異世界から転生してきた勇者の憂鬱な日常 ~転生なんて碌なもんじゃない~
放課後の学校……授業も終わり掃除の時間も終わり、帰宅する生徒、部活に行く生徒と分かれ始めるその時に、俺はどちらにも属さず、ほぼ人のいなくなった教室でダラダラと机に突っ伏していた。
俺以外にも教室内に残り駄弁っている生徒は何人かおり、みんな思い思いに放課後を過ごしている。
「異世界物流行ってるよなー。俺も異世界行きたいわー。転生でも召喚でもどっちでもいいけど、チートでハーレムとか最高じゃん」
そんな中で、向かいの席の俺の友人である宗島は、椅子に逆向きに座りわざわざ俺の方を向いて、登校時に買って来たというライトノベルを広げていた。
挿絵が好みで買ったという事なのだが、どうやら内容も好みだったらしく半分以上は読み進めていた。
俺達の周りにも同じように何人かがダラダラと益体も無い話を駄弁っているのだが、宗島も本を読むのであれば図書室に行くか、家に帰って読めばいいのに、わざわざ学校で読んでいるのがよくわからない。
もしかしたら俺みたいに帰宅するのが面倒とか思っているのだろうか……今回の俺は人を待っているのでちょっと事情が違うのだが、もしもそうなら少し親近感が湧いてくる。
「モテたいなら現世で頑張れよ。来世に期待したって碌なことないぞ。転生なんて、しないに越したことはない」
「んなこたー解ってるよ。お前はいいよなー。たいしてイケメンでもない癖にめっちゃ可愛い幼馴染の彼女が居るんだからよ」
本から目を話して、俺を睨みつける宗島は恨みがましい声で呟いた。言い方がぶっきらぼうになってしまっていたのでそれで怒らせるかと思ったのだが、どうやら俺に対しての文句はそこには無いようだった。
確かに俺には彼女が居るし、俺が全然イケメンではない……むしろちょっと不細工なレベルであるのは自覚しているのでそこには反論しない。
オブラートに包んだ表現をして、対してイケメンでもないという言葉に止めてくれた宗島に感謝しつつ、俺は待ち人である自身の彼女について話を広げることにした。
「幼馴染って言っても小学校の時から一緒ってだけだからな。幼馴染ってもっと幼稚園とか、それよりも前の小さい頃から一緒の事を言うんじゃないのか?」
「いや、小学校から一緒は十分に幼馴染だろ。幼い頃からの友達を幼馴染と言うんだから。俺もそんな幼馴染が欲しかったよ……」
「そもそも幼馴染の定義はどこからなんだろうな? 幼稚園? 小学校? 中学校? 幼い頃が子供と言う点を指すのであれば、実は幼馴染の定義は俺達が考えるよりもずっと広いのかもしれないぞ?」
俺の一言に、宗島の目が鋭くなる。
「……詳しく聞こうか。」
宗島は本を閉じて机の上に置くと姿勢を正した。ふむ、実は適当に言っただけなのだけれども、これは考えてみると面白い話かもしれない。
幼馴染はいったい、どの時期からの友人を幼馴染と呼んでもいいのか?
子供の頃からの友人と言うのであればそれを定義するには自分達の子供時代と言うのをはっきりとさせる必要があるだろう……。俺はスマホで幼馴染についての検索を行い思考を巡らせる。そして一つの仮説を立ててみた。
「検索してみると幼馴染と言うのは子供の頃からの異性、又は同性の友達と言う事だ。しかし日本では子供の定義は……18歳が新成人、AVを借りられるのが18歳とすると、ここでは18歳未満を子供と考えるのが適切だろう」
「ほう、つまり16歳の俺達はまだまだ子供だと言う事だな。スマホでいくらでも見られるが、確かにAVは借りたことがない」
「そう言う事だ。ここで幼馴染の定義の話に戻ると、幼馴染は子供の頃から仲の良かった異性、または同性の友人の事を言う……先ほどの18歳未満は子供と言う事を合わせて考えると……」
「……そうか……16歳の俺にもまだ『幼馴染の彼女』を作れる可能性があると言う事か……!!」
「さすが宗島だ、理解が早い。そう、お前が高校1年~2年のうちに彼女を作り、その彼女と長続きすれば大人になった頃には立派な『幼馴染の彼女』になるんだ! 高校生のうちは幼馴染とは言えないかもしれない! しかし、20歳になった時には? 25歳になった時には? 30歳になった時には? その頃には彼女はもう立派な『幼馴染の彼女』と言えるだろう! なんせ「子供である高校時代」からの付き合いなのだから! いや、もしかしたらレベルアップして『幼馴染の奥さん』になっているかもしれない!」
「俺らの未来は明るいな……!」
俺と宗島は立ち上がり固い握手を交わす。とても良い笑顔を俺に向けてくれているのだが、そもそも宗島に彼女ができなければこの話は破綻してしまうのだが、まぁそれは置いておこう。
宗島は「そうかぁ、これで俺も幼馴染の彼女持ちか……」と割と真剣にまだ見ぬ幼馴染の彼女に思いを馳せている。こいつは性格も良いし、顔も割と格好良い部類に入ると思うのだが、何故彼女ができないのだろうか?
こいつなら本気出せばすぐにでも彼女なんてこいつならできるだろうに……謎すぎる。
「何をアホな話してるのよ……」
俺の後頭部から軽い打撃音が響く。痛みは無いが少しだけ衝撃が走ったので、俺は誰かに叩かれたのだとわかり、叩いてきた声の主の方へと顔を向ける。
そこには俺の幼馴染でもあり、現在の待ち人でもあり、恋人でもある女性が立っていた。
「愛理……なんだ、用事終わったのか?」
愛理……彼女の名前を呼ぶと、愛理は嬉しそうにはにかみながら顔の横にピースサインを掲げる。何のピースサインだそれは。
「うん、終わったよ和幸。宗島君も、こいつと一緒に待っててくれてありがとうね」
「なんのなんの。染島さんのためなら勇樹と一緒でも何のその」
どうやら宗島は愛理に頼まれて俺と一緒に残っていたようだ。……別に子供じゃないのだから俺一人で待っていても全然問題ないのだが。
まるで、俺と一緒に待っていたことが罰ゲームであるように言う宗島に少しだけ憮然としたものの、また確かに彼女持ちの友人と一緒に待つとか、逆の立場なら罰ゲームかもなと少しだけ納得した。
とりあえず、デレデレとだらしない顔を愛理に向ける宗島は放っておいて、俺は改めて自身の彼女を見てみることのした。
少し茶色の入った黒髪を肩のところまで伸ばしたショートヘア……ショートボブって言うのかこういうのは? ファッション詳しくないからわからないが・……。まぁ、髪の長さは好みではある。
そして目つきは少し鋭いかなとも思えるが、意志の強さと活発さが見える目元、筋の通った形の良い鼻、薄い桃色の柔らかそうな唇……。
スタイルも良く、背なんか俺よりも少し高いくらいだ。足も手も長いし引き締まっている。腰は細いのに胸はかなりのボリューム……と、天が何物も与えたのがこいつなのかってくらい、見れば見る程俺とは不釣り合いな存在だ。
「何? そんなにじっと見つめちゃって? 私が居なくて寂しかった? よーしよしよし」
まるで動物を扱う様に愛理は俺をその胸の中に抱きしめて、俺の頭を掌でわしゃわしゃと撫でてきた。形の良い胸に挟まれ、頬に柔らかい気持ちのいい感触が伝わってくる。
抱きしめられた俺を見た周囲の男子たちは嫉妬交じりの唸り声をあげ、女子たちは黄色い声を上げるのだが、その目は明確に「相手が俺じゃ無かったら……」と言っているようにも見えた。被害妄想が過ぎるかもしれないが、少なくとも俺もそう思う。
「愛理……流石にみんなの前ではやめてくれ……恥ずかしい」
「私は恥ずかしくない」
中々に天国な状況なのだが流石に教室でみんなの前と言うのは恥ずかしく俺は赤面するのだが、愛理は自分が満足するまで離してはくれなかった。
実は腕力でも俺は愛理に敵わないので抵抗してもなすがままだった。周囲の目を気にしなければ天国と言えば天国なので俺はせっかくなので両頬の感触を楽しむことにした。流石に手を回して抱きしめ返すのはできなかったけど。
「染島さん……なんで勇樹と付き合ってるのさー。俺と付き合わない?ほら、宗島と染島で苗字も似てるし」
「そうね。来世で最初に出会ったら、考えてあげても良いわ」
「やっぱ転生するしかねーじゃねーか!」
「でも、来世でも私はきっと和幸を好きになると思うけど。私も女の子だし、生まれ変わってもまた恋人同士とかそう言うの素敵だと思うの」
「転生してもダメじゃねーか!」
「あの……愛理さん……そろそろやめません……? 流石に俺が恥ずかしいです……」
宗島が魂の叫びをあげているが俺の耳にはほとんど届いていなかった。
抱きしめられたままそんなことを言われるとはどんな羞恥プレイだと俺はますます頬が熱くなる。愛理は満足したのかその後すぐに俺の事を離してくれたが、俺の頬はしばらく熱いままだった。
「それに、いつも言ってるでしょ。私と勝負して負かしたら和幸と別れてあげるって。私と付き合いたいなら、まずそれをしないと」
愛理は胸を反らしながら自分の事を右手の親指で指し示す。
そうなのだ……こいつはモテる。当然ながらモテる。たぶんゲームやアニメとかでメインヒロインを張ってるんじゃないかってくらいモテる。俺と付き合ってようが関係無しに日々告白されているのだ。
……と言うか俺と付き合ってるからお構いなしに告白され続けているんだろうな。
そんな中でこいつはとんでもない事を中学の時に宣言した。「私と勝負して挑戦者が勝ったら和幸とは別れてあげるわ。勝負方法は何でもいいけど変な事なら断るし二度と勝負は受けないからね」と……。
その宣言と同時に告白はとんでもない数に膨れ上がった。ありとあらゆる部活動の連中が自分にもチャンスがあるかもと勝負を仕掛け……そして敗北していった。
運動部はもちろんの事、文科系の将棋、囲碁、カードゲーム等色々な分野の人間が挑んでいった。勝負を仕掛けてくるのも男子だけじゃなく女子だっていた。俺と付き合っているのが許せない愛理ファンやガチ百合の人……そして愛理はそのほとんどの勝負に勝利してきた女だ。
「今日は誰だったんだ?」
「サッカー部の生嶋先輩。キャプテンの人ね。爽やか系のイケメンってところかな」
その勝負は高校生になった今も続いており、愛理の放課後の用事もその告白勝負の事だった。基本的に1日1名だけ勝負は放課後に行われ、俺はそれの決着が着くまで教室で待つという寸法だ。
そうか、今日はサッカー部の……俺でも知ってるイケメンの人だな。愛理はなんであの人をイケメンと認識できるのに俺に愛想をつかさないのかな。
「ふーん……勝ったのか?」
「うん、リフティングで先にボールを落とした方が負け勝負ね。当然、勝ったよ」
なんか地味と言うか正々堂々と言うか……中学の時の方がえげつない勝負が多かった気がする。サッカー部全員対愛理1人とか……いや、それでも勝ってたこいつは異常だと思うが。
そこで俺はふと、愛理の足の方に目をやった。そこにはスカートから覗く白い太ももが露わになっておりその眩しさに俺は少し目を細める。
「お前まさか、スカートのままでリフティングしたのか?」
「そうだけど? 大丈夫だよ下着は見えない様にやったから」
そう言う問題ではない……生嶋先輩……たぶん太腿に目を奪われて負けたんだろうな。きっとリフティング勝負って言って、スカート姿で恥ずかしがる愛理になら勝てるって思ったんだろうなぁ……。
せめて愛理がジャージを下に履いていたらもう少し時間がかかっていたのかもしれない。
「しかしなぁ……こんな茶番な勝負いつまで続けるんだよ。これで戦績は?」
「たぶん137勝2敗ってところかな」
頬杖を突きながら俺はため息をつく。こいつはほとんどの勝負に勝ってきたが、決して負けたことが無いわけじゃない。いままでに2敗しているのだ。
つまり、俺とは2回別れている。
初敗北は中学の終わりころ……確か剣道部の主将に挑まれた勝負で、剣道部員100人抜きと言う勝負を挑まれた時だ。空手の100人組手かと呆れたものだった。
剣道部にそんな人数いるわけないだろと思ったのだが、その勝負のためだけに全校生徒の男子のほぼ全てが剣道部に入部するというあまりにもえげつない手段が取られた。
そして練習に練習を重ねて、剣道部員の上位100名が愛理1人と勝負することとなった。
あまりにも酷すぎるので俺は愛理に勝負を受けなくてもいいと忠告したのだが、愛理はそれを聞くことなく勝負を決行した。
勝ったらご褒美に、ちょっとお高いレストランにデートに連れて行ってねと俺に言って。
そしてその結果……こいつは95人目で負けた。
負けた時……俺は愛理に剣道部の部室に呼び出され防具を外したばかりの愛理に「ごめん……負けちゃった……和幸……別れよう……」と涙目で言われてしまった。
その時、俺はそれをみんなの目の前で快諾した。周りの男子達は愛理の涙目に罪悪感を覚えたのか、その日は何も愛理に対してアプローチは掛けず、女子たちはどこか安堵の表情を浮かべていた。たぶん、俺から愛理が解放されたと思ったのだろう。
俺は泣く愛理を慰めながら一緒に帰った。これで明日からは俺達はただの友達同士に戻れるのだろうかと思いながら、普段言わないようなことも沢山言った。帰宅する頃には愛理には笑顔が戻っており、「じゃあ、また明日ね」と笑顔で別れたのだ。
その日、俺と愛理が別れた情報を入手した男子生徒達は、次の日にどうやって告白するかをシミュレーションし、中には徹夜する奴もいたとか言う話だ。
俺はと言うと、次の日の展開が予想できたのでむしろいつもよりも早めに就寝した。
そして次の日……俺は久しぶりに一人で登校した。愛理が隣にいないというのは少し違和感を覚えたが、なんだか久しぶりに解放されたような気分も俺は持っていた。
教室につくと、皆が俺に同情と好機の視線を送ってくる。少し居心地は悪かったが気にせず自分の席につくことにしたのだが、ちょうど同じタイミングで愛理が教室に入ってきて、そして俺の席まで来ると挨拶もそこそこに俺に告げた。
「和幸、私は和幸が好きだからまた付き合ってください」
「……やっぱこうなったか。」
そして俺の返事も待たずに俺にキスをしてきた。ほとんどのクラスメイトがいるにも関わらずだ。嫉妬と怨念の混じった悲鳴と、黄色い悲鳴が教室に響き渡り、俺はまた愛理と付き合うことになった。
結局、茶番だとは分かっていても俺も愛理の事を好きなのだから付き合わない理由は無かった。
愛理を負かした剣道部員のやつらが抗議してきたのだが「別れるけど、また付き合わないとは言ってない」と言う愛理の一言で全部封殺された。
余談だが……愛理はその数日後に100人抜きのリベンジを果たしたので、中学での愛理への告白勝負はそこで終了となった。
誰もこんな茶番をもう1回見たいとは思わなかったのだろう。俺もそう思う。
結局、その敗北は俺が愛理を慰めるのにあれこれ恥ずかしい事を言ったという事実だけが残ることとなった。もう1敗は高校入りたての頃で、同じように俺と愛理は別れてまたくっついた。
今にして思えば高校の最初の1敗はわざと負けて茶番を知らしめる目的もあったんだと思う。
それでも高校生は諦めが悪いのか、中学の時より頻度は激減したのだがいまだに告白をしてくるやつは後を絶たない……。
「じゃあ帰ろっか。和幸、ほら」
「……ん」
手を差し伸べてきた愛理の手を取り俺は立ち上がる。俺が愛理に立ち上がらせてもらったみたいで格好悪いな……。
そのまま俺は愛理と手を繋ぐ。少しだけ痺れるような感覚が俺の掌を伝い、まるで電気が流れる様に全身に走る。
「宗島君も一緒に帰らない?」
「流石に君たち二人と一緒に帰る度胸は無いので遠慮します。俺は本を読み終えてから帰るよ」
「……すまん宗島。」
空いている方の手で宗島に手を振り別れを告げると、宗島は嫌な顔せずに笑顔で応じてくれた。わざわざ一緒に待ってくれてたのにこの仕打ちはあんまりだと思うので、明日なんかジュースでも奢ろうと俺は秘かに考えた。
「宗島君にはなんかお礼しないとね。今度、お菓子でも作って渡そうかな?」
「あー……そうだな。前に作ったチョコクッキー美味いって褒めてたよ」
愛理は嬉しそうに破顔すると俺とつないでいる方の手をぶんぶんと振り回す。そのまま俺達はたわいない話をしながら帰路につく。今日あった出来事や待っている間にした話、愛理がした勝負の話などいろいろだ。
話をしていると帰宅時間もあっという間で、俺達はいつの間にか家の扉の前まで到着していた。
本当に……帰宅するというのは面倒だ。いっそのこと家につかずにずっと歩いていてもいいくらいなのに。
「ただいまー」
俺が帰宅を面倒に思っているその横で、愛理が俺の家の扉を開けて、観念した俺がその後から家に入る。
扉が閉まったとたんに、隣の愛理の空気が緊張したような張り詰めたようなものに変わったのがわかった。
俺達が帰宅したことがわかったのか、ぱたぱたというスリッパの音をさせて玄関まで移動してくる音が聞こえてくる。
母さんが俺達の事を迎えてくれるのだが、いつものことながらこの瞬間は本当に憂鬱になる。
居間から出てきたエプロン姿の俺の母さん……本名、勇樹美幸の姿が見えた。母さんは俺達二人を見ると嬉しそうに顔を綻ばせ、少し小走りで俺達に駆け寄ってくると嬉しそうに笑う。
そして俺達の目の前で止まると、母さんは満面の笑顔になった。その顔には、一点の曇りもない。
そして、母さんは俺たちの名前を呼ぶ。
「おかえりなさい。アージェス、ウルミエラ。今日も学校は平和だったかしら?」
母さんは嬉しそうな笑顔を俺達に向け、普段、学校では呼ばれている名前とは全く違う名前で俺達を呼んできた。それが当然であるかのように、微笑みながら。
……いつもこの瞬間は、本当に嫌になる。
「ただいま帰りました、イリア様」
俺の隣にいた愛理が、まるで中世の騎士の様に恭しく母さんに跪く。自分が愛理ではない名前で呼ばれたことに対しては何の反応も示さない。違和感もなく、その名前を受け入れている。
何回も繰り返されてきたことなのに、未だに慣れない俺が異常なのだろうか?俺は、せめてもの抵抗のように母さんを呼ぶ。
「ただいま……母さん」
俺が母さんを母さんと呼んだ瞬間……母さんは俺の言葉に酷く悲しそうに顔をゆがめる。まるで、子供が今にも泣きだす寸前の様で、俺が酷く悪い事をした気分になってくる。
……このやり取りも、もう何回目になるかわからない。結局、最終的には俺が妥協するしかないのがわかっているのだが、どうしても最初に俺は言わずにはいられなかったのだ。母さんと。
母さんの顔を見て諦めた俺は、改めて帰宅の挨拶を母さんにする。
「ただいま、イリア」
「おかえり、アージェス」
俺が母さんを別の名前で呼ぶと、母さんはとても嬉しそうに笑った。心の底から、嬉しそうに笑った。愛しい男から名前を呼ばれた時の様に、嬉しそうに笑った。
母さんに呼んだイリアと言う名前……その名前は俺の前世の妻の名前で、愛理を呼んだウルミエラと言う名前は、前世の俺が作ったハーレム要員の一人の名前……要は愛人の名前……らしい。
愛理は俺と母さんを嬉しそうに見ている。俺たちの仲が良く見えるのが喜ばしいのだろう。何が悲しくて、前世の妻とやらの名前を母さんに言わなければならないのか。憂鬱になる。
異世界転生は流行っている。主人公がチートを持って無双して、女の子にモテてハーレムを作って、順風満帆な、誰もが羨む第二の人生を生きる物語。そんな夢みたいな物語。
現実を忘れさせてくれる、楽しい楽しい転生物が流行ってるはずなんだ。それが転生物であるべきなんだ。
でも、俺には前世の記憶が無いのに、俺以外の全員に前世の記憶と力があり、俺の事をアージェスと呼ぶ。かつて魔王を倒した勇者だと、様々な能力を持ち一騎当千の強者だったと、女性を沢山娶ってハーレムを築いていた男だと、俺の事をそんな勇者のアージェスと呼んでくる。
俺は何も覚えてないのに、周囲は俺を勇者だと言ってくる。母さんも、幼馴染も、俺を家では勇樹和幸ではなくアージェスとしてしか見ていない。
本当に……転生なんて、碌なもんじゃない。
別作品の進みが悪い時に、合間合間に書いた話なのですが、まとまったので短編として投稿です。
少しでも、お暇潰しになれば幸いです。




