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第3章

 朝、目覚めてからも夢の中で聴いた歌が耳に残っていた。

 ───ふるくからあるたましい……

 ゆるやかな旋律に乗った、吐息のような女性の声だった。夢の中で最後に聴いたそのフレーズだけが、何度も何度も耳の奥で再生される。

 古くからある魂。……年寄りか?

 そう考えてようやく頭がはっきりしてきた。私はベッドの上でごろりと寝返って俯せると枕元に並ぶフレグランスのボトルを眺めた。

 眠れない時など、手にとって匂いを嗅ぐのである。

 そろそろ起きなくちゃ、とベッドから抜け出してシャワーを浴びる。下着姿のまま枕元のフレグランスを一つ手に取り、頭の上でシュッと一噴きした。

 香りの霧が降りてくる。

 皮膚が弱い私は香水を肌に直接着けられない。霧をくぐって、クロゼットを開ける。甘い花の香りを選んだのは私を目覚めさせた歌のせいかもしれなかった。身支度を済ませて部屋を出た。

 私は東京の北の外れに部屋を借りて一人で住んでいる。両親は既に他界し兄弟もなく、身内といえば宮崎に住む伯父夫婦と、その子供で東京で結婚して暮らす従姉が一人いるきりである。地下鉄を乗り継いで出社。メールチェックを済ませ、そのままマシンに向かって仕事を始めた。私はカタログ通販の会社で商品カタログの編集の仕事をしている。今日は午後から商品のアクセサリーを生産するアトリエを訪れる予定である。カタログに掲載される気の利いた紹介文を書いたりするのも私の仕事であり、デスクの上の商品見本や写真を見ながら「うーん」と頭を捻っていた。

 半日そうしてデスクの上に商品や写真を散らかしたまま、昼食を採りに出た足でアトリエを訪ねる。資料写真や見本を貰い、制作者の話を聞いた。デザインのインスピレーションを得るのに美術館を巡ったと言う。私は、先週ラジオに私の名を「絵画的」と言われたことを思い出した。

 そんな話をすると、「ああ、そうですね。荒涼とした海か。何か出来そうです」と制作者は笑った。そうして彼がこれまでに見て回った絵画展のパンフレットを見せてもらった。

「へえ…、面白そう」

 仕事と言うより、個人的な感想である。彼もそれを察してか、「良かったらご覧になりますか?持ち帰られて家でゆっくり見てください」と言った。家で、と言うのだから個人的に貸してくれたのである。それが嬉しかった。礼を述べて辞した。

 社に戻って制作者の話をグラビアのイメージにまとめ、企画書を作った。さて、通るといいけど、と溜息混じりにプリントアウトし、コピーする。明日の会議に間に合わせるために残業となったが、思ったより早く終わった。疲れを感じながら片付けて、夕飯は外で済まそうと決めた。

 なんとなく、足が六角屋に向かう。

 企画書を作る時に見ていたパンフレットのせいか、絵が見たくなったのだった。階段入口に看板はなく、思わず腕時計を見る。店仕舞にはまだ早い時間だ。つくづく、マイペースな経営である。階段を降りると、廊下の明かりが扉のガラス越しに見えた。遠山さんはまだ店にいるらしい。客じゃないのだから閉店後でもいいのだと開き直ることにして、私は廊下を通り抜けて入口から「こんばんは」と声を掛けた。

「よう」

 ───とうとう、いらっしゃいとは言ってくれなくなったのね。

 六角屋を訪れるのは三度目である。店内の明かりは全部点っているものの客の姿はなく、一週間ぶりの遠山さんはすっかり旧知の間柄といった感じで、私を見ると洗い物の手を止めてタオルで拭き、お冷やをグラスに注いでカウンターに置いた。

「ラジオももうすぐバイトから上がってこっち来るよ」

「ふうん。バイトって、何」

「すーぐそこの本屋」

 遠山さんは斜め上を指差した。私は椅子に腰掛けて、黙ってコーヒーが出るのを待った。「ラジオ…さんって、毎日来るんですか?」

「毎日じゃないけどバイトの日には大抵来るよ。すーぐそこだもん」

 すーぐ、と調子の上がる声がおかしくて笑った。

「そうだ、遠山さんって、絵が好きなんですか?」

「見りゃ判るでしょう」

と、遠山さんは視線をぐるりと店内に向けて笑った。私は「そりゃそーだ」と頷いた。

「もしかして、あの大きな絵、遠山さんが描いたんですか」

「ううん。俺は廊下のエッチングを……こう、ちーいさい所に、こまかくこまかく、描くのが好きなの」

 細かい作業をする時のように目を細めて、コリコリと豆を挽きながら遠山さんは言った。傍らには葡萄模様のカップがお湯を注がれ温められて待っている。私は半ば振り向いて赤い星と雪の結晶の絵に向かった姿勢のまま「へええ」と頷いた。これも私には詳しくない分野の話である。

「あれは何の絵なんですか?……この前、ラジオさんは『大きな眼』って言ってたけど」

「うーん?パソコには何に見える?」

 ───とうとう、呼び捨てなのね。しかも、パソコ。

 いいけど別に、と諦めて、私は椅子の背もたれの上に両腕を組んで、壁一面の絵をじーっと見た。

 確かに、眼に見えなくもない。見つめていると吸い込まれそうな眼差しだ……

 するとこの眼は充血しとるんか、と自分につっこみを入れていると、背後にカップを置く静かな音がした。

 ───静かだ。

 初めてこの店に来た時の、しじまの音がまた聞こえてくる。

 私はじっと動かずに、結晶の模様を目でたどった。いつかテレビで見た、雪が結晶してゆく様を捉えたフィルムのように、私の中で生まれてくる冷たい形。

 結晶しながら胸の奥が冷えていくのが判った。───どんどん、どんどん、冷たくなっていく。かじかんだ手の感覚が鈍っていくように、私はそれをただぼんやりと感じていた。

 目の中が絵でいっぱいになる。じん、と絵が目にしみるようだった。

 目を瞬いて、視覚を調整する。私と絵との距離が戻った。人の気配に入口を振り返る。いつのまに来たのか、そこにラジオが立っていた。

 こちらを見る、力の抜けた、寂しげな表情───かと思うと、彼はニコッと笑った。

「もう来ないかと思ってた」

「うん。絵を見に来たの」

 私がそう言うとラジオは椅子を跨いで背もたれを抱え込むように逆向きに座った。私も目を絵に戻し、背もたれに載せた手で頬杖を突いた。

「で?パソコ。ずうーっと見てたけど、何に見えた?」

 遠山さんが後ろでラジオの分のコーヒーを用意する音。振り向かずに答える。

「うーん……あ、あの結晶がね、路線図に似てるなあって」

「ああ、あの辺り、ぐるっと山手線」

 ラジオが腕を前に伸ばし、指先でぐるりと山手線の形をなぞって笑った。

「パソコの説も捨てたもんじゃないぞラジ。俺もあれは地図みたいだと思ったことがある」

「地図?」と遠山さんを振り返ると彼はドリッパーにお湯を注いでいるところだった。ふくふくふく、と微かな泡の音。

「そうだよねえ。空いっぱいの結晶だもの。巨大だよ」

「そんな巨大な結晶の雪が降って来たら怖いよなあ」

 そう言って遠山さんはあははと笑った。

「それで、本当は何の絵なんですか?」

「空の絵だよ。それ以上は俺も知らないの」

「なあんだー」

 私はがっかりして、ちょっとむくれた。勿体つけて、期待させているのだと思っていた。遠山さんが萩焼のカップを置いて、ラジオがカウンターに向き直った。私の顔を覗き込むようにしてラジオが言う。

「あの絵にはいろいろと謎が多いんだ」

「謎?」と訊ねると、彼は真顔で頷いた。

「あの大きな絵をどうやって地下のこの店に入れたのか」

「春日三球照代か!」

「あはは……冗談だよ。本当はね、三枚に分けられるの、あれ」

 思わずつっこんだ私に、ラジオは体を揺らして笑った。

「ミオさんは、絵、好きですか」

「好きだけど、…熱心に見て回るほどじゃないな。でもこうやって身近に絵があるの、いいね。ここにはあの絵を見に来たくなるよ」

 ラジオの質問に答えて、私はまた背後の絵の方を振り返った。それにつられてか彼も肘を背もたれに載せて振り返る。

 大きな眼が私達を見つめていた。

「あれは……いつ頃の作品なの」

 ラジオが絵の方を向いたまま遠山さんに訊ねる。「三年くらい前になるか」という答え。

「作者の空木さんとは美大に通ってた頃に知り合って、俺の版画を気に入ってくれて、長年目をかけてもらってたんだ。あの絵はこの店を持った時に壁の大きさに合わせて空木さんが描いたもので、『六角屋』の名前も空木さんが付けたんだよ」

「……じゃあ、あの絵はこの店のために描かれたんだ」

 私が言うと、遠山さんはふっと微笑んだ。

「さあ?絵は誰のものでもないよ。たまたまここにあるだけ」

 ───本当に絵が好きな人なんだな。

 作家の名前で絵を選び、所有欲を満たして、絵の値打ちばかり気にする人も多い。その中で、このように言える人がこの絵を所有していることが嬉しくなった。

 たまたまここにあったから、私はこの絵と出逢うことが出来たのだ。

 絵に向き直るとふふっと笑いが洩れた。ラジオもまた逆向きに座り直して背もたれを抱えた。

「いろいろと……って、他にどんな謎があるの」

「謎なんて言ってるのはこいつらだけだよ」

 遠山さんは溜息混じりに言った。肩越しに振り向くと、苦笑いだ。

「空木秀二」

 唐突にラジオが言って、私は彼を見た。

「……僕には謎だらけだよ」

「確かに寡黙でミステリアスな雰囲気の人ではあったけど」

「…ラジオさんは会ったことがあるの?その人に」

「いいや。彼は去年の今頃、亡くなった」

 ───空木秀二……

 ラジオの横顔はどこか険しく、私は目をそらし、絵をぼんやり眺めて訊ねた。

「この絵、タイトル何ていうの」

「『北天』」

 それなら……白い弧の天体写真という印象からして、中央の赤い星は北極星ということになる。私は黙って軽く何度も頷いた。

「気をつけろよパソコ。ラジは『北天』に取り憑かれてここに通ってるんだ。謎なんて言ってたら、こいつみたいになっちゃうぞ」

「あれ?得意客が減ってもいいの?」

 遠山さんを振り返って軽口を叩くラジオはもういつもの笑顔になっていた。遠山さんも「仕事が楽になるからいいよ、俺は別に」と、これまたやる気のない答えを返して笑う。

「ねえ、うつぎ、って空の木って書くんでしょう?宇の津の木じゃなくて」

「うん」

 私の問いに頷く二人。私は思い出して、昼間借りた絵画展のパンフレットの束をバッグから取り出した。「どれだっけ…」とカウンターに並べると、ラジオが「これだよ」と迷いもなく一冊を取り上げ、ページを繰った。

 青白い裸婦。

 空を映した水面に目を閉じて浮かび、長い黒髪が翼を広げたように見える。風が吹いているのか、水に浮かぶ枯葉がくるくると回っているかのようだ。水面に映る木々の枝が、まるで空に走った亀裂だ。

 絵の下に、小さな文字。


  空木秀二 『水からの飛翔』


「去年の暮れに、守屋さんの画廊でやった時のだね。…これ、どうしたの」

「…仕事で知り合った人が貸してくれたんだけど…」

 掠れた声で訊ねるラジオにそう答えると、彼らは顔を見合わせた。遠山さんが苦笑した。

「運命のいたずらってやつか」

「運命?」と私。

「パソコも空木秀二に出逢ってしまったってことだよ」

「………」

 ラジオは大きな目を見張って『北天』を振り返った。私も後ろを見る。

 透き通る巨大な雪の結晶が、目に見えない運命の歯車のようだった。


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