこの色白の男は川田という営業マンで、私は彼のサポートも行っている。
営業なんて数字取れればいい、なんて考えのこのバカは、いつもいつも営業先からもらった伝票を提出し忘れ、決済の日に私の怒りを買うのだ。
「こういうの、困るんですよ。私一人で伝票何枚さばいてると思ってるんですか。伝票出た時点ですぐに渡してください。何度も同じこと、言わせないでくださいよ」
ひったくるように伝票を受け取ると、川田はあからさまに舌打ちを打って、私に聞こえる大きさの声で「かわいくねえ女」とつぶやいた。
「よく言われます」
「だろうな」
「嫌味な男ですね」
「よく言われるよ」
「だと思いました」
けたけたと気持ち悪い笑い声をあげて、彼は自分のデスクに座り直す。
私はまたパソコンに向かい、伝票をパラパラとめくった。今日は残業で確定だ。
ため息をついて、数字の羅列を目で追う。
……ため息をつくごとに幸せは逃げるというけど。そうなのかもしれない。
彼氏と正式に別れたのは、ゴールデンウィークに入った四月の終わりの夜だった。
相手の女からの電話を受け、彼と会って話をした。けれど、話し合いにもならず、結局はその数日後に電話で別れ話をするはめになった。彼氏は「別れたくない」と連呼した。
お前が好きだと、お前が一番なんだと。
そんな言葉を真に受けて「じゃあやり直そうか」と言えるほど、私は甘い女ではなかったし、なにより、浮気を心配しながらこれからも付き合い続けるなんて、考えたくもなかった。
ゴールデンウィークを使って行こうとしていた旅行もキャンセル。手配だって、私がした。
別れたあとの作業を淡々とこなすことほどむなしいことはない。
楽しいはずの旅行が、行きたかった海外旅行が、彼氏と過ごす愛おしい時間が、キャベツの千切りみたいに刻まれて、消えていく。
あまりの空しさに、ゴールデンウィークをまた飲んだくれて終わらせてしまった。
抜けきれない酒は、だるさだけを体に残す。
木霊する電話の音にイライラして、パソコンのキーボードを打つ手に力がこもる。
「むかつくっ」
つい言葉が零れ落ちた時、やっと横に人が立っていることに気付いた。
「佐村」
威厳ある低い声にびくりと肩を震わせて、ちろりと目線だけをあげたら、最悪なことに部長が立っていた。
今の独り言、聞かれた……よね?
「午後の会議の件だが」
「あ、はい」
部長はため息をこぼしながら、私の机の上に山となった書類をポンポンと叩いた。
「この課にいる女の子の中じゃ、佐村が一番事務仕事してるだろ。だから、今回のシステム変更の件、向こうの担当と細かい打ち合わせをお前に任せたいんだが」
ついこの間から、会社のパソコンのシステムが変更されることになった。
事務処理をより円滑に進めるためだとかで、どこかの会社に依頼して、根本的な部分から見直しをしているらしい。
私がいる課の男は営業担当で、パソコンとはほぼ無縁。パソコンの諸々の処理をする営業事務の仕事は女の子が任されていて、うちの課には三人いる。
一人は四十代にさしかかろうとする勤続二十年の大ベテランだが、大ベテランを鼻にかけて、全く仕事をしない。
もう一人は私の頼れる先輩なのだが、仕事量が半端なく、おそらく打ち合わせなんてしてる暇はないだろう。
「一番事務仕事をしてる」なんて建前で、要は私しかやれる人間がいないのだ。
「わかりました……」
書類の山を見ているだけで、やる気は失せる。
普段の仕事をしながらシステム変更の打ち合わせ? 残業三昧の日々が簡単に想像できる。
「お前は歯に衣着せぬ発言をするからな。はっきり色々言えた方が、いいシステムを組んでもらえるから。頑張れよ」
褒められてないですよね、それ。と苦笑いしながら答えると、部長は大声で笑いながら私の肩を叩いた後、「じゃ、午後の会議でな」と言ってさっさと行ってしまった。
***
午後の会議なんて、夢の世界への扉としか思えない。
窓辺から差し込んでくる太陽の光が背中をぽかぽかと温めて、眠れ眠れと背中をさすられているかのよう。
なんとかかんとか株式会社のなんとかとかいう男が今回のシステムについてなんだかむにゃむにゃと言っているが、正直全然頭に入ってこない。
三十代後半くらいの男性と、私と同じくらいの男性が二人。システム変更でうちの会社に派遣された彼らは資料を片手に真面目な顔でよくわからんパソコン用語を連発する。
「――と言うわけで、うちの課は佐村が担当いたしますので」
いきなり名前を呼ばれて、はっとする。
いつの間にか、システム変更の説明は終わったらしい。他の課から選出されたシステム変更の担当者が真面目くさった顔で、自己紹介をしている。
私も慌てて立ち上がり、肩まで伸ばした髪が乱れていないか確認した後、ぺこりとお辞儀した。
「営業二課の佐村凛香と申します。よろしくお願い致します」
顔をあげて、気付く。システム変更の会社の男――名刺を確認したら株式会社CWS 赤峰武と書いてあった――がジロジロと私を見ていた。
なんだよ。ヨダレの跡でも残ってんの?
さりげなく手で口元をぬぐって、椅子に座る。
赤峰武は、他の人たちが自己紹介してる間も、ずっと私を見ていた。
気持ち悪いヤツ……。