002 昨日まではお兄さんと、今日からはおっさんと
ルークはひどく不機嫌だった。昨日のティリーナとの喧嘩を引きずっているわけではない。雲ひとつ無い青空に上る太陽は、昼に差し掛かるのを教えてくれている。目の前にはストレッチしているサファイアと、それを見守る謎のおっさん。そのおっさんがルークの不機嫌の種だった。
......
数時間前の話。朝、ルークはまだ寝ていたサファイアをたたき起こし、草木が茂る大きめの公園へ連れてきた。早朝の為か人は殆どいない。サファイアは眠気も覚めぬまま食事も水分も摂れずに、ボロボロの訓練着を着て立っていた。重い瞼を開けようともせずふらふらと立つ姿は、半分寝ているようにも見えた。
「よーし、サファイアいいか? 今日からみっちり訓練するぞ。次の大会まで休みは無し。毎日朝から夜までだ」
「ふぁい……」
活を入れるように気合いが入ったルークとは対照的に、理解しているのか解らない返事を返すサファイア。サファイアが大会でこれまで一度も勝てないのは訓練が足りないから。であれば、訓練を休まずに続ければ自ずと結果は出るはず、とルークは思いついた。訓練の内容はこれから決めるらしい。
「そうだな……まずはこの公園の外周を5周! 始め!」
「は~い……」
サファイアはトテトテ、と眠い目を擦りながら軽く走り始める。気の無い返事は眠いからではない。いつもと変わらないからだ。ルークは特に訓練のメニューなど考えておらず、朝その時の気分で言うこともやることもコロコロと変わる。新しいメニューだと言われる度に、今回もただの思い付きなんだろうな……と考えてしまう。今やってることは果たして何かの効果があるのかという思いがちらつき、やる気が減っていくのだった。その先のことを考えると光なんて見えないので、仕方なく今やることだけに集中することにしていた。公園の外周5週は4か月ぶり3度目だった。
サファイアが走り出してすぐに、ランニングが終わったら何をしようか……とルークは考え始める。あれがいいかこれがいいか思いを巡らせていると突然何かがぶつかる音と、痛っ……というサファイアの声が聞こえ、ルークの思考は止まった。
サファイアが走りだした方向に顔を向けると、ルークよりも少し背の高い、無精髭をたくわえた旅人のような姿の男が立っていた。男は黙ったまま、サファイアを見つめている。しりもちをついて倒れたサファイアも、男に気づいた。サファイアは立ち上がり、ごめんなさいと頭を下げる。男はサファイアの様子を眺め、動こうとしない。
「おいおっさん。トレーニングの邪魔だから気を付けて歩けよ」
「……お前がサファイアで、そこの男がトレーナーのルークだな?」
ルークが男に凄むように近寄り声をかけると、男はルークを一瞥したあとサファイアに視線を戻して口を開く。
「は、はい。私がサファイアですけど……な、何か?」
「はいじゃない……返事なんかするなよ。何だよおっさん、俺達に何か用か?」
「俺か? 俺は新しいサファイアのトレーナーだ」
「意味が解らないんだが?」
「万年1回戦敗退のお前たちに気合入れてやろうと思ってな。今みたいな訓練やるよりはよっぽど勝ち目があるぞ」
はぁ!? と声をあげるルーク。聞けばこの男、特に役所に言われて来たわけではなく、オドラノエルに登録された正式なトレーナーでもなく、所属も身分も明かせないという。何故サファイアのトレーナーになるのかと問えば、次の試合で勝たせるためとのこと。もちろんルークは納得しない。ふざけるなと怒鳴りつけようとしたが、男は言葉を続ける。
「お前ら、飯は食ったのか?」
そんなのはランニングが終わった後だ、ルークがと言いかけた時、サファイアのお腹が大きく鳴った。恥ずかしさで俯いたサファイアの頭の上に、男は小さめの菓子パンを乗せた。
「飯くらい食わせてやれよ。トレーナーガイドにも書いてあることすら守らないで何やってんだお前」
トレーナーはオドラノエルから正規に認定を受ける際、小さなガイドブックを貰える。基本的な大会登記の方法、訓練生の健康維持に対する心得などが書かれており、トレーナー達はまずそれを熟読し、トレーナーとしてのあるべき姿を身に付けなければならない。
「う……うるせーな! あんたが言うようにサファイアはまだ一度も誰にも勝ててないんだよ! 飯なんて食う時間すら勿体ないんだからな!」
「いやいや……そんな調子なら勝てるもんも勝てないな、全く」
ルークの言葉に男は呆れながら言葉を続ける。
「いいかルーク、よく聞け。今のお前達に足りないのは、がむしゃらに運動するようなトレーニングじゃなくて、勝つためのトレーニングだ。適当に体を酷使したって、勝つために必要な要素はほとんど育たないんだよ」
男は水筒を取り出すと、もりもりと菓子パンを頬張って喉が詰まりかけているサファイアに渡し、パンと一緒に飲むように促す。
「トレーニングに必要なのはまず第一にエネルギーだ。エネルギーは食わなきゃ得られない。それに汗もかくから水分だって必要だ。生命維持の話だから言わなくてもわかるだろうけどな」
「し、知ってるよそれくらい……」
男の発言に声を小さくしながら言い返すルーク。確かにルークはトレーナーとしての責務を果たしていない。健康管理もトレーニングメニューも思いつきで、トレーニング記録なんかは気がついたらやる程度だった。サファイアはすでにパンを食べ終え、水筒も空にしていた。心なしか元気になっているように見えた。
サファイアの腹がこなれるまで休憩したあと、改めてランニングから始めることになった。風通しの良い服に着替え、軽く足腰の柔軟体操をする。サファイアの腹が落ち着くまでの間、トレーナーとしての指導方法についてルークは男と知恵比べをしていたのだが、ルークは言い負かされたため、今日1日は男に指導権を譲ることになった。
......
「よし、んじゃ今からこの道の向こうに見える街壁まで行って、右手……時計回りに街の中を一周してからここに戻ってこい」
男がサファイアに指示する。ルークはそれを聞き、俺の指示とあまり変わらないな……と考えていたが、補足事項が引っ掛かった。
「ただし、速度は歩くよりも少し速い程度。時間はいくら掛かってもいいから、同じ速度で走りきることを意識するんだ」
サファイアは背中をぽん、と押され、ゆっくりと走っていった。サファイアが遠くなったところでルークが男に尋ねる。
「全力で走らないと意味がないだろ? 訓練なんだからよ」
「試合が終わるまでに息を切らさない為に、持久力を高める訓練だ。緩く長い運動に体を慣らせるんだよ」
「でも試合じゃあんなにゆっくり動くことなんてないだろ?」
「訓練は順序だててやるものさ。まあ、1か月もすれば形になってくる」
2時間もしないうちに、サファイアは軽い足取りで戻ってきた。ほどよく汗をかき、息は上がっているが、まだまだ余裕なそぶりを見せている。
「よし、終わったな。それじゃ、15分休憩するから、足を中心にストレッチしておくように。走り終わるまで90分くらいかかったな。毎日続けるから早くも遅くもしないように」
サファイアは頷き、ふーっと息を吐いて芝生に座ると、言われた通り伸びやマッサージで体をほぐした。
ルークの憤りは少しずつ収まってきた。姿勢を正して剣を素振りするサファイアを見ていると、確かに自分には足りていない何かがあるのではという気に駆られてきた。サファイアも心なしか真剣に取り組んでいるようにも見える。
「……なあ」
「ん?」
「あんた、ナニモンだよ」
「さっきも言っただろう? サファイアの新しいトレーナーさ」
「違う。あんたの名前を聞いてるんだ」
「俺はアルフレッド。アルフレッド・レインブックだ。アフルって呼んでくれ」
「……何であいつを? 何でサファイアのトレーナーになろうとした」
「あいつは強くなる。俺にはわかる。5年前に、コロシアムであいつを見かけた。……まあ、その時はあいつが観客席にいたときだが。決勝戦を見ていたあいつはとてもいい目をしていたよ。あの時の憧れがまだあいつの中にあるなら、あいつは……オドラノエル最強の騎士になれる」
「最強だなんて……大袈裟な」
半笑いでアルフを見やるルーク。アルフはニヤリと笑いながら言葉を返す。
「まあ半年俺に任せてみろ。まずは簡単に優勝できる程度には仕立て上げて見せるさ」