第1話 ゴミ屋敷にリセットボタン
「ぬおおおおおおおおおおおおお!」
衝撃のあまり、背中から落ちた。
ふかふかのベッドの下は、これまたふかふかの絨毯だったから痛くはなかったけれど、あまりに驚きすぎて、顎がはずれかけた。
顎をなでながら、起き上がる。
ベッドの上でくたっと寝ているのは……どう見ても、見知らぬ男。
昨晩は浴びるように酒を飲んだ。不覚にも記憶は一切ない。
酔っ払いがカーネルおじさんやペコちゃんを持ち帰るのと同じように、私は男を持ち帰ったというのか。
「ん……ん?」
柔らかいこげ茶色の髪を掻きながら、男は目を開けた。切れ長の目はすっきりとした二重で、色素が薄いのか瞳の色が茶色い。
「おはよ」
寝ぼけた低い声で、男は優しそうに笑う。
急に甘い空気に変わった気がして、この男やるな、とつい感心してしまった。
「どうしたの?」
ベッドの下で呆然と座る私を訝しそうに見てくる。
あくびしながら上半身を起こした男の体から、まとわりついたシーツが落ちる。すらっとした裸体が目の前に現れた瞬間、脳みそが急激に活性化した。
「きゃーーーーーー! ごめんなさい、ごめんなさい! 私、あなたのこと、襲っちゃったんだ! ほんとにごめんなさい! 悪気はなかったんですー!」
だから酒は恐ろしいんだ! 飲んでも飲まれるな、ってよく言うのに!
土下座して深々と頭を下げたら、ブフ、という吹きだす音が聞こえた。
「あのさ、おかしくない? 普通、男の俺が謝る方だろ? 襲うのはたいてい男なんだし」
「だって、私、酒癖悪いもん! 襲うの、絶対私の方だもん!」
超速で顔をあげ、ブンブンと頭を振って否定したら、男は腹を抱えて笑い出した。
「さけぐせ、わる、いもんって! ウケる」
「あ、あのー……」
「昨日のこと、覚えてないの?」
はい、覚えてません。
そう素直に答えてしまうのも悪い気がして、目を泳がせる。
分厚いグレーのカーテンの隙間から、朝日の白い光が零れ落ちる。南国をイメージしてなのか、細長い葉の木が淡く光るライトの下で大きな影を作っている。
やっぱり、ここ、ホテル?
「昨日の夜、仕事帰りで歩いてたら、いきなりあんたが話しかけてきたんだよ」
「……まさかと思うけど、泥酔状態だった?」
男は満面の笑顔でうなずいた。やっぱりね、と力無く笑うしかない。
「ほっぺ真っ赤にして目うるうるさせてさ、『私とにゃんにゃんしませんか?』って話しかけてきたんだぜ」
にゃ、にゃんにゃん……。どう考えても死語……。
「しかも、その後、『私とホテルにトゥギャザーしましょう』って言ってきたんだよ。笑い死ぬかと思った」
トゥギャザーってどこのルーだよっ!
なんという醜態。お母さん、私、嫁入り前なのにこんな女に成り下がってしまいました。ごめんなさい。
「面白くってついていっちゃったよ」
「……で、ホテルにいるってことは、あなたと私、合体したってことですよね?」
「合体って! ロボットじゃないんだから」
くすくすと笑い、男は私の方に身を乗り出して来た。筋肉質ではないけど脂肪はついていない体が目の前に迫ってきて、のけぞる。
「今更だけど、マッパだよ、あんた」
頭の上からバスローブをかぶらされて、わたわたと手をかく。
ちょ、マッパって? マッハじゃないよね? まっぱだかってこと?!
「ぎゃーーーー! 私、ストリーキングは趣味じゃないです!」
「言わなくってもそうでしょう、普通」
もがきながら必死に体を隠して、やっとバスローブで見えなくなった視界が戻ってくる。
男はいつの間にかベッドの端にいて、煙草を吸っていた。
「あんた、何かあったの?」
「な、なにかって?」
「やってるとき、泣いたから」
やってる時……やっぱりやっちゃったのか、私……。がっくりと肩を落とし、バスローブを押さえつける。
これじゃあ、あいつと一緒だ。
「彼氏が、私以外の女と、ヤってた」
返事の代わりに、煙草の煙がたなびいた。
「だから、仕返ししてやりたくなったんだと思う……。酒飲みまくった後の行動だから、自分でもよくわかんないけど」
「他の男に抱かれてやろう、って自暴自棄になった?」
うなずくことしか出来ない。バカな行動しか起こせない自分が呪わしい。何にもならないことをして、赤の他人を巻き込んで、一体私は何がしたいんだ。
「彼氏のこと、好きなの?」
「……たぶん」
女からの告発だった。知らない女から私の携帯電話に突然電話がかかってきて、私が「もしもし」を言い終わらないうちに、女は叫んだのだ。
「あいつ、あんたのもんじゃないから。あんた、知らなかったの?」
込み上げてきたのは、その女への怒りと、彼氏への嫌悪感。他の女を平気で抱いて、何食わぬ顔で私をも抱く、その神経に怖気が走った。
冷めやらない感情を酒で晴らそうと飲みに飲みに飲んで、気付けば一人。路頭をさまよい、白いシャツと藍色のネクタイの男を見つけた。まぶしく見えたのは、酒のせいだったのか、この男が本当に輝いていたのか。
断片的な記憶がとつとつと出てきて、頭を抱える。
「男は、皆そうなの? 誰でも、抱けるの?」
「さあ。男によるんじゃない? 俺は、選ぶよ」
「選ぶ?」
「いいなーって思った女しか抱かないし、彼女がいるときは極力他の女は見ない」
「極力って」
男は狩人だからね、と爽やかに笑った。
この男、変。テニスの後に爽やかな汗をぬぐってるみたいに、ミントみたいなオーラを放ってる。
「別れたら?」
「……うん」
返事はしたけれど、それは「YES」の意味を含まない。ただ、うなずいただけ。別れる? その選択肢を、私は選ぶのだろうか。
「リセット」
ぽん、と布団を叩く手。ごつごつした男の手は、頼りがいがあって、触れたくなる。
ベッドの上に這い上がり、男に背を向けて座る。
リセット。出来るのだろうか? もう一度初めから、やり直せるのだろうか。
「押してやってもいいよ、俺が。リセットボタン」
男の手が私の腰に回る。私のおなかを叩いてくるその仕草は、まるで赤ん坊をあやす父親の手のようだった。
彼の手を握り、首を横に振る。
人生にリセットボタンなんてない。やり直すには、なにかを捨てるしかない。
「捨てられないよ、私には」
「ゴミ屋敷に住む女になるぜ、そんなんじゃ」
振り返れば、男の顔が目の前に迫る。頬をつかまれ、唇をかまれた。「痛い」とわめいたら、優しくついばむようなキスを繰り返してきて、そっと割って入ってくる舌に、私は答えてしまった。
体の芯が熱くなる。息が苦しいのに止めることも出来ず、絡み合う軟体動物みたいなそれを必死に追い求める。
背中に回した手が彼の体の熱を感じ取って、じわりじわりと疼いてくる。
堕ちる、そう思った。
この男、絶対やばい。
「まだ時間はあるよ」
「うん……」
私はバカだ。蛾が光源に向かって羽ばたくように、寄り添うものを追い求めてる。
がむしゃらに。ひたすらに。無意識のうちに。
必要とされたい。誰かの、誰かのためだけの自分でいたい。私でなくてもいいのなら、私という人間が必要とされていないのと同じなんだ。
「あんたが彼氏と別れるなら、俺のところに来ればいいよ」
どうせ、戯言。わかってるけど、甘えたくなる。
「行ってやってもいいけど、私が自分で見つけるから、今日はこのまま別れて」
甘美な誘惑に溺れるのは、きっとまだ早い。
彼の首筋に舌を這わせながら、ニイ、と小悪魔っぽく笑ってやった。小悪魔っぽいってこういうかんじでいいのか、ちょっと不安だけど。
「見つけるってどうやって?」
「運命の相手なら、また会えるんじゃない」
運命なんて、それこそ妄言。あるわけないものにすがりつく気なんてない。
でも、また会えたなら。
「ねえ、名前だけ、教えてよ」
「タケシ」
「ジャイアンと同じ名前。覚えた」
「ジャイアンで覚えるな」
チュ、と彼の頬にキスを落として、体を離す。
「あんたの名前は?」
「ナイショ」
一夜だけの過ち。だけど、始まりの合図。
ゴミ屋敷になる前に、すべてを一掃して。
私は、新しく始めるんだ。
そして、その時、この男とまた会えたら。
その時は、また違う始まりに期待をしよう。
ラブホテルを出たら、きらめくような朝の光が目に飛び込んできた。
目を細めて空を見上げて、ふっと笑う。
昨日の夜、雨でも降っていたのだろうか。地面に残る水たまりに空が映っていた。
立ち止まり、覗き込むと、私の顔が水面で揺らいでいた。
足を弾ませ、水たまりを飛び越える。
飛んだ瞬間、心も弾んだ。
私とタケシはこうして出会った。
まさか、また出会うとは思わなかったけれど。
週一くらいで連載予定です。
自サイトでも連載しているので、先が気になる方はぜひお越し下さい。
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