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第4章

 遠山さんの言った意味がよく判らなかった。

 ≪パソコも空木秀二に出逢ってしまったってことだよ≫

 運命のいたずら───空木秀二との出逢いが?

 結局、あの後は夕飯を外で採らずにコンビニでおにぎりを買って帰宅した。バッグをベッドの上に放り出し、パソコンを起動する。その間に、私はワークデスクの前に座り、おにぎりの包装をぴりぴりと開けて、律儀な三角のごはんをぱりぱりの海苔で包んだ。

 焼きたらこのおにぎりを片手に、マウスをクリックする。インターネットに接続して、『空木秀二』で検索をかけた。予想はしていたが、やはりヒット数はわずかだ。一件ずつ、じっくりと見て回る。

 都内の美術館の所蔵作品リストに一点。『木霊』というタイトルのみ。

 同じく都内の美術館での過去の展覧会の出展者リストが数件、作品数点のタイトルのみ。

 おにぎりの味がしない。

 東京近郊の美術館の催事スケジュールが一件。最新のものだ。目を皿にして『空木秀二』の文字を探す。───あった、『木霊』を所蔵する美術館で、『空木秀二の世界』という展覧会の予定がある……

 私はペットボトルのお茶を飲んで「もうすぐじゃん」とひとりごちた。絵を贈られるくらいの親交があったなら知っていただろう。教えてくれないなんて遠山さんも人が悪い。

 それとも───

 ≪気をつけろよパソコ≫

 あれは……冗談じゃなかったんだろうか。

 私は『北天』とキーワードを追加して検索した。該当するページはなかった。





 翌日、朝一番に会議。私の企画書も通り、すぐにコーディネーターやカメラマンとの打ち合わせをする。社での仕事を急いで済ませようと躍起になる私に先輩方が「燃えてるねえ」と笑った。

 燃えているのだ。理由はないが。仕事がおもろい、ええやないか。

 午後は秋物ファッションのカタログのロケハンである。カメラマンの伊野さんと一緒に、遅い昼食を採りながら、デザイナーの意向を伝え、だいたいの場所を検討する。

「何かこう、しずかーな場所がいいね。思い切って森」

「どこまでロケに行く気ですか。でもコンセプト考えたらなあ…画面に静けさが現れるような場所じゃなきゃ。しじまの音が聞こえるような」

「なんじゃそりゃ」

と、伊野さんは眼鏡の奥の目をひん剥いて私を見て、はははと笑った。

「音がないから『しじま』って言うんだろうが。ま、ロマンではあるな」

 彼はそう言って鶏釜飯のしいたけをぱくんと口に入れ、もぐもぐごくんと飲み込むと大きく頷いた。

「それいきましょう。テーマは『しじまの音』。屋内の方がいいかもしれないな」

「屋内……」

「廃屋使えりゃなー」

 どういうイメージを抱いているのか、この人は。

「古くていい感じの建物、どこか借りれねーか」と言われて、私は六角屋を思い出した。

「ん…一軒心当たりあるけど…狭いな。いい喫茶店なんだけど」

 壁一面の絵があるんだよ、と言うと伊野さんは興味を示した。

「でも地下だけか。窓ないのはきついな。いや、なくてもいいんだけどさ。六ページ分トータルイメージで撮るのには狭いな、それは。建物まるごと使える所がいい」

「やっぱり外しかないかなあ」

「探せ。当たれ。砕けろ。それがおまえの仕事だろうが」

「砕けるのまで仕事かい」

 がくんとうなだれて、私は茶碗を置いた。

「何で屋内なの。最初の森のイメージだったらどこか緑のある所の方がいいでしょう」

「アホ。おまえがしじまの音が聞こえる所がいいっつったんだろが。針が落ちても音が響くような場所っつったら閉鎖空間の方がいい。しじまの音なあ?シーンとするって言うじゃないか。聞こえない音が響き渡る、いわばこだまだ」

「……こだま?」

 それなら、六角屋で聞いていたしじまの音も、店内に響く静けさのこだまだ。

「やっぱり六角屋がいいと思うんだけどな……ああっ!」

「ぶっ」

 茶碗蒸しにむせかえる伊野さんを放置して、私はバッグからノートパソコンを取り出し、昨夜ウェブからダウンロードしておいた美術館のページのファイルを開いた。お茶を飲む彼に画面を見せる。

「どう、ここ」

「あ、俺も知ってる、ここ。ゴシック建築がいい感じだと思って目つけてたんだ」

「ここねえ、『木霊』っていう絵があるんだよ」

「いいねえ。撮るならその絵の前だな。絵によるが」

 顔を見合わせてニヤッと笑った。早速携帯電話で美術館に電話を掛ける。撮影許可の交渉に伺いたい旨を伝えると、担当の係員がこれから会ってくれるとのことだった。

「好感触ゥ」

 電話を切って言うと、伊野さんは「あとは砕けるだけだ」と頷いた。

 砕けてどうする。





 美術館は緑豊かで閑静な街なかにあった。場所を知っている伊野さんに連れられて歩いた。

「この辺りの景色も撮影に良さそう」

「そうだろ?」

 伊野さんはまるで自分が街を整備したかのように言った。細い坂道に連なる家並みは古びて、子供の頃に遊んだ路地を思い起こさせた。坂を上りきって角を曲がると、少し先に美術館のホームページで見た写真と同じゴシック建築の建物があった。周囲を木々の深い緑に囲まれ、写真よりも鬱蒼とした雰囲気だ。

 電話で話した担当の人と会って、館内を見せてもらう。高い天井、広々としたスペース、二階への階段の踊り場には大きなステンドグラスの窓が吹き抜けを明るく見せている。建物は築三十年程で、所々修復してはあるものの、月日の重みを感じさせる空気に満ちていた。伊野さんが「予想以上じゃないか」と満足げに頷いた。

 事務室に戻って応接用のソファに腰を下ろした。手帳を繰って撮影の日を選ぶ。私は「この日はどうでしょうか」と、『空木秀二の世界』の会期中の休館日を申し込んでみた。快諾を得て礼を述べ、……さりげなく切り出した。

「この日は『空木秀二の世界』という展示期間ですよね。こちらには空木秀二の『木霊』があるということなんですが……撮影の参考に、拝見願えませんでしょうか」

「『木霊』ですか…。少々お待ち下さい」

 担当者が席を外して、まもなく一冊のファイルを手に戻って来た。

「申し訳ありませんが、なにぶん『木霊』は大きな作品でして、今お出しすることはできません。ご参考になるか判りませんが、こちらが『木霊』の写真になります」

と、ファイルを開いて低いテーブルに置いた。私と伊野さんは背中を丸めてサービス版サイズの写真を覗き込んだ。

「な…んだ?これは」

 伊野さんの第一声。掠れた小声だった。「よく見えないな…」

 ───赤と黒が絡み合った……

 それ以上の印象は得られない。聞けば写真はあくまで所蔵作品の整理のために付けているもので、館員が撮ったのだと言う。ピンぼけの印象はそのためかもしれなかった。

 美術館を後にして駅への坂道を下りながら、伊野さんは「ミオ、おまえそんなに絵に詳しかったっけか」と訊ねた。

「ううん、全然。…今、ちょっと絵に興味あって…それだけ」

「ふん?」

 伊野さんは顎を軽く掻いて、駅前で足を止め「それじゃ、当日はよろしくお願いします」と一礼した。私も「こちらこそよろしくお願いします」と深々とお辞儀。

「お疲れ」

「おう」

 握った拳を軽くぶつけあう。伊野さんの挨拶である。頑張ろうなあ、とかそんな意味だ。横断歩道を渡っていく彼を見送って、私は「さて」とバッグから携帯を取り出して駅の階段を降りた。少し静かな所で社に電話を入れ、ロケ現場の確保が出来たことを伝える。時計を見るとまもなく五時だったので、このまま上がることにした。

 六角屋へ行ってみよう。遠山さんなら『木霊』を知っている筈だ。





 地下鉄を乗り継いで、地上へ出ると湿った風が流れていた。今にも雨が降り出しそうだ。折り畳み傘を持ってくれば良かったと思いながら六角屋へ急いだ。

 店に入ると遠山さんはいきなり「いいことでもあったの?」と私に訊ねた。「何で?」と聞き返しながらカウンターへ回ってバッグをいつもの椅子の足元へ置き、座る。彼はグラスを置きながら言った。

「パソコがそんなにニコニコしてるの初めて見たからさ」

「え?」

 そうかなあ、と首を傾げていると、店内に居た一組の客がレジの前に立った。遠山さんが「ありがとうございました」と言い(私やラジオには言わない台詞である!)、残る客は私だけとなった。

 それとも客は誰も居なくなったのか。

「…うん、今日は仕事が割と順調にいったからね。気分いいかも」

 ふふっと笑うと、「そうか」と彼は答えてコーヒーミルに豆を入れた。

 コリコリコリ、と豆を挽く静かな音。終わるまで、カウンターに頬杖を突いて目を閉じて聞いていた。───静けさのこだまを。

 カップにドリッパーをセットする音がして、私は目を開けた。

「遠山さん、空木秀二の『木霊』って見たことある?」

 お湯を注いで膨らんだコーヒーの粉の泡がふくふく言う。遠山さんの沈黙。

「……あるよ」

 静かな声だった。私は、美術館を訪れたものの『木霊』を見ることができなかった、と言った。

「うん?二階の常設展示室の方にあったろう」

「それが今度の『空木秀二の世界』の準備で外されてたんだ」

「…ああ、そうねえ」

 遠山さんは頷いて、葡萄模様のカップを私の前に置いた。苦笑して言う。

「随分早いな。もうそんな所までいったのか」

「てゆーか仕事で行ったの、美術館」

「…仕事ねえ」

 溜息を一つ吐いて、遠山さんはカウンターの外に出た。そのまま店を出て行く。何だろう、と入口の方を見ていると、程なくして彼は外の看板───メニューの額とイーゼルを抱えて戻った。

「どうしたの?」

「今日はもうめんどくさいから閉店。パソコもそれ飲んだらさっさと帰れ」

「何それ!客を追い出す気?」

「おめーは客じゃねーだろ」

「コーヒー代は払ってるわよ!」

「どうせ仕事で『木霊』のこと聞きに来たんだろう?そーゆーのは客って言わねーんだよ」

「判ったわよ!帰ればいいんでしょう!客じゃないからお金払わないからね!」

「いらねーよ!」

 タダで一滴残らず飲んで帰ってやる。

 私は熱いコーヒーを急いで飲んだ。「ごちそうさま!」とバッグを拾い上げ、店を飛び出した。壊れノブの扉が上手く開かない。階段下に出てバンと扉を閉めた時にノブが更に下を向いた気がした。きっと、こうやって怒った客が何人も乱暴にノブを回して壊れたんだ。

 ───遠山さんが怒った……

 雨が降り出していた。私は濡れないようにバッグを抱えて走った。坂を駆け下りて角のビルのテントの下に入る。バッグの中を覗き込み、パソコンの無事を確かめて、顔を上げた。

 本屋だった。

 ≪すーぐそこの本屋≫

 陽気な遠山さんの声が思い出された。

 雨はまだ止みそうにない。私は本屋に足を踏み入れた。一階の雑誌と文芸書の売場を一周してエスカレーターに乗る。二階は新書と文庫のフロアだ。ぐるりと一周して三階へ。

 気づくとラジオの姿を探していた。

 エスカレーターを降りる。天井から下がった案内板には『3F アート/ホビー』とあった。写真集や画集が平積みにされ、『話題の新刊』と書かれた札が真ん中に立っているのが目につく。見回しながら棚の間を歩いて、……足を止めた。

 こちらに背中を向けて抱えている本を棚に収めていたラジオが、ゆっくりと振り返った。

 大きな黒い目に照明が映って、濡れているように光っていた。

 私は彼に笑いかけ、小さく手を振った。彼は真顔で私を見ていた。……ふいに彼は微笑んで私に歩み寄り、軽く背を丸めると、耳元で囁いた。

「そんなふうに泣かないでよ」


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