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雪は触れねば解けない

作者: 冬至 春化



 常夏の島で、青い海に囲まれた港町は、今日も青々としたヤシの葉を晴天にかざして、波の音とともに陽光に照らされていた。


 使い込まれた木のカウンターの上に、大きなグラスがどんと並べられる。

「あいよ、ミックスジュース三つ」

「ありがとう、おじさん」

 背の高いカウンターに顔を出すように、三人の子供たちが踵を浮かせてグラスを受け取った。

「おじさん? お兄さんの間違いだろ」

「もうお兄さんなんて歳じゃないよなぁ」

「言ったな? あーあ、せっかくまけてやろうと思ったのに……」

 カウンターの中にいた店主は、これ見よがしに肩を竦め、やれやれと首を振ってみせた。子供たちは慌てて背伸びをし、「お兄さんありがとう!」と異口同音に叫ぶ。


 それを受けて店主は呆れたように眉を上げると、歯を見せて笑った。

「ほら、持ってけ。転ぶなよ」

「はーい!」

 一人一つずつ、大きなグラスを両手に捧げ持つみたいにして、子供たちは店を出て明るい路上へと駆けていった。



 騒々しい足音が遠ざかったのち、カウンターの端にいた私は頬杖をついて店主を見た。店主は視線に気づいたように私を振り返り、「俺を見るより海を見た方が良いぞ」と悪戯っぽく笑う。その指先が示す窓の向こうは、確かに青くきらめく大海原が広がっていた。


「ずっとここで店をやっているんですか?」

 問うと、店主は「まあな」とグラスを拭きながら頷いた。

「でも、店主さんと比べると、店の方が些か年季が入っている気がします」

「店がボロいと貶されているんだか、俺が若いと世辞を言ってもらっているんだか分からないな」

 微妙な顔をした店主に、私は「すみません」と笑み混じりに詫びる。


「祖父が生前に言っていたんです。若いとき、この店に来たことがあるって。そのとき年嵩の店主と話をしたと言っていたのですが、あなたはどう見ても私の祖父より年上に見えなかったものですから」

「ああ……」

 店主は顎を撫でて、合点がいったように頷いた。それから表情をにやりと緩め、私に向かって指をさす。

「いや、分からないぞ? ひょっとして俺はこの姿のまま何百年も生きているのかもしれない」

 冗談とは分かっていても、私は多少むっとした。若造だと思ってからかわれているのが分かったからだ。それを察したように、店主は軽く片手を挙げて私をいなした。


「……というのはもちろん嘘だ。それは恐らく先代のことだろうな」

「先代? お父様ですか」

「いや、ちっとも。知らない爺さんだったが、まだ若かった俺にぽんと店を譲ってさっさと隠居したよ。もう死んだだろう」

 店主の言葉に、私は目を瞬く。一体どういう経緯なのかさっぱり分からず、私は手持ち無沙汰に、手元のグラスの底で溶けた氷に薄まったジュースを一口含んだ。



 気だるげな空気の漂う昼下がりだった。波打ち際に位置する店内には、断続的な水音ばかりが響いていた。観光地のはずだったが、中心地でないせいだろうか、他に客はいない。通りに人の気配もなく、それで店主は私との話に本腰を入れる気になったようだった。


「それにしたって、何だってこんな島に来たんだ」

 言外に、何かあったのかと訊かれているようだった。私は頬杖を外さないまま、「何も分からなくなって」とだけ答えた。店主は無言で続きを促す。

「……恋人に、本当に自分を愛しているのかと問われて、……私はそれに答えられなかったんです。そのことを咎められた」

「ははぁ、そりゃ大事件だ」

 店主はわざとらしい表情で驚きを示してみせた。私は目を伏せ、磨き抜かれたカウンターの木目を指先で追った。


「……多分、私は恋人を愛していると思っていたのですが。いざ問われると自信がない。『本当に愛している』とは一体何ですか」

「んなもん何も気にしないで『心から愛している』つって抱き締めてやれば良いだけじゃないのか。やろうと思えばできるだろ?」

 適当な返事を寄越す店主に、私は恨みがましい目を向けた。店主はおどけた態度で両手の平を見せた。


「とはいえ、なあ……。残念ながら俺にはその質問に答える資格がなさそうだ」

 何やら訳がありそうな口調に、私は目線を持ち上げる。店主は私を見ていなかった。

 ガラスの嵌っていない窓、その向こうの地平線、更に果てのどこかを見透かしているような眼差しだった。そこで私は、彼の目の色が南の島には珍しい淡色をしていることに気づく。


「それなら、店主さんの話を聞かせてくださいよ。……どうしてこの店を継ぐことになったんですか」

 私が水を向けると、店主は微笑むような、目を眇めるような顔をした。

「長い話になるぞ」と店主はほとんど空になっている私のグラスを指す。私は「商売上手ですね」とくすりと笑い、財布から小銭を出してカウンターに乗せた。



 ***


 どうしようもない吹雪だった。無茶な強行突破を決めた自分のせいだった。

 吹き溜まりに足を踏み入れるほど馬鹿でもなく、せめて風を避けられる場所にと大きな岩の影に身を寄せていたが、冷えた体は如何ともしがたかった。激しく風の吹き曝す尾根で、凍りついた睫毛を引き剥がすように瞬きをした。

 末端には既に感覚がなく、体の芯もすっかり凍えている。抗いがたい眠気が背中から襲いかかるようだった。


 嵐が去るのを待つしかない。それがどれほど先のことになるかは分からないが、……この暴風雪が去り、誰かがここを通りかかるまで、耐え忍ぶしかなかった。




 晴れ間の光が顔に当たった。そう思った直後、影が落ちる。

「……生きてる?」

 目も開けられないような眩い光を背負い、顔には濃い影が落ちていた。しかしその輪郭が、小柄な少女のものであることは分かった。

 一面の銀景色の中に、少女は一人で佇んでいた。


 長い髪が風に吹かれてたなびいていた。彼女は真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。ほとんど意識が飛びそうになりながら、必死に瞼を持ち上げた。

 それはまるで夢の中の光景のようだった。


「生きているのね?」

 その声は冬の木立をあえかに吹き抜ける風のように通った。頷くこともできずに、彼女の顔を見上げていた。雪に半身を埋めたまま、その眼差しを受け止める。

「……生きたい?」

 彼女は少し困ったように眉根を寄せながら問うた。その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。


 ややあって、彼女に問われたことが脳に染み渡る。それから慌てて頷こうとしたが、上手く体が動かなかった。舌も凍りついたように強ばり、喉からは息ばかりがひょうと漏れる。

 しかし少女にはそれで十分だったらしかった。


「そう」と薄い唇から呟きが漏れたのを最後に、彼は意識を失った。



 *


 薪が爆ぜる音がしていた。薄く目を開くと、知らない木目の天井が広がっていた。

「あ……」

 声を漏らし、身を起こす。記憶は鮮明だった。


 雪山で吹雪に巻かれ、どうにもできずに立ち往生していた。ふと意識を取り戻したときはちょうど晴れ間で、そのとき、一人の少女に見出されたのだ。

「助かった……のか……?」

 凍傷になっているのではと思っていた指先を見下ろすが、そこには見慣れた十指がついている。布団をめくって確認はしないが、恐らく足の指も無事だろう。

「一体どういうことだ……」


 そう呟いたところで、部屋の隅の扉が静かに開かれた。そこに立っていたのは、どうにも血色の悪い頬をした少女である。薄い唇はその色すらも淡く、青白い顔色が白けた金の髪に覆われているせいで、白々とした印象が更に際立っていた。

 その中でとりわけ特徴的なのが、その双眸であった。


「起きたの?」

 薄い表情でそう問うた、彼女の目が、驚くほどに底深い青色をしている。それはまるで青玉サファイアでも嵌め込まれているかのように透き通った眼差しだった。



 しばらくの間、ぼうっと彼女の目を眺めたのち、彼は慌てて居住まいを正す。

「助けてくれた……んですか?」

「生きたいって、言ったから……」

 彼女は少しだけ不安そうな顔をした。『違うの?』と言いたげな表情に、すぐさま首を横に振る。


「ありがとう、おかげで一命を取り留めたよ。ここは……君の家? 誰かが運んできてくれたのかな。ご家族にお礼を言わせて欲しい」

 少女が年下であると判断して、やや口調を砕けさせたが、彼女が不快を示すことはなかった。むしろ少しだけ雰囲気を柔らかくして、彼女は頷く。


「ここはわたしの家。家族はいない」

 相も変わらぬ無表情で、少女はさらりと告げた。

「それじゃあ……一体誰が、俺をここまで運んで……」

 困惑する彼に、少女は少しだけ首を傾げた。ほとんど白のような、明るい金髪が肩からこぼれ落ちた。

「わたしが」

 その青玉の瞳がゆっくりと瞬いた。信じられない、と疑念も顕に眉をひそめる彼に、彼女は事も無げに告げたのだ。


「わたしは、魔女だから」



 *


 自らを魔女と名乗った少女は、人里離れた山の中、ただ一人で生活をしているようだった。

 彼が魔女の家に来てから数日の間、再び吹雪が訪れ、外へ一歩でも出ようものなら雪に巻かれてしまうような気候が続いた。当然ながら彼は魔女の家に留まり、彼女の生活の一部として部屋の片隅に置かれることとなった。


「君は……ずっとここで?」

「そう」

 彼女は暖炉の前にかがみ込み、火にかけていたやかんを取り上げた。湯気を立ち昇らせる注ぎ口から熱湯が注がれるのを眺めながら、彼は頬杖をつく。

「いつから?」

「ずっと前から」

「一人で?」

「そう」

 ややあって、茶葉が開いたのか、華やかな香りが部屋に立ち込めた。


「君は本当に魔女なのかい」

「どうかしら」

 魔女は寡黙だった。声をかけねばその唇が綻ぶことは滅多になかったし、たとえ会話に応じたとしても、その頬が緩められることは決してなかった。


「……家の裏に、ソリがあるね」

 切り出すと、魔女は怪訝そうに瞬きをする。彼は唾を飲み、彼女を見据えた。

「あれに乗せて、俺を運んだんじゃないのかい」

 それまで茶器に注がれていた視線が、ふと持ち上がった。それは窓の外を経由しながら、ゆっくりとこちらへ向けられる。

「――どうかしら」

 彼女はにこりともしなかった。



 魔女は彼の事情を聞こうとしなかった。だから彼は、妹の娘の誕生を両親に伝えようと急いだ結果遭難したという間抜けな事情を彼女に語ることができなかった。たとえ語ったとて彼女が笑ったかどうかは甚だ怪しかったが。

 何を言っても魔女はろくろく反応を示さず、薄い相槌しか返さなかった。だから彼は元来の明朗な弁舌を振るうことはできなかった。


 それでも、魔女の家は居心地が良かった。些か不気味なほどに。


 魔女の家は常に雪に覆われており、いつ窓の外を見たって一面の銀世界で、恐らくはどこかの谷あいに位置しているのだろうと思われた。

 魔女の家は常に静かで、それでいて何がしかの音が絶えなかった。

 しんしんと雪の降り積る朝方に、屋根から張り出した雪庇が崩れて落ちる音を聞きながら、重い布団の下で微睡む時間の何と緩やかなことか。屋根は頻繁に軋んだ。雪の重みに家が僅かに歪み、扉の立て付けが悪くなったようになることもあった。魔女の足音はいつも規則的で密やかだった。



 やがて雪が止んだとき、彼は窓際に立って、呆然と深呼吸をしていた。魔女は暖炉の前に置かれた椅子に腰掛けたまま、興味なさげに何か書き物をしていた。


「あの」と彼は声をかけた。驚くことに、日夜同じ屋根の下で一週間ほどを過ごしたにも関わらず、彼は魔女の名を知らなかった。もちろん魔女は彼の名前を聞くことはなかったので、彼もまた魔女に名乗ったことはなかった。――言ってしまえば、彼はついぞ魔女に自らの名を伝えることはなかったのだが。


 魔女は緩慢な動きで頭をもたげる。その真っ青な両目は底知れない深みへと誘い込まれるようだった。魔女は無言で彼の続きの言葉を待っている。


「……そろそろ、帰らなくてはいけない」

 何故か、言葉は喉の奥でつっかえた。上手く舌が回らなかった。どういう訳だ。

 どういう訳だ。

「家族が俺を待っているんだ。心配しているはずだ。だから、……帰らなくては、」

 どういう、訳なのだろう。


 彼は深く項垂れた。

「――それなのに、ここを、離れがたい」

 ずっと覆い隠していた内心を吐露してしまえば、何故か両手足から力が抜けていくようだった。どうしようもない無力感に苛まれた。自分で自分が分からなかった。

「一体どうして……。俺は気でも狂ってしまったんだろうか」

 頭を抱え、彼はその腰を窓際に預ける。どくどくと耳の奥で鼓動が木霊していた。



 魔女は、その唇を閉ざしたまま、三度、瞬きをした。何か考えているような目をしていた。

「……それは、わたしが魔法をかけたから」

 少女は囁く。ともすれば炎の爆ぜる音にかき消されてしまいそうなほどに小さな声だった。

「あなたが悪いんじゃない。あなたがおかしいんじゃない」

 そこに感情の色は見い出せなかった。


「わたしが、魔女だから」



 *


 それからの数年のことは、まるで夢の中での出来事のように、浮ついて現実味のない記憶に満たされている。それは長いこと続いた蜜月と言っても差し支えがなかった。――否、正確に言うのなら、彼と魔女が恋人関係になったことは一秒だってなかった。


 とはいえ、他に誰もいない雪山で、万年雪に囲まれた小さな家の中で過ごした日々は、否定しようもなく甘やかだった。まるで世界には二人しか存在しないような気がしていた。彼は自然と山麓に残してきた両親のことを忘れていた。


 とりわけ鮮明な記憶はいくつかあった。


 晴れた空が驚くほど真っ青に抜けていた日、目に痛いほどに輝く雪原の上で、彼女が小さな雪だるまを両手に乗せて得意げな目をしたこと。負けじと彼女の背丈ほどの大きな雪だるまをこさえてやったこと。そのときはろくに関心を示さなかったくせに、翌朝見てみたら雪だるまの頭の上に毛糸の帽子が被せられていたこと。風に吹かれて壊れた雪だるまを眺めながら項垂れる彼女に、またいつでも作ってやるからと声をかけたこと。


 雪下ろしのために屋根に登って作業をしていたら、昼時に突然彼女が大屋根の上に姿を現したこと。屋根のてっぺんに雪を掘った腰掛を作って、並んで座ったまま遠くの稜線を望んだこと。彼女が持ってきた昼食を膝に乗せて一緒に食べたこと。柔らかい影の落ちる、はるか遠くの氷食尖峰ホルンを白い指が指し示したこと。二人して尻を冷やして、雪の椅子は失敗だったなと言葉を交わしたこと。


 酷い吹雪の夜、一枚の毛布に包まって暖炉を見つめていたこと。腕に触れる彼女の肩が嫌になるほど華奢だったこと。いつの間にか寝入ってしまった彼女の頭を自分の肩に乗せさせて、その背中に片腕を回したこと。炎の熱が顔に当たって熱かったこと。偶然に触れた彼女の手が息を飲むほど冷たかったこと。



 そんな記憶の数々は、しかしやがてこの生活の終わりを示した。

 ――彼の病をもって。



 *


「山を降りた方がいい」

 枕元に腰掛けた魔女はそう呟いた。この数年で随分と語る量が増えたが、それでも彼女がまだ無口の部類に入ることは変わらなかった。

「ここにいてはいけない」

 その青い目を閉ざして、魔女は息混じりに囁いた。


「分かった」と彼は咳をしながら頷く。「すぐに治してくるから」

 そう言って、彼は山を降りる道筋を思い浮かべた。今までに一度だって、この家から山を降りる道を辿ったことはなかった。けれどまあ……恐らく大丈夫だろう。


 山を降りたら、医者のところに行って、それから両親の元へ行かなければならない。そうして……そうして、

(言うのか? ……山に住む魔女のところへ戻る、とでも?)


 彼が動揺したことを察したみたいな表情で、彼女は告げた。

「――もう、ここには近づかない方がいい」

 奇しくもそれが、彼が初めて見た彼女の笑顔だった。



 彼はしばし呆然として、出会ったときと変わらない少女の顔を見据える。

「……………………は?」

 長い沈黙ののちにそう漏らせば、彼女は黙ったままゆっくりと瞬きをした。薄ら笑いをその頬に留めて、彼女はただ彼を見据えていた。


「ここはあまり体に良い場所ではないから」

 まるで、彼が山を降りて二度と戻らないと決めつけているかのような口調だった。彼は慌てて身を起こし、「待ってくれ」と首を振った。

「俺はまたここに戻ってくる。だって、俺がいなくなったら……君はまた一人になってしまうだろう」

「構わないわ。元からそうあった形に戻るだけのこと」

 なけなしの笑みを落とし、彼女は揃えた膝の上に緩く組んだ両手を置いた。

「そんなの……」

 彼は唖然としたまま、言葉を選びあぐねて瞬きを繰り返す。ろくに返事のできない彼に、魔女は鼻から長い息を吐いた。


「山を降りろと、……ここから去れと言っているの」

 そして彼女は低い声で吐き捨てた。その目は閉ざされ、普段から顕になることの少ない感情は、今度こそ窺えない。


「あなたがいなくたって、わたしは何も変わらない」

 その言葉に、急激に血が上ったような気がした。

「嘘だ」

 彼は上体を起こし、彼女の顔を睨みつける。「俺がここに来たばかりの頃、君はこんなにも口を開くひとじゃなかった。そんなに表情豊かではなかった」

 彼女は瞼を下ろしたままだった。

「それは、あなたの受け取り方が変わったから」

 性懲りも無くそんな返答を寄越す彼女に、彼は片手を伸ばす。その薄い肩を掴むと、彼女ははっと目を見張った。


「嘘だ。絶対に嘘だ。……俺がここに来て、君は嬉しかったはずだ」

 その目の奥を見据えて問えば、彼女は瞠目したまま瞳を揺らす。しかしその唇は揺るぎなく「そんなことない」と告げる。


「あなたがここから去っても、わたしはただ、ずっとここにいるだけ。……それだけのことだわ」

 もはやそれは挑戦的と言っても良いような眼差しだった。彼は自らの指先に力がこもるのを感じた。

「それならどうして、……どうして俺に魔法をかけた」

「さあ?」

 白々しく目を逸らす。その視線を逃さないように回り込んだ。しかし目と目を合わせてみれば、何と言葉が喉元で萎むことか。


「――寂しいって言ってくれよ」

 ようやく絞り出した声は情けなくも戦慄いていた。彼女の肩にかけられた片手はまるで頼りない吊り橋のようだった。力なく指先を乗せたまま、彼は深く項垂れる。

「俺がいなくなったら、淋しいって、……悲しいって言ってくれよ。そうすれば、俺は、どんなに時間がかかったって、何が邪魔したって、どんな困難があったって、必ずここに戻ってくるのに、」


 もはやそれは縋るような哀願だった。たった一言で良かった。求めているのはほんの数文字だった。別れを惜しめ、繋ぎ止めろ、求めろ、追い縋れ、……頼むから!

 あるいはほんの一滴で良かった。零れなくたっていい。頬を伝わなくたっていい。息を揺らがせる必要だってない。いずれかの目に膜が張るだけで良かった。たったそれだけのことしか求めてはいなかった。

 そんなに大それた望みではないじゃないか。爪の先ほどにでも彼女が寂寥を示してくれれば、それがどんなに些細なサインだとしても拾い上げるつもりだった。


 ――顔を上げ、おずおずと窺った先で、彼女は静かに微笑んでいた。


「どうして……っ!」

 吠えるように両肩を掴まれても、その表情はぴくりともしなかった。

「帰った方がいい。麓にはあなたを待っている人がいる。ここは人が住むにはあまりにも寒すぎる。このままではあなたが死んでしまう。……わたしは死体を処理するのは嫌いだから」

 素っ気なく告げて、彼女は両肩に乗った手を振り払うように立ち上がる。

「明日は快晴で、ここ最近の降雪も少ない。歩きやすい日になると思うわ」

 その言葉は、暗に『出ていけ』と示していた。



 *


 玄関の前で、魔女は、一度だけ、彼の額に指先で触れた。

「魔法を解きましょうか」

 その表情は常のごとく淡白で、声音にも平静と変わったところはなく。旅装の彼と向かい合ったまま、魔女は声もなく目を閉じた。


「あなたがここから離れがたいのは、わたしが魔法をかけたから。その魔法を解いてしまえば、あなたにはもう、ここにいる理由なんてない」

 額に軽く押し当てられた二本指の腹。いつ触れても彼女の指は冷たかった。


「これで魔法は解けた」と魔女はそう言ったが、彼は何の変化も感じることはできなかった。面妖な顔をしてその目を見下ろせば、彼女は少し困ったように目を伏せる。


「何も変わらないじゃないか」

 呟くと、魔女は静かに囁いた。

「即効性ではないから」

 はたりとその手を落としながら、彼女は腹の前で十指を絡ませた。

「山の下は夏。もうどこにも雪なんてない」

 念じるように、彼女は声を潜める。「あなたが山を降りて、そうして、……もしも思い出が邪魔をする日が来たとしたら、」


 不意に、その双眸が強い光を湛えて彼を見据えた。初めて見たときには青玉サファイアのごとく見えたその瞳は、今はまるで異なって見えた。

(これは氷だ。雪の深いところにある頑なな層だ。凍った湖の水底だ)


 彼女は森閑とした眼差しをしていた。

「――あなたが再び雪を踏んだそのときに、魔法は溶ける」


 一瞬だけ、その目元に苦しげな歪みが走る。

「魔法を解かないで。ずっと魔法にかかったままでいて」

 そう囁いて、彼女は顔を伏せた。「それが、わたしのためだと思って、……もうこの雪山には足を踏み入れないで」


 彼女が初めて口に出した、それはどこまでも残酷な願いだった。二度と近づくな、されど、心はずっとこの家に、この日々に、――彼女に繋ぎ止められたままでいろ、と。

 結局、終ぞ彼女は手を伸ばさなかった。そばに居てくれと乞うことは決してなかった。



 ***


「嘘みたいな話だろう?」

 店主は不意に冗談めかした口調で肩を竦めた。「なに、俺の作り話だと思ってくれて構わない」

 そう言いながらも、店主の双眸には隠しきれない苦みが混ざっていた。


 私は既にグラスを干していた。空のグラスの底には半円の水溜まりが残っているばかりだった。呆然と店主を見上げたまま、私は「嘘なんですか、」と馬鹿みたいな質問を投げかける。


 南国の甘ったるいような空気が、時間とともにのったりと動いていた。波打ち際に幾度となく寄せては引いてゆく水音。輪郭の判然としない遠くの笑い声。風にその葉を揺らすヤシの囁きと、道路に落ちた濃い影。そうしたすべてが、私を取り巻いていた。

 際限なく緩みきった気配の中にいると、何だかやにわに店主の話が信じられないような気がしてくる。ただ瞬きを繰り返す私に、店主は「どうだろうな」と、これまた分からない返事を寄越した。


「取り敢えず俺は、今の話を実話という体で続けるが」

 店主は前置いて、私の前に甘いジュースを一杯置いた。サービスだと思って良いのだろうか。

「それから俺は山を降りて、医者のところに行った。放置するのはまずいが、薬を飲めばすぐに治るような病気だったから、快復はすぐだった」

 その口調はごく淡々としていた。私は目の前で汗をかいているグラスに触れることもわすれて、彼をじっと見上げる。


「それで」と私は掠れた声で呟いた。口の中がからからに乾いているのを自覚した。

「……それで、山には、戻ったんですか」

 一瞬だけ、店主の目に不思議な光が宿った気がした。また馬鹿なことを訊いた、と私が悟ったのはその直後のことだった。


「……今でも、あの家へ続く道のりを、夢に見る」

 店主はただそれだけ答えた。

「慣れ親しんだ村から彼女のいるところへ繋がる道を、……その反対向きに、一度きりしか辿ったことのない道を、今でも鮮明に覚えている」

 彼は瞑目していた。

「何度も振り返ったからだ。一歩踏み出すたびに、跡のない雪面に刻まれた唯一の足跡を顧みたからだ。足裏に触れては崩れほどけてゆく、儚い雪の感触を噛み締めたからだ」

 店主の言葉を取り巻く響きには、ひんやりとした静謐な空気が流れている気がした。

「耳が痛かった。白い息が右から左に向かって流れていったのを覚えている。鼻先が湿ったように冷えていた。指先は痺れるようだった。身体の内側ばかりが熱かった」



 そのとき、海鳥の声が通った。はっと我に返ってみれば、窓の外に広がる晴天は突き抜けるように高かった。木を組んで作られた店内は、日向とは対称的に強い陰の中に落ちている。目が慣れてしまえば、外を仰いだ際に視界がキンと眩むようだった。


「帰ったら恋人に言ってやりな、『愛している』って。確かでもないのに愛を囁くのが不誠実だと思うんなら『まだ分からない』とでも言って傍にいればいい」

 店主は静かに微笑んでいた。

「大切かもしれない人を本当に愛しているか分からないのなら、隣で自分の気持ちを確かめるのが一番だろう」

 私は黙ったまま項垂れた。向き合うことから逃げたのを咎められているような気がして、身を縮める。


「近づいて、触れて、確かめて……本当にはその人を愛していないと気づいたとしても、それはそれでひとつの経験なんだと、……そう思う」

 店主の言葉には謎の重みがあった。私は更に項垂れる。それでも言われっぱなしは少し癪に障った。私は顔を上げ、言い訳がましく呟いた。


「あなたには言われたくありません」

 それまで訥々と語っていた店主は虚をつかれたように目を丸くし、それから声を上げて笑い出す。「その通りだ」と彼は大きく頷いて、片手で頭を掻いてみせた。



 *


 店を立ち去り際、店主は私に「頑張れよ」と声をかけた。私は苦笑ぎみに頷き、軽く頭を下げる。

「その、先程の話……」

 言いかけた私に、店主は「あれは気にしないでくれ」と手を横に振った。私は首を左右に一度だけ動かして否定すると、ややぎこちなく微笑んだ。

「あれが本当の話なのか、それとも何かの比喩なのかは分かりませんが、私は……会いに行かれるのも悪くない選択だと思いますよ」

 私がそう言っても、店主はただ静かに微笑んだだけだった。



 さんさんと降り注ぐ日差しの中に、くっきりと濃い影を落としながら歩いた。常夏の島はやはり非現実味に覆われていて、歩いているのに足が地面についていないような感覚に襲われる。あるいは熱に浮かされているのか?

 最後に店主が漏らした、ほとんど独り言のような一言を、私は胸の内で反芻しながら歩いた。


『彼女は本当に魔女だったのだろうか』


 私は本当に、あの店で店主と言葉を交わしたのだろうか。

 …………それはまるで、夢のような。



 ***


 結論から言えば、私は帰還してすぐに恋人とよりを戻した。よくよく考えてもみたが、傍に居たい相手も傍に居て欲しいひとも、恋人をおいて他にいなかったのである。


 結局、――幸運なことにと言おうか――それからの私の人生は幸福な忙しさによって彩られ、ついにあの島を再訪して店主に結果を話すことは叶わなかった。

 しかし、あの、時針が一回りするよりも短い間の邂逅は、常に私の心の一部に光とも影ともつかない複雑な感情を落とし続けている。



 晩年になって、私は一度だけ、最も気に入りの孫にこの話をしたことがあった。しかし幼い孫はろくろく興味も示さず、不思議そうな顔で「ふーん」と首を傾げたきりだった。


 その孫は、今も私の枕元で本を読んでいる。子供の呼吸は健やかな律動を保ったまま、部屋の中に連続していた。穏やかな息の音を聞きながら、私は覆い被さってきた眠気にゆったりと瞬きをする。



 彼は雪を踏んだだろうか。溶かしただろうか。

 そんなことに、私はしばしば思いを馳せた。


 かつて一度だけ訪れた、現実離れしたあの南の島の光景が。

 雪山の中に、一軒の家がぽつんと佇立している、見たこともない幻が。


 いつまでも私の瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。























 卒業旅行にと友人と連れ立って来た島は、幼い頃に一度だけ聞いたことのある名前をしていた。僕は友人たちにことわって、話を聞いた際に出てきた店を探しに街を散策することにした。幸運なことに、少し出歩いただけでそれらしき建物を見つけることができた。


「こんにちは。やっていますか?」

 店の扉を開けて出てきた人に声をかけた。エプロンをしていたから店主だと思ったのだが、そこでふと僕は首を傾げる。……話では、年上の男性だと聞いていたのだけれど。


「ええはい。今開くところ」

 その人は鷹揚に頷いて、わざわざ目の前で吊り看板をひっくり返してくれた。営業中、と文字が並ぶ。それからこちらを振り返って小さく笑った。その目に視線が吸い寄せられて、ついつい僕は口を開いていた。


「綺麗な目ですね」

「よく言われます」

 店の前に立ったまま、店主は小さく笑った。

「どうします? 入っていかれますか」

「ああいえ、友人を待たせているんです。ごめんなさい」

 慌てて非礼を詫びてから、僕はおずおずと店を見上げる。


「幼い頃、この店の話を聞いたことがあるんです」

 そう呟くと、店主は少しだけ目を丸くした。その顔に浮かんだ感情が何だったのかを咄嗟に掴み損ねて、僕は当惑する。

 沈黙を埋めるようにして、僕は口をついて出るがままに言葉を唇に乗せた。


「でも、そのとき聞いた話では、店主は年上の男性だったって」

 しかし、今目の前にいる店主は、せいぜい僕と同じ程度の年齢の女性だった。その目がやけに特徴的だ。――まるで海のように深く青い。



「ああ、それは、先代ですね」

 店主はその眼差しに寂寥を混じらせながら呟いた。

「お父様ですか?」

 問うた僕に、彼女はただ黙って微笑むことで答えたのだ。

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