004 こんなに痛いなんて思わなかった
―――ガチャリ
ドアが力なく開き、ゆっくりと隙間が広がっていく。そして、ずる……ずる……とドアの奥から青い影が蠢き、這い出てくる。「それ」と廊下で出くわしたアルフは、顔色一つ変えず、口を開いた。
「……だからストレッチはしておけと言っただろ」
「こ、こんなに痛いなんて思わなかった……」
呆れたようなアルフの言葉に、力なく応じたそれは、ぼさぼさの長い髪の毛を地面に大きく広げたサファイアだった。昨日レザーアーマーを着けたランニングと杖タッチを終わらせた後、ストレットをさぼったためか、サファイアはふくらはぎを中心に足全体がひどい筋肉痛に見舞われていて、立つことができなくなっていた。
「まったく……その様子じゃ今日のトレーニングは無理だな。特別にトレーニングは休ませてやるから、ゆっくり体を回復させておけ。でもちゃんとメシは食えよ」
「はぁい……」
サファイアは力なく返事をすると、よたよたと半身を起こし、そのままのそのそと洗面所へ向かっていく。アルフはそれを見ながら、俺にもあんな時代があったなぁと感慨に浸りつつ、リビングへ向かった。リビングではすでに、アムニスがサファイア用の朝食を作り終え、他の4人の朝食の準備に取り掛かっていた。
「おはよう。サファイアが筋肉痛で動けないから、今日は訓練無しだ。うまいもの食わせてやってくれ」
「アルフ、おはようございます。はい、わかりました」
うまいものの意味をアムニスは理解し、いそいそと材料を追加して、引き続き料理に取り掛かる。サファイアの朝食は、アムニスのおやつに回されるだろう。アムニスへ食事の指示をし終えたアルフは、その足でルークの部屋へ向かった。
「おはよーさん」
「……」
「あんまり眠れなかったんだろ」
ドアを開け、ルークに挨拶する。ベッドの上に腰かけ考え事をしていたルークはアルフの存在に気付くが、返事はしない。ルークの心境を察したアルフはからかうように声をかけた。
「なんでわかるんだよ」
「おっさんの感ってやつだ」
フン、とそっぽを向くルークに、アルフは言葉を続ける。
「悩んでるようだが、気にしないでいい。いいか、人ってのは一朝一夕で何かができるようになるわけじゃない。サファイアがいい例だし、それは俺もお前も同じだ」
「……何が言いたい」
「あいつには、お前が必要だ。ここにきて4年間、お前たちはずっと一緒にいたんだろう。出会って数日の俺なんかより、お前の方があいつを理解している。今あいつを鍛えてやれるのは俺だけだ。だけど、支えになってやれるのはお前だけだ」
「……」
「まあ、ゆっくり考えてみることだな。これからどうしていけばいいかは、お前が決めることだ」
アルフは言い残し、部屋を出ようとしたが、ルークはそれを呼び止める。
「お、俺は……やる気がないわけじゃ、ないんだぜ。昨日はちょっと……その、なんだ。ちょっとあんたに……ムカついてただけだ」
たどたどしくアルフに想いを告げていく。ルークは真剣そうにトレーニングに打ち込むサファイアを見て、俺よりアルフがいいのかと、少し妬いていた。実用的なトレーニングの知識をもって、的確に指導しているアルフに劣等感を持っていた。何よりも、それまでの自分の指導はいい加減なものだったのかと考えさせられていたからだ。
「少しでもやる気があるなら、アムニスに声をかけてみるといい。あいつは色々と本を持っているから、時間を見つけて読んでみるといい」
「ああ……」
「それと、自分はこれから変わるんだって、サファイアに意思表明でもしてみるといいかもな」
アルフは言うなり部屋から出て、再びリビングへ戻っていった。アルフの姿が見えなくなると、ルークは小さくありがとうと言った。
「アルフ、調子はどうですか?」
「うまくいっているよ。これからが本番だ」
リビングへ戻ってきたアルフに、アムニスは尋ねる。アレフの返事を聞くと、アムニスは安心したように笑顔を浮かべた。
刹那、大きな破裂音が響く。何事かと音のした廊下へ二人が顔を向けると。
「最っ低!!」
どたどたと廊下を鳴らしながら、顔を真っ赤にしたサファイアが下着姿でドアの前を横切っていった。
「……調子は、どうですか?」
「……うまくいっていると思うよ。これからが本番だし……」
再び尋ねられて、アルフは少し濁した。ティリーナはまだ寝ている。ファナは破裂音で目を覚ました。
しばらくして、6人は食卓を囲む。サファイアがひどい筋肉痛になってしまったので、今日のトレーニングは無くなった。筋肉痛を早く回復させるためには、たっぷりの栄養と休息が必要である。普段は明け方からランニングをするため、軽い食事を摂ることにしているが、今日は朝からしっかりと朝食をとることにした。サファイアだけは、小鉢が一つ追加されている。アムニス特製の栄養満点サラダだ。しかし、それを口に運ぶサファイアはむすっとして、ルークと目を合わせようとはしなかった。ルークの頬には平手の形の赤い跡が残っている。
「ルーク、順序は守れよ?」
「ちげえって……」
からかうアルフをルークはすぐ否定する。顔でも洗おうかと洗面所へ向かったところ、着替えをしていたサファイアと鉢合わせしたらしい。ティリーナも、いきなりひっぱたいちゃダメでしょとサファイアに言うが、だってルークが……と聞く耳を持たなかった。アルフはその様子を見て大きく笑った。アムニスも一緒に笑った。
......
サファイアがトレーニングを休んだので、ファナも一緒に休んだ。サファイアはベッドに座って足を冷やしながら、ファナと一緒に遊んでいる。ファナの手はひどく荒れていた。アルフはファナの手が少し気になり、ティリーナに声をかける。
「なあ、あの子の手なんだが」
「口出しは不要よ」
「……いや、どうしてあんな風になってるのかってな」
「さあ。あの子の体がトレーニングに付いてきてないんじゃない?」
さあ、なんてトレーナーから出るセリフか……と口を出したくなったがそれを飲みこみ、そうかとだけ返事をする。武器が合っていないんじゃないかとファナの近くを見回すと、備品エリアに立てかけている古い剣が目に留まり、アルフはそれを手に取った。古ぼけてはいるが匠な装飾が掘られ、若干心地よい冷たさを感じる。風の力を宿した魔法剣のようだ。
「これは……いい剣だな」
「やっぱりわかる? 私もこの剣見つけたとき、ピンときたのよ」
「ああ……精霊の力が宿っているな。眠っているのか……あまり力は感じられないが、目覚めさせることができれば、いい剣になるだろう」
魔法剣は本来、魔力を持った剣士が力をいかんなく発揮できるようにするために作られたものだ。ファナにはそんな力は感じられないが、剣の大きさに比べれば若干軽く扱いやすくも感じられるし、合っていないわけではないだろう。ティリーナは気を良くして、もっと強くならないとねとアルフに言い、会話は終わった。ルークはアムニスからトレーニングの基礎知識の本を借り、自室に籠っている。アムニスは夕食と明日の朝食の材料を買いに出ている。この部屋にいるのは4人だけだ。ティリーナがちらりとアルフを見やると、遊ぶ2人をじっと眺めていた。