第23話 遥先生の憂鬱
琴那を寝かし付けて戻ってきた雅は、素知らぬ顔をしている。
だが、ずっと聞き耳を立てていたことを知ってる俺が見れば、何処と無くソワソワしていた。
なので、あっしーがトイレに行ったタイミングで、俺は雅に近付いて耳打ちする。
「知らなかったのか?」
「───ッ!」
雅はギョッと目を見開いて驚いた。
まさか自分が聞いていたことがバレてるとは思わなかったのだろう。
「ゆうやくんって、本当に何なの?ちょっと、才花ちゃんにお願いしてその頭の中覗いてみたいんだけど」
「至って健康体の脳ミソだと思うぞ。それに、素人が見てもよく分からないだろ」
「そういうこと言ってないんだけどー」
若干不貞腐れている様子の雅。
……まぁ、言いたいことはわかる。
自分で客観視したときに、こんな子供薄気味悪いと思ったりするしな。
前世では“神童“なんて持て囃された幼少期だが、こっちでは彼女らにどう写っているのか。
「ゆうやくんは、その、どう思う?」
「………何が?」
「じーーーー」
考え事をしていたので、何の話か分からずに聞き返した俺を、雅は半眼で睨んでくる。
効果音を口に出してまで……。
「……ハァ。あっしーのことよ。薄々は感じてたんだけど」
その件か。
ていうか、子供に恋愛相談なんかするなよ。
「別に自分の気持ちに素直になればいいだけじゃないか?」
「………ゆうやくんって、女の子と付き合ったことでもあるの?」
「俺はまだ5歳だぞ?そんなんあるわけないだろ」
「そう……よね」
これは嘘ではない。
実は、正式に“お付き合い“というものをしたことはない。
向こうの世界では取り巻きみたいなのがいたり、可愛いペット(獣人)がいたりと、そこらのリア充よりはリア充してたとは思うが。
「そんなことよりも、来月の野球観戦だけど、雅も一緒に見に行くか?」
「あっ、その日は、ていうか来月はドラマの撮影が結構続いてるから厳しいかなぁ」
「そうか。残念だな」
雅を誘ってみたが、やはり忙しいらしい。
最近の活躍ぶりには眼を見張るものがあると、テレビのコメンテーターも言っていたぐらいだしな。
であれば、俺と同年代の友達を誘ってみることにしよう。
「そんなに私と行きたかったの?じゃあ、今度お姉さんがどっか連れてったげるよー」
「いや」
「じーーー」
「わかった。そのうち機会があればな」
「うんっ!」
大輪の花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべた雅に、ちょっとだけドキリとさせられたのは内緒だ。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
アニマル柄の入ったピンク色のエプロンを着た女性が、今日何度目かになるため息をつきつつ書類整理をしていた。
わかば幼稚園の年長クラスである『あじさい組』の担任を受け持っている、吉澤遥先生である。
二十代の半ばだが、まだ義務教育を受けていそうな容姿をしている。
つまりは、かなりの童顔であるのだが、両のお山だけがかなりの存在を主張していて、些か違和感のある身体付きであった。
彼女にとっては──自分の身体に似合わぬ大きな胸に、かなりのコンプレックスを抱いているのだ。
だが、今はそんなことよりも差し迫った悩みがあった。
「はぁ。やっぱり、嫌われてるのかなぁ」
動かしていた手を止めて、ひとりの男性の姿を思い浮かべる。
副担任の河合俊介先生である。
彼女がこの幼稚園に赴任してから、色々と教えてくれたり、親身になって相談に乗ってくれたりして、気付いたら好意を抱くようになっていた。
今の関係も悪くはないと思い、特に何もアクションを起こしていないが、最近河合先生からの雑務のお願いが多くなってきていた。
所謂押しつけであり、世間一般ではパワハラに近いのだが、彼女は単に嫌われていると思い込んでいた。
「全然心当たりないよ。わたし、河合先生を怒らせるようなことしたかなぁ」
さっきから何度も手を止めて、思案に耽っている。
そのため、あまり作業が進んでいなかった。
そんな調子で、時折考え事をしながら手を動かしていると、ドアが開いた。
入ってきたのは、副園長であるおばちゃんの先生だった。
「吉澤先生。こんなところにいらしたんですのね。もう子供たちがくる時間ですよっ。ささ、早く」
「あっ、すいませんっ。すぐ行きます!」
朝早くから仕事をしていたので、これから子供たちが来る時間であった。
遥先生は、副園長先生に急かされて、慌てて書類整理を終えると、部屋を後にした。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「おはよう。ゆうやくん」
「遥先生。おはよう」
俺は年中に上がってから、バスで通園するようになっていた。
そのため、朱美は家で琴那のお世話をしている。
時折、委員の仕事があるので一緒に行くこともあるが、基本的にはひとりで幼稚園に来るようになっていた。
歩きでも問題ない距離ではあるのだが、さすがにひとりで歩いて通うのは危ないということらしい。
自分では何の問題もないと思うが、琴那に置き換えてみると、ハッキリわかった。
成長したとしても、可愛い琴那をひとりにするなど論外だ。
てな感じで、妹の可愛い顔を思い浮かべながら、遥先生の横を通りすぎようとしたとき、ふと彼女の顔色が気になった。
「遥先生。具合でも悪いの?」
「………………」
「先生?」
「……え?どうかした?」
「先生。あんまり無理しないようにね」
俺の言葉に驚いている様子の遥先生を横目に、教室に入っていく。
そして、俺にとってのお遊びを恙無く終え、帰宅時間になった。
俺と大悟は、バス乗り場には行かず、トイレに寄っていた。
大悟とは割かし近所なので、同じバスで通っているということもあり、行きや帰りでは行動を共にすることが多いのだ。
「ゆうや。昨日はね、でっかい宇宙人がでてきてね、ア○パンマンと戦うんだけどね、ほんとは良い宇宙人でね──」
用を足しながらも、楽しそうな笑顔で話しかけてくる大悟。
本当に前話は面白かったらしく、もうこれで5回程聞かされている。
この話が脱線して長引かないように、俺は相槌だけ打ちながら、トイレを出た。
「ちょっと、吉澤先生!?聞いているんですのッ!?」
「は、はい………」
「どうしてうちの子が、幼稚園から帰ってきたら足を擦りむいているんですのッ!?あなたそれでも、わかば幼稚園の教諭なんですの!?」
「も、申し訳ありません」
ヒステリックな声とそれに応える覇気のない弱々しい声が、廊下に響いて俺の耳に届いた。
なんか面倒そうなのに捕まっているようだ。
隣で呑気に欠伸をしている大悟を連れて、玄関口へ歩いていく。
玄関口の側にある靴箱の前で、遥先生がふたりのマダムから詰問を受けていた。
簡単に言うと、幼稚園から帰ってきた子供が軽い怪我をしていた。
ちゃんと見てたのかというものだった。
そのマダムが手を繋いでいる子供の膝には確かに絆創膏が貼ってあるが、あんなのどこで怪我をしたかなんてわからんだろう。
それに、この程度で騒ぐとは……。
「これは、委員長である桐沢さんにお話しして、園長先生のお耳にも入れさせて頂きます」
「そ、それだけはッ」
「子供たちを監督しなければならないはずの教諭が、怪我を防ぐどころか気付かなかったなんて、ほんとうに嘆かわしいですわ」
「………………」
「診察料の肩代わりは当然として、責任を──」
フラッ───。
終始低姿勢で、不愉快な感情を噯にも出さずに話を聞いていた遥先生は、突然よろめいて後ろに倒れようとする。
「大丈夫?遥先生?もう、無理しないでって言ったのに。しょうがないな」
瞬時に遥先生の背後に移動した俺は、右手で彼女の背中を支えながら、話しかけた。
しかし、意識が混濁しているようで目の焦点が定まっていない。
「ちょっと、吉澤先生!?まだ話が」
「まさか、寝不足なんですの!?それで──」
「おい。…………黙れ」
「「───ッ!」」
俺の殺気を真正面から受けたふたりのマダムは、抗うことなど微塵も叶わず、その意識を闇に落とした。