005 慣れたし、何回してもいい
―――ザッ、ザッ、ザッ
昼前、公園に足を滑らせる音が響く。剥げかけた芝生の上に6対の杖、その付近を反復するサファイア。青く光る杖をタッチすると杖は光を消し、他の杖が光ると、サファイアはそれをすかさず、次々とタッチする。傍には時計を眺めるルーク。
「2、3、4、5、6、7、8」
「ストップ!」
小声で数えるサファイアに、ルークが5分経過を告げる。ルークの声でザッ、っと足に力を入れ、サファイアは止まる。顔を上げて、ふぅと真剣な目で息を吐くと、張っていた気を緩め、肩で大きく息をして、呼吸を整えていく。
「198回……すごいぞサファイア、昨日より7も増えてる。これなら目標の250も近いな」
「……」
「……まだ怒ってるのか。もう忘れろよ、あんなこと」
ルークは褒めたのに、サファイアは不貞腐れたままだった。先ほどランニングから帰ってきて鎧兜を脱いだ瞬間、公園の子供たちから『あー、オハヨロイだー』とからかわれ、それをまだ根に持っていたからだ。ほぼ毎日公園から街を一周して戻ってくるランニングを続け、ここひと月ほどは兜付きのアイアンアーマーを身に着けて走っていたため、朝方ガシャガシャと音を鳴らして走る姿は、オドラノエルの朝早い住民たちの間で有名となっていた。
二人がアルフと出会ってから3か月ほどになる。そろそろ夏の大会の時期だが、最初にアルフが宣言したとおり、サファイアに秋の大会まで出場予定はない。ファナは張り切って参加する予定だが、おそらく1勝も難しいだろう。トレーニングにも変化はないし、たびたび休んで寄宿舎でごろごろしている。変わったことと言えば、春大会以降、あの古びた剣をトレーニングに使い続けているという部分だけだ。サファイアも変わらずランニング、素振り、杖タッチを欠かさず行っていた。
「だってあと3か月も、それかもっとずーっと言われるかもしれないもん。一周するタイムだって90分まで全然到達できないしさぁ、やってて意味あるのかなーって感じだし……」
サファイアはその場に座るなり、足腰をほぐすようにストレッチを始める。初期の筋肉痛騒動で懲りたのか、サファイアはトレーニング後の体のケアを念入りにするようになっていた。
「意味がないわけじゃないぞ? 現に少しずつだけどタイムは縮まってきてるし。レザーアーマーで走ってた頃に比べたら、驚くくらいスタミナが上がってるはずだ。走り終わった後の息切れだって、しなくなってきてるだろ?」
「うーん……あんまり実感ないんだよねぇ。早く試合してみたいな。何がどう変わったのか確かめたいし」
「秋まで我慢しないとな。おっさんからは夏大会は参加も観戦も厳禁って言われてるし
「4」
夏大会出場禁止と聞いてサファイアはつまらなさそうにしながら、ルークがこっそり手に表した数字を読み上げる。観察力の訓練として、ひと月ほど前から始めている。ルークかアルフのいずれかが話をしている間に指でさりげなく数字を表し、気付くことで相手が次にどんな行動を考えているのか、反応できるようになるのだという。当のアルフは、新しい訓練の準備と言って公園から離れている。サファイアは訓練に大分慣れてきており、ランニングや素振りに費やす時間が短縮できるようになったため、今日から新しい訓練を始めることになった。
「よう、戻ったぞ。準備するから待ってろ」
「5」
「今は手を上げただけだ」
......
「―――で、新しい訓練っていうのがこれ?」
「そうだ。今日からは素振りの替わりにこれをやる」
新しく用意された異様に重たい剣。剣先と、そこから手の大きさ一つ分過ぎたあたりの刃に赤い印が塗られている。肩と同じ高さの棒の上に突き刺さった、顔ほどの大きさのボールには、12時方向を中心に、45度間隔で帯状の赤い印。
「剣についた赤い印が、ボールについた赤い印にちゃんと触れるように当てるんだ。横切り、縦切り、斜め切り、突き、をなるべく均等に行うように」
「……難しくない?」
「ちゃんと合わせるように当てないと、電撃魔法が発動して手が痺れるようになってるから、痛いの嫌なら外すなよ」
サファイアは試しに剣の腹でべちんとボールを殴る。その瞬間びびびびと強烈な電流が手のひらに走り、とっさに剣を離してしまった。
「あいったぁー……な、なにこれすっごい痺れた……」
「外すなよ」
「もー……これなら普通の素振りのほうがいいなぁ。そっちなら何回だってしちゃうのに」
「剣振ってるだけで強くなるわけないだろ。文句垂れてないでさっさとやれ。いつも通り100回を10セットな」
「鬼だな……」
愚痴るサファイア、苦笑いするルーク。新しく始まったトレーニングをルークは手記に細かくメモする。
『敵の急所を的確に突く訓練。』
一方、提出する日誌には。
『ランニング、素振り、反復横跳び実施。午後は自由時間。』
......
「……」
不機嫌そうにむっすりとしながら、サファイアはファナにあーんされて食事をとる。サファイアの手は痺れすぎて感覚がなくなり、まともに動かせなくなっていた。アルフが言うには、明日の朝にでもなれば治るとの話だが。朝の子供たちから付けられた不名誉な名前と併せて、アルフが爆笑してアムニスに怒られる。
「今日は散々だった。もうやりたくない」
「今日はゆっくり手を休ませてくださいね。何かあれば呼んでください」
「明日もやるんでしょ? もう辛いなぁ……はぁ」
「いいかサファイア、ちゃんとできれば問題はないんだよ。ちゃんとできないからダメージを受けるんだぞ」
「三人とも熱心なことで。私たちは明日はゆっくり休ませてもらいますけどねー」
「そういえば明後日は夏大会かぁ。二人とも頑張ってね。私は応援に行けないけど」
サファイアからエールを送られ、ファナは両手をぐっと握って張り切る。ファナは明日1日ゆっくりと休み、体調を万全にして大会に臨むらしい。3か月間美味しい食事を摂っていたせいか、割と今回は自信があるようだ。今回もアルフのお墨付きを受けた古い剣で挑む。ファナの手のひらは皮が厚くなり、豆は完治していた。
いつもと変わらない夕食は、6人の楽しげな声に包まれた。壁の外から聞こえてくる虫のささやきは、夏の訪れを告げようとしていた。
......
それから3か月後。暑い季節が過ぎ、涼やかな風が時折街の中を巡るようになる。サファイアはここ1週間ほど、手に痺れを感じたことはない。杖タッチもどんどん平均回数が上昇しているし、朝のランニングもほとんど途中に歩くことはなくなった。困った点があるとすれば、呼び名が『オハヨロイ』から『メザーマー』に変わっていたことくらいか。
「いよいよ明日だな。生まれ変わった姿を皆に見せてやれ」
「試合中はここで寝てていいよ。優勝スピーチの時には来てくれれば」
サファイアは自室でルークに手伝われながら入念にストレッチをする。明日はいよいよ秋大会。半年間の訓練の成果を見せる日がやっとやってきた。前大会のリーグ内でコテンパンに全敗したファナも、再びリベンジの炎に燃えている。
2人ともトレーニングは昨日早々に切り上げ、今日は体調の万全化に努めている。ルークもストレッチの補助や、大会中のサファイアのケアの予習に余念がない。サファイアもルークも、アルフが来て体も心も変わっていた。今回ほど自信に満ち溢れた大会もない。二人は静かに心の中で、アルフに敬意を払った。
「アルフ、いよいよですが」
「……なるようになるだろう。第二幕はもうすぐ開く」
アルフの部屋。アルフは目を閉じ、アムニスはアルフの隣に寄り添うように座り、自前の細く黒い小剣を念入りに手入れする。二人はそれ以上、喋らなかった。
それぞれの夜は、秋虫の鳴き声とともに過ぎていった。