ー踏み出す一歩ー
―踏み出す一歩―
―身体が軽い。いつもと違う景色に見えるー
アリスの部屋を飛び出した杏理沙は、すぐにここが魔法の森の中だと理解した。何か不思議な力が流れている感覚。それがアリスと成美によって『魔力』という概念を知ることができた杏理沙が、自分の中でたしかに『それ』が循環し力になっているのを感じたためだ。
「次はこっち……!」
そしてそれは、杏理沙の中で確かなものになりつつある。魔力の流れを感じ取り、どこへ向かえば森の出口へ出ることができるか、感覚でわかっていた。そして気づいた時には。
「……着いた。」
気づけば杏理沙は人間の里に到着していた。走ることが嬉しくて無我夢中だったこともあるが、普段の杏理沙なら考えられない。アリスの家から飛び出したあたりで息切れしているだろう。
「はあ……はあ……でも、やっぱちょっと疲れたかな?」
呼吸を整えつつ今度は歩く。自分の身体だが、自分の身体ではないような感覚は、これから慣れていくのだろうか。
「……よし。早く家に帰らなきゃ。」
そうして帰路へつく。辺りは既に暗く、陽は落ちている。人間の里の中なので妖怪などが出没する気配はないが、それでも滅多に夜間に出かけることのない杏理沙は妙に気持ちが昂ぶっていた。
「そっか、夜の里ってこんな感じなんだ。……同じ場所だけど、違う空間にいるみたい。」
駆け足だったその足を緩めながら感慨深く思う。ちょっと見方を変えるだけで、自分の中の『世界』は違う見え方をする。
「……お姉ちゃんも、違う見方をしたかったのかな。」
まだ知らぬ姉のことを考える。自分も今までの見方ならこんなことを思いもしなかっただろう。あの手紙の通りなら、姉も魔法を習得したいがために家を飛び出したのは容易に伺える。
「僕も魔法を使いたい。僕の身体が良くなったのも魔力のおかげだって言うのなら、僕はそれについて知らないといけないし。だから……」
立ち止まる。目の前にあるのは『霧雨道具店』。杏理沙の家。
「覚悟はできている。話を聞かせてもらうよ、お父さん。」
「……ただいま。」
今までに何回、この言葉を言ってきただろうか。家に帰るたび、幾度となく口にしてきた。
「こんな遅くまで何をしていた。杏理沙。」
戸を開けた先には道具屋の店主、杏理沙の父の姿。椅子に座りつつ腕を組み、こちらを見ている。
「これ、見たよ。」
杏理沙は父の問いに答えず、懐に入れてあった手紙を見せる。
「……!。杏理沙、お前……!」
目を見開き固まる店主。その顔には驚愕と悲哀が入り混じっている。
「僕にはお姉ちゃんがいるらしいね。今まで生きてきた中で、そんな話は全くと言って聞いたことはなかったけど。」
「……できればお前には秘密にしておきたかった。」
「なにそれ……!僕のお姉ちゃんってことは、お父さんたちの娘でしょ?それをまるで存在しなかったみたいに……!」
「落ち着け杏理沙。お前の体調に……」
「それならもう心配ないよ。僕、さっきまで走ってきたけど今までみたいに倒れたりしないから。」
「なに……?」
たしかに、と店主は訝しげに首をひねる。この短いあいだに杏理沙になにかがあったのか。
「……あの人形師か。」
思い当たる節が店主には一人しかいなかった。魔理沙の、娘の書いた手紙をもってきた人物。
「僕はこの手紙を読んでから、魔法の森に行ったんだ。そこでアリスさんから聞いた。僕の身体は森の魔力で害どころか良い作用が出るみたい。身体の調子は今までで一番良いよ。」
「……体が良くなったのは良い。これから生活するのに苦がなくなってよかった。今日はもう遅い、早く……」
「待って。お姉ちゃんの話が終わってないよ。なんでお姉ちゃんは出て行ったの?この手紙で魔法の習得のためっていうのはわかる。でも、それなら家にいながらでもできたはず。それをしなかった……いや、できなかったのは。」
「…………」
杏理沙の推論に店主は答えない。
「お父さんがお姉ちゃんに魔法を習うことを禁止させたから。そして、それが我慢できなかっったお姉ちゃんは……」
「出て行った。俺たちの制止も聞かずにな。それ以来会っていない。」
店主は目を閉じながら答える。その脳裏にあるのは後悔か、悲しみか。
「……今まで会っていないっていうのも驚きだけど、やっぱり僕が気になるのはなんで今まで黙っていたかだよ。自分の娘のことだよ?教えてくれてもよかったんじゃないの?」
「…………」
「……答えないんだね。そんなに秘密にしておきたかったの?それとも他になにか理由が?」
杏理沙が投げかけてもそれ以上店主は答えない。否、どう答えるべきなのか、わからない様子だ。
「お父さんにも何か理由はあるのかもしれないけど、答えなくちゃなにも伝わらないよ。……だから、僕は。」
杏理沙は向き合っっていた身体を反転させる。その背に、父の視線が向いているのが感じ取れる。
「僕は、魔法を習得する。そうすればきっとお姉ちゃんにも会えるから。」
「……なんだと?」
杏理沙は歩き出す。今まで過ごしてきたこの家から出るため。
「いろんな偶然が重なってこんなことになったけど、別にお父さんのことが嫌いになったわけじゃないよ。……けど知ってしまった以上、知らないふりはできないから。僕は、僕のためにここから出て行くよ。」
背中越しに語る。自分が今どんな顔をしているのか、悟られまいと。
「まて、杏理沙……。」
「……ばいばい。お父さん。」
言うなり、戸を開け飛び出す杏理沙。その場に残ったのは立ち尽くした店の店主のみ。
「……子育てっていうのはうまくいかないものだな。魔理沙に続き杏理沙まで……」
「死なせはしないから安心なさい。」
飛び出した杏理沙の代わりに入ってきたのはアリス。どうやら外で中の様子を伺っていたようだ。
「お前さんか、人形師。」
「偶然が重なったとはいえ、原因は私だからあの子を放っておくようなことはしないわ。あの子と魔理沙、ちゃんと会わせてあげたいしね。」
アリスは戸に寄りかかり、腕を組みながら話す。
「あなたが魔法を嫌う理由はわからないけど、その魔法によって魔理沙も、杏理沙も救われているわ。全てを理解しろなんていう気は無いけど、いつかあの娘たちの話も聞いてあげることね。」
一方的に話してアリスもその場を去って行く。杏理沙を追いかけるのだろう。
「……人形師、杏理沙を、頼む。」
「あなたに言われなくても。」
その言葉を最後にアリスは飛んで行ってしまった。残それた父親は一人、娘たちのことを思いながらしばらく立ち尽くしていた。
「見つけた。」
空を飛んでいたアリスはしばらくした後、人里の入り口で立っていた杏理沙を発見したする。近くで着地し、背後から歩み寄って行く。
「杏理沙。」
「アリスさん……僕、僕……」
「今はいいから、そのまま吐き出しちゃいなさい。今は私しかいないから。」
「……うぅ、はい。ぐす……ひっく……」
感情が大きく揺れてしまったのだろう。杏理沙の目からは、雫が流れていた。
「……アリスさん、僕に、魔法を教えてください。」
泣きながらなので聞き取りづらかったが、たしかに杏理沙はアリスに魔法の師事を頼んだ。
「杏理沙、あなたはなんで魔法を覚えたいの?」
アリスは背中越しに問う。杏理沙は何のために魔法を習得するのか。魔法を覚えてなにをしたいのか。
「……僕が魔法を覚えてけば、きっとお姉ちゃんに会える。それに、僕の身体に起きた体調の変化。……いえ、理由をつけていますが、ちがいますね。」
ゆっくり、しかししっかりと紡がれて行く言葉。
「僕が、魔法を使ってみたいから。……結局のところ、これがいちばんの理由かもしれません。」
「…………」
杏理沙の後ろにいるアリスは答えない。アリスは杏理沙の後ろにいるため、杏理沙にはアリスの表情が見えない。
「あの、アリスさん……」
「正解。」
「え?」
「自分がやってみたいから。結局のところ、魔法使いが魔法を習得する理由はそれに尽きるわ。他人のためとか、そういうことに使う魔法は限界がくるわ。だから杏理沙のその想いは間違っていない。その思い、忘れないでね。」
杏理沙の頭に手を置き、先へと進むアリス。
「さあ、今日は私の家にきなさい。これからのことは明日話しましょう。色々あって疲れたでしょう?」
「あ……はい。」
いつのまにか涙は止まっていた。これから先、と言ったアリスの言葉に、杏理沙は先のことを考える余裕ができてきた。父のことは確かに少なからずショックだった。しかし、魔法を覚え、まだ見ぬ姉と話し、もし一緒に二人で家に帰ることができたら……と。
「僕はここで立ち止まっていられない。」
歩を進める。まずはあの綺麗な人形師の後を追いかけ、追いついてみせると心に誓う。彼女が魅せる魔法はどんなものになるのか。それはまだ、誰にもわからない。