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第9章

 部屋に戻った私は、ワークデスクに放り出しておいた本を手にしてベッドに寝転がった。画集『空木秀二』。撮影の後、美術館の受付で買ったものだ。

 昨日は開くのがつらくて見なかったけれど……

 ページをめくった。

 作品は年代順に並んでいるのではないらしい。最初に見開きで『木霊』。一点ずつ、タイトルを確かめながらゆっくりと眺めた。女性を描く時は裸婦なんだな、どうやら同じモデルらしい───それが梢子さんだと私が知るのは後のことになる。絵の中の彼女が身に纏っているのは……空の青、水の青、黒い影。

 空木秀二の描く世界は、暗い。光が射していないのだ。キリコの深い陰影の街より暗く、夜で、エッシャーの建造物のように絡み合い、歪んでいる。空だけが、色彩を持っていた。薄曇りの空は、水の色。火のように、血のように、赤い空は日が暮れるのだろうか。

「あれ?」

 もう一度、『木霊』から見る。ぱらぱらとページを繰った。

 ───夜空を描いた絵がない。

 『北天』が載っていなかった。≪壁≫だからかな、と考えて、教会の天井や壁のフレスコ画を収めた画集を思い出す。違う。『北天』の他にも夜空を描いたものはなかった。そしてもう一つ───

 『北天』には人物が描かれていない。

 どうして気づかなかったのだろう。『木霊』では画面を埋め尽くす程の人の姿(ただし透明な輪郭だけの人物)を描き、暗く歪んだ世界に佇む人を多く取り上げて……

 巻末に空木秀二の略歴と、解説があった。

 高畠深介。

 ≪───むしろ彼とは絵画について論じることは少なく、専ら酒を酌み交わすか、愚痴をこぼすか、キャンプ仲間として一緒に山に登ってばかりいたのである。≫

 思わずくすっと笑った。空木秀二との若き日のエピソードだ。

 ≪空木は登山に必ず小さなコーヒーミルを持参し、満天の星の下、焚火で煎った豆でコーヒーをいれた。私達の他には誰もいない山の夜、闇に体が浮かぶような暗さと静寂の中で、彼はいつも、空を見上げ、見えない大地を見下ろし、目の前の炎をじっと見つめていた。≫

 ───何となく、判る。彼の見ていたものが、絵に表れていた。

 ≪彼の目は焚火の炎を映して、赤く光って見えた。それを彼の心の熾火と見るのは、残された者の感傷に過ぎないのかもしれぬ。≫

 赤く光る目の中の……心の熾火。

 ≪あんな大きな眼が見てる≫

 私は飛び起きて、目の前の壁を見た。心臓がどきどきする。白い壁。……白い壁だ。落ち着け、と胸を押さえた。六角屋の壁、『北天』の赤い星……

 ───あれは空木秀二の眼なんだ……

 『北天』は空木秀二そのものなのだ。人を見つめ、人を描いた彼。だが、『北天』で見つめているのは自分自身だ。だから……人物が描かれていない。

 私は最初から空木秀二と出逢っていた。≪運命のいたずら≫という言葉は大袈裟ではなかったのだ。遠山さんも……おそらくラジオも、判っていたのだろう。『北天』を見ながら、ラジオはこう言ったのだから。

 ≪空木秀二。僕には謎だらけだよ≫

 彼はずっと、六角屋にいたのである。





 知りたい。





 ≪わたしを探しにゆく。≫

 ≪迷宮のような回廊。深くもぐりこんで行けば、もう一人の自分に出逢う。初めて会った人のような。懐かしい人のような。そこは、心という名の場所。わたしを知る服、───≫

「へーえ」

 コピーを読んで、伊野さんはにやにやと笑った。昨日とは立場が逆転している。

 採用になったコピーを見せに(と言うより置き忘れた傘を取りに)、帰りに彼の事務所に寄った。伊野さんの写真にコピーを付けるのはいつものことなのだが、今回の異様なまでの恥ずかしさは一体何なのか。

 ……昨日、伊野さんが照れていたからだ、きっと。

「心という名の」

「やーっ、やめてーっ」

 声に出すな。私は赤面して耳を塞いだ。ワークデスクにお尻を乗っけるように寄り掛かっていた伊野さんは、体を折ってお腹を抱え、はははと笑った。

「…うん。ちゃんと判ってくれたんだ。いいよ、これ」

「なら何で笑うかあ!」

 応接用のテーブルをひっくり返す……真似。ひっくり返したらお茶がこぼれてしまう。

「ははは…いや、いつも俺の撮りたかったものをちゃんとコピーにしてくれてるけど。今回のがいちばん好きだよ」

 そう言って原稿を指先でぱちんと弾いた。いちばん良い、と言わないところがまた伊野さんらしくない……と思って、私は肩を竦めて俯いた。

 ……どうも今回は勝手が違うんだな。私も、伊野さんも。

 首を捻って額を指先でこりこり掻いた。来週にはまた次の撮影が控えている。よろしく、と二人でお辞儀して立った。

「またな」

「おう」

 拳をごつん。ラジオの傘を取ると、「何だ、それミオのだったのか」と言われた。

「男物だから俺のかと思ってた」

「なんっじゃそら。自分の持ち物くらい把握せえよ。…借り物なの、これ」

「借り物を忘れるな。アホ」

 ドアを開けると、伊野さんはまたドアの縁を手で押さえた。……出られないっつーの。

「どうしたの?」

「………」

 伊野さんは目を逸らし、唇をきゅっと結んで「ん」と一人頷いた。「…雷が鳴ってるな。気をつけて帰れよ」と手を放した。

「……うん。お疲れさまでした……」

 ───やっぱり何かが違っている。

 でもそれはもう判っていたことのような気がした。『木霊』を見たら何かが始まってしまいそうな予感がしていた。いや、その前に『北天』の巨大な雪の結晶の歯車が回りだした、そんな気がしていたから。

 雷の轟きを聞きながら駅まで走った。それはあの『北天』の結晶が空で回っているかのような音だった。





 電車のドアに凭れて揺られているうちに、車窓から見る空はどんどん暗く黒くなって、雨が降りだした。大粒の雨がガラスにぶつかって斜めに流れ落ちる。やがて車窓は水の膜に覆われた。流れる景色のネオンサインは滲んで見えるのに、空で瞬く雷の光は鮮やかだった。

 電車を降りる。ホームに降りた途端に聞こえた雷鳴に誰かが小さな悲鳴を上げた。そして笑い声。「怖かったあ」ざあざあと激しい雨音。改札を抜けて、私は持っているラジオの傘も開かず走り出した。

 ≪───だって、傘に雷が落ちるかもしれないじゃない≫

 明るい笑い声。雨音。雷鳴。

 ≪じゃあ、雷が鳴ったら───≫

 近道の公園に入る。水溜まりも構わずまっすぐに走った。泥がはね上がり、濡れたパンツの裾が足首に絡みついた。階段を駆け下りて角を曲がった。六角屋へのなだらかな下り坂。

 森宮さんの花屋に柔らかな明かりが点っていた。六角屋の看板はない。

 雨が目に入った───目をこすった。

 頬を雨が伝い落ち、ブラウスが体にぴったりと貼り付いている。六角屋に入るのは躊躇われたが、これでまた電車に乗って帰るのもどうか。私は、ゆっくりと階段を下りた。絵の廊下の明かりが点いている。扉を静かに開けると、私の髪や服から床に水の滴るぽとぽとという音がやけにはっきりと聞こえた。───静かだ。

 店内の明かりはカウンターの中と『北天』を照らす壁際の照明だけが点されていた。

 遠山さんが振り返って「パソコ」と呼ぶ。

 カウンター席に座るラジオは顔も上げないまま目を伏せ、萩焼のカップを置いた。

「こんばんは…」

「…傘、持ってるじゃないか。何やってんだバカ」

 遠山さんはカウンターの外に出て小走りで収納庫に近づき、戸を開けた。タオルを掛けたハンガーを手に取り、その下に積んであったタオルも数枚引っぱり出した。

「……雷が」

 私は苦笑した。

「傘に落ちるかもしれないじゃない……」

「…ツッ」

 カウンターに両腕を載せて組んでいたラジオが、がくんと頭を下げた。笑ったかな、と見ると、彼の顔は苦痛に耐えるように眉根を寄せ、目を閉じていた。

「……ラジ?」

 思わず駆け寄って彼の肩に手を置いた。彼は体をびくっと大きく震わせて、そのままカウンターに倒れ込むように顔を伏せた。

「ラジ、どこか痛いの?ねえ、ラジってば…」

 ───いやだ。

「パソコ」遠山さんが私の二の腕を掴んだ。

「遠山さんどうしよう、お医者さん……きゅ、救急車」

 涙がぼろっと出た。どうしていいか判らない。ラジオは組んだ腕に顔を伏せて隠していたが、小刻みに震え続けている……

「大丈夫だから。こっち」

「だってラジが」

 遠山さんは何も言わず、私の腕を掴んだまま引っ張って店から連れ出した。階段を上って、森宮さんの花屋の戸を開ける。奥に向かって「若葉ちゃん」と大きな声で呼んだ。

 店の奥は居間になっていた。その更に奥の擦りガラスの戸がスッと開いて、二十歳くらいの、背の高い痩せた女の子が顔を出した。私を見るなり「うん」と言って二階への階段を駆け上がって行った。擦りガラスの戸の向こうに台所があるのが見えた。そこから五十がらみの男性───森宮さんが現れて、「おや、まあ」と言うと微笑んだ。おべんと箱のような四角い顔に眼鏡。けれど笑顔はまんまるの印象。「おあがんなさい」と言われ、遠山さんに背中を押されて靴を脱いだ。トトトと軽い足音を立てて戻った若葉ちゃんは、畳んだ服を私に差し出した。

「これ着てください。お風呂使えますから」

 彼女は短く言うと私の肩を抱くように引っ張って、私を擦りガラスの戸の向こう、台所の隣にある風呂場に押し込んだ。お礼を言う暇もなく戸を閉められ、しばし呆然とした。熱いお湯を浴びてお風呂を出て、着替えの服を広げて……「ははは」と笑った。

 ≪わたしを知る服≫、我が社の製品の夏のワンピースだったのである。

 居間に戻ると森宮さんは私に「おすわんなさい」と座布団を勧めた。若葉ちゃんがお茶をいれている。店に一人残るラジオが気になったが、遠山さんはくつろいだ様子でお茶を啜っていた。私は座布団を横にすっと退けて正座し「ありがとうございました」と頭を下げた。森宮さんはククッと笑って、

「もう、大丈夫ですか?泣いてらしたから、遠山君が泣かせたのかと思った」

「泣かせたのは仁史ですよ」

 ……それはかなり語弊があるというか。私は慌てて「いえ、二人のせいじゃないんです」と言った。私がお風呂に入っている間に遠山さんがラジオの様子を見て来たのかと思って、ラ、と言いかけたのを飲み込んだ。遠山さんが「仁史」と言ったのに倣う。

「仁史君は大丈夫かな」

「先に戻っててよ。後から行くから」

 遠山さんがそう言うのは何か思うところがあってのことだろう。私は濡れた服を入れた袋を抱えて、地下へと降りた。


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