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第8章

 翌日の夕方、伊野さんのアシスタント君がにわかバイク便となってやって来た。背負っていた鞄を私のデスクの上に置こうとして……悩むな。無理もないが。散らかった生地見本帳や写真の山をざあーっと除けると「おお」と言われた。

「確かに、お渡ししました」

「お疲れさまです」

 ぺこりとお辞儀。拳をぶつけあうことはしなかった。茶封筒を受け取って、中身を確かめる。「おお」と、今度は私が言った。

 絵の並ぶ壁がどこまでも続くような錯覚。幻の回廊───そんな深い奥行きを感じさせる。モデルの女性がそこから駆けてくるように見えるのは、手にしたトマトの赤の鮮やかさのせいか。

「さすが伊野さん、芸術的」

と頷きながら、一枚ずつめくって見る。『木霊』の前に佇むモデルの写真にたどり着いて、胸がきゅっと締めつけられる感じがした。更にめくった。「あれ?」最初の幻の回廊の写真に戻っていた。私は急いで次々と写真をめくった。

「最後に撮ったのは?トマト潰したやつ」

「あれですか?伊野さんが『これは使えない』って言って」

 ───なんですと?

 人を……いや、私はいい。モデルを怖がらせてまで撮っておいてそりゃないだろう。

 私はすぐさま携帯を手にして「伊野ォーッ」と小声で吠えながら電話を掛けた。目の前にお弟子さんがいるが、そんなことは構っていられないのだ。

「伊野さん、最後に撮った写真が使えないってのはどういうことですか」

「ああ、あれなあ?モデルの顔が悪いんで」

「人のことをとやかく言える顔かー!」

「俺の顔はどーでもいいだろが!」

「………」

「………」

 電話の向こうと一緒に溜息を吐く。…ふと見ると、デスクの横でアシスタント君が笑いをこらえているのか、しゃがみ込んで顔を伏せていた。

「…ちゃんと説明してくださいよ」

「だから、モデルの表情が悪いの。商品イメージを下げる写真は使えねーだろが」

「ああ、そう…ね」納得した。

「それは判るけど、使うかどうか判断するのはこっちです。ちゃんと見せてください」

「ミオが見たって、これは使えないって言うぞ?俺は気に入ってるんだが」

「えっ、見たい見たい」

 気に入っている───出来が良いと思うにもかかわらず不採用。伊野さんとは思えない……いや、伊野さんらしいのか。撮影現場でのモデルの表情を思い出すと、商品イメージの写真としては確かに使えそうもなかった。

 腕時計を見る。まもなく五時だ。このまま上がってしまえ。

「とにかく。今すぐ取りに行きますから。どこにも行かないでよ伊野さん」

「トイレ行っていいですか」

「授業中の小学生か!」

 ははは、と伊野さんは豪快に笑った。ふいに声のトーンを落として、「うん、お待ちしてます」と言って切れた。アシスタント君は「先に戻ってます」と鞄を背負って出ていった。私も急いでバッグに荷物を詰め込む。ロッカーから傘を取り出した。ラジオが買った物だ。『木霊』を見るまではと六角屋から遠ざかっていたが、返さなければと気になってもいた。外は晴れていたが、傘を手に「お先に失礼します」と編集室を飛び出した。





 伊野さんの事務所へは電車で二駅。近いのだが、事務所も私の会社も駅から離れている。私が着く頃には、バイクで戻ったアシスタント君も帰り支度を済ませて出て来たところだった。お疲れさまと挨拶を交わして擦れ違った。窓にはブラインドが下ろされていて、電話を掛けた頃には伊野さんも帰る支度をしていたのだろうと思われた。事務所のドアを開けると「おう、おつかれさん」と煙草をくわえた伊野さんが片手を挙げた。

「お送りした写真はいかがでしたか」

と言いながら小型の冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出して、グラス二つと一緒に応接用のテーブルに置いた。「座れよ」と言われてソファに腰を下ろした。

「そのことなんですが」

 事務的口調ミックス。アシスタント君が持って来てくれたばかりの写真は、もう生まれた場所に戻って来てしまった。茶封筒から取り出して、ビールを避けてテーブルに広げた。

「商品の掲載順に左右されないとは思うけど、これって…ストーリー性のある写真だと思うのね」

 伊野さんのことだ、おそらく意図的に撮ったのだろう。

 幻の回廊を往く女───彼女は静けさの中で耳を澄ますように目を伏せて立ち、何かを探すように歩く。

 その印象を話すと、伊野さんは真顔で「うん」と頷いた。

「あのトマトは……伊野さんがどういうつもりかは知らないけど。私個人の感想だけどね、彼女がそこで見つけたものなんじゃないかと思うのよ」

「ふふ、うん」

 ───なんと。伊野さんが照れている。

 照れくさそうに笑って軽く俯き、灰皿に煙草の灰をトントンと落とした。

 彼女が見つけたもの───私自身が、あの場所で空木秀二という人を見たように。

「うん。でも送った写真だけでもストーリーの構成はできる。だから送らなかった」

 そう言われると、その通りなのだ。静けさに満ちた空間を往く、というストーリーだけで充分ブランドコンセプトを表現している。

 潰れたトマトは、時間の経過を表す。他の写真のトマトは潰れていないのだから、潰れたトマトは回廊の奥で彼女を待ち受けていたものを意味する。

「ただ服を見せるだけならスタジオで撮ってもいい雰囲気に撮れるじゃない。必要なのは、どんな場面でどんな人が着る服かっていう、そのためのストーリーであって。時間の流れは要らない」

 本来ならね、と私は付け足してビールを一口飲んだ。

「伊野さん、トマト潰して『木霊』の絵と同じものだって言ったね」

「うん」

「……見せて」

 黙って頷いて伊野さんは立ち上がると奥の大きな机の抽斗を開けた。手前から大きなクリアファイルをスッと引き抜いて開きながら膝で抽斗を蹴った。私はテーブルの上の写真を茶封筒に戻し、開かれたファイルを受け取った。

 潰れたトマトを手のひらに載せたモデル。『木霊』のぼんやりとした赤と黒を背負って、ワンピースの深いグリーンが彼女の顔色を一層白いものに見せていた。斜めに俯いて目を伏せた様が、何かから目を逸らしているよう───同時に撮った数枚も似たようなもので、伊野さんが「使えない」と言ったように、顔には不快感が表れていた。

「これ」と、彼が向かい側から手を伸ばしてビニールポケットのページをめくった。最後の一枚。私は苦笑した。

「…使えませんね」

「うん」

 彼もふっと笑った。

 モデルの気が抜けた一瞬を捉えた写真だった。無表情……ほつれた髪の隙間から、どこを見たものか迷って漂う視線。トマトの汁で濡れて光る指先。人形のように生気の失われた彼女に、別の魂が宿っている───それを、濡れた指先と彼女の後ろの『木霊』の鮮やかに燃える赤い空が表していた。

「服が全然見えて来ない。……いい写真なんだけど」

「………」

「伊野さんらしくないなあ、何だか。現場でも思ったけど。いつもと撮り方違った」

「うん?…あそこの雰囲気のせいかな」

 空になったグラスにビールを注ぐ。泡に向かって鋭い視線を投げて言う。

「でもああいうのも俺だよ。ミオが知らないだけで」

「………」

「……伊野信吾の意外な一面をお見せしました。なんつってなー」

 あはははは、と二人してわざとらしく笑った。照れてるんだろう、と思って。

 ……ちょっとびっくりした。本当に意外だったのだ。現場ではなく、今。

「何となく、撮っておきたかった……って言うとちょっと違うかもしんねーけど」

と、伊野さんはまたビールの泡を見る。

 ───その眼を、私に向けたくはないのだろう。

「撮り始めた頃を思い出した。何を撮りたかったかとかそういうもの」

「……うん」

 『木霊』とトマトは同じもの。

 こだまのようにもつれた姿。痛みのような空の赤。

 潰れたトマトは、最後の写真に吹き込まれた、伊野さんの魂だ。

「……私、この写真、好きだよ」

 クリアファイルのビニール越しに、潰れたトマトを指先で撫でた。ファイルを閉じて、グラスに残ったビールをくーっと飲み干した。「ごちそうさまでした」と立ち上がると、彼も「いえ、ご足労いただいて」とグラスを置いて立った。ドアの前まで行って「またよろしくお願いします」と頭を下げる。

「ん、頑張って良いページにします」

「よろしく」

 ごつん、と拳をぶつけあう。「それじゃ」と開きかけたドアの縁を伊野さんが手で押さえた。……出られない。「何?」と振り仰いだ。

「サンキュ」

「…ああ、うん」

 最後の写真を好きだと言ったからだろう。私が頷くと、彼はドアから手を放した。

 ───どうも今日の伊野さんはひと味違うな。

 人差し指で額をこりこりと掻きながら、事務所を後にした。





 森宮さんの花屋の前で、看板を片付けようとしていた遠山さんに会った。いつも変わらぬやる気のない早終い。「いい?」と訊くと「来ちゃったもんはしょーがない」とまで言われてしまった。

「だってラジに傘を返しに来たんだもの……あっ」

「どうした」階段の途中で遠山さんが振り返った。

「ラジの傘、忘れて来ちゃった」

「バカ」

 遠山さんはがくっとうなだれた。傘は伊野さんの事務所だ。…また行かなくちゃ、と私もがっくりしながら階段を降りた。

 店は初めて来た日のように暗かった。私は入口に立って、「遠山さん、明かり点けて」と言った。

「絵が見たい」

 遠山さんは黙って壁のスイッチをパチンと押した。壁際の明かりだけが点る。

 『北天』が遠くの闇の向こうにあるようだった。

 私はバッグを抱えて、そこから動かずにそれを見た。───美術館で見た、空木秀二の数々の絵。それらは皆どこか寂しげで、痛くて……

 『北天』は違う。

 『木霊』のそれとはまた違う、見る者を吸い込んでしまいそうな迫力。それでいて、『水からの飛翔』のような静寂。そして、『空と歩く』のような果てない距離感。

 確かに、これは空木秀二の絵だ、と思える……それなのに、他の人の絵のように、拭えない違和感があるのだ。

「…遠山さん。この絵、どうして『空木秀二の世界』に出展しなかったの?」

「壁がなくなったら俺が困る」

「おい」がくっと肩を落として、カウンター席に着いた。「外せるって言ってたじゃない」

「うん。…でも、空木さんは壁のつもりで描いてくれたんだから」

「そっか」ふっと笑みがこぼれた。

「…でも、なーんか空木秀二の絵って感じがしないんだよなあ」

「気がついたか」

 遠山さんの言葉に、私は「えっ、何、何」とカウンターに身を乗り出した。

「他の絵見て来たんなら、よーっく見りゃ判るでしょう」

 私は椅子から飛び降りて『北天』に近づいた。絵具の筆跡や隅のサインも確認した。また入口の前まで行って離れて見る。その間、遠山さんは澄ました顔でコーヒーをいれていた。

 廊下の向こうの扉を開けて、ラジオが「あ、ミオさんだ」と尻尾を振った。耳に引っかけていたヘッドフォンを外しながら歩いて来て訊ねた。

「そんなとこで何してるの?」

「絵を見てるんだけど…」思わず口がとんがってしまう。

「むー。違いが判らん。ラジはこの絵、他の空木秀二の絵となーんか違うと思わない?」

「思うよ。…初めてここに来た時、似てるなあ、と思ってサイン見るまで、空木さんの絵だって確信持てなかったもん」

 そう言われて、違和感を感じるのは間違いではないらしい、と頷いて『北天』を見つめた。彼の肩に垂れ下がるヘッドフォンから、小さく、アコースティックギターの音がする。ギターの刻むゆったりしたリズムに合わせたかすかな歌声の、その旋律だけが途切れ途切れに聞こえていた。

 ───ふるくからあるたましい……

 夢で聴いた歌を思い出した。掠れたような歌声、ゆるやかな旋律。印象が似ているというだけだったが。……魂。

 伊野さんの潰れたトマト。

 それと同じ『木霊』。

 『北天』にはどんな魂が描かれているのだろう───

「…その曲、なあに?」

「………」

 ラジオが、ぶら下がるポータブルMDのリモコンを軽く握ると音が止まった。

「ミオさん」

「何?」

「中に入れない」

 苦笑して言う。「あ、ごめん」と退いた。彼が「今度聴かせてあげるね」とにっこりして椅子の足元に鞄を置くのと同時に、萩焼のカップがカウンターに置かれた。


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