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第2章

 翌日、定時に仕事を終えて、私は傘を返すために六角屋へと向かった。駅前の下り坂を右に折れて、公園を抜ける裏道。昼まで降り続いた雨も上がり、公園の木々を渡る風は湿った土と緑の匂いを連れてざわざわと梢を揺らしている。朝、目覚めた時に雨音を聞いて、私は真っ先に早く傘を返さなければと気になった。あのような経営方針の人は傘を一本きりしか持っていないのに決まっているからだ。気がつけば私は公園の階段を早足で駆け下り、残り三段を飛び降りて走り出していた。

 地下の扉を引いて絵の廊下を抜けると、店内は昨日と打って変わって明るかった。テーブル席には二組の客がいて、私は思わず「営業してたんだ…」と呟いた。それが聞こえたのだろう、遠山さんは声もなく肩を揺らして笑い、「いらっしゃい」と微笑んだ。

「…傘、ありがとうございました」

「そこ置いといて」

 既にくだけた口調に、私は(やっぱり私は客ではないのか)と肩を落とした。傘のお礼にコーヒーを一杯飲んで帰ろうと思っていたので、どこに座ろうかと店内を見回すと、遠山さんは「どうぞ」と言ってカウンターにお冷やのグラスを置いた。席も決まっているらしい。私は観念してグラスの前の席に着いた。

 遠山さんは「モカでしょう」と言って、もう豆を計り始めた。この人は、と呆れながら私は肩を竦めて上目で睨んだ。

「アイスココアを飲みたいかもしれないとか思いません?」

「うちはコーヒー専門。ミルクで良ければあるけど」

 グラスに注ぐか温めるだけなのね、と口には出さないでおいた。

「このお店はお客さんが何を飲むかご主人が決めるの?」

「いいや?昨日だってオーダー取ったじゃないの」

 フフンと笑って豆を豆挽き機に入れる。ガガーッと音を立てて、あっという間に出来たコーヒーの粉を、ペーパーフィルターをセットしたドリッパーにぽんぽんと移した。遠山さんは横目だけで後ろを振り返ったように背後の棚を指差して言った。

「その代わりカップ選ばせてあげるよ。どれがいい?君のだよ」

「…私の?」

「うん、他のお客さんには出さないで、君だけが使う」

 お湯が沸騰して、ポットの蓋が小さくカタカタ鳴っていた。私は葡萄の描かれたカップを選んで、両腕をカウンターの上で組んだ。

「ここはお客さん一人一人のカップを決めるんですか?」

「まさか。そんなことをしていたらカップがいくつあっても足りない」

 とてもそうは思えないけど、と口には出さないでおいた。

「じゃあ……どうして?」

「だって君、お客さんじゃないもの」

「やっぱりー」がくん、と頭が下がった。

「だってそうでしょう。普通のお客さんは、店が真っ暗なの見たら帰るよ。君が『入る』と言ったから、君は店のお客さんじゃないの」

「だって、雨降ってたから」

「別に階段の下で雨宿りしてたって良かったじゃない」

 そうか…、と私は何となく唇を尖らせて頷いた。彼らの世界に『入れて』と言って入って来たから、私は彼らの世界の人になってしまったということなのだ。

 つくづく謎の経営方針、と口には出さないでおいた。

 私のカップが目の前に置かれた。手に取って目の高さまで持ち上げ、精緻に描かれた葡萄と螺旋を描きながら伸びる蔓を隅々まで見る。じっと眼を凝らしていると、隣に誰かやってきてカウンターに手を突いた。

「パソ子さんだ」

 え?と振り向くと真っ黒の大きな目とぶつかった。───ラジオだった。

「パソコって?」

「昨日パソコン使ってたから」と、ラジオが隣の椅子を引いて腰を下ろした。遠山さんが「パソ子とラジ男か、すると苗字は秋葉原だな」と言い、私は脱力した。

「変な名前で呼ばないでください」

「じゃあ、何ていうの」と訊かれて答えると、ラジオがすっと目を細めて「絵画的な名前だね」と言った。

「グレーの海と断崖と。荒波の音が聞こえそうな荒涼たる風景」

 そう言って荒波のところで右手を伸ばして頭の上で弧を描き、ふふっと笑った。

 ミオの音だけで彼がそう言うことに私は驚いた。海音という名を『ミオ』と読める人も少ないのだ。私の名は、石崎海音という。

 また一人、客が店内に入って来た。すぐそこの大学の学生かな、と思いながら「みんな、よくここを見つけるね」と感心すると、遠山さんが客に「いらっしゃいませ」と声を掛けた後に私に向かって「だって今日は看板外に出してるよ」と答えた。

 走って来たので気づかなかったが、帰りに見ると、店の名とメニューを記した額をイーゼルに立てかけた物が階段入口の脇に置かれていた。つまり、昨日はやはり営業していなかったということだ。そのことをラジオに訊ねると、

「うん、だからミオさんが階段を降りて来たという時点で、『この人は好奇心でやって来たぞ』って判るじゃない」

と言って彼はくすくすと笑った。なるほど、それなら客扱いされなくても仕方ない。これが普通の家なら不法侵入と同じである。赤面する私に、彼は萩焼のカップを置いてこう付け足した。

「僕もそうだったんだ」

「ラジ───」と言いかけて、そう呼んでいいものか戸惑った。彼は背筋を伸ばしあらたまって名乗った。

「逢坂仁史です。ラジオでいいよ」

 話によると彼───ラジオは私より四つ年下の大学生。専攻は何と訊ねると「精神医学」と答えが返った。私にはさっぱり判らない分野なので、「へええ」と間抜けた声で感心するしかなった。彼は何か言おうとしたのか、「んー」と肘を突いて組んだ手の上に顎を載せて少し考え込んでいたが、ふっと笑ってこちらを振り向き「だから僕ら、似てるんだよ。ミオさんとは波長が合うみたい」と言ってニコニコした。

「は?」…いきなり何だ。くどいてるのか?

「あ、誤解しないでね。下心は全然ないから。っていうか、ミオさんにはそういう女性的な魅力は全然感じない」

「……失礼ね!」コーヒーにむせながら抗議した。

「ごめんなさい、失言でした」

 苦笑するラジオに、カウンターから出ていた遠山さんが「すっかり仲良くなったじゃないか」と笑った。

 ───何か、ごまかされたような気がする。

 彼は違うことを言おうとしていたんじゃないだろうか。

「そもそも気が合うことを『波長が合う』と言うのはどうしてかな」

「は?」

「は。そう、波長の波」

 ……ただ聞き返しただけだったのだけど。ラジオは波を『は』と言い換えた。

「僕は思うんだけど、人はこう、自分から周囲に波を発しているもので」

と言いながら、両の手のひらをこちらに向けて『波を発する』ように、曲げた腕をゆっくり伸ばした。

「それはどんな波かというと……まあ人柄とか、その時の気分とかね。そして人はその波動を感じている。『察する』っていうのは観察による推測を含めて、直感なんかもこれに相当して言うじゃない。その直感はそうした波動によって起きるんじゃないかと僕は思ってるんだ。『雰囲気が漂う』『虫の知らせ』『ツーと言えばカー』……どうだろう、脳には微弱な電流がある。今ここに……」

と、彼がテーブル席の方を振り返ると、携帯電話の着信メロディが鳴った。客が携帯を手に絵の廊下へと出て行く。

「いる人の携帯が鳴る。その棚のラジオのスイッチを入れれば音楽が流れ出す。外に出れば…この時間は外灯が点っているね。昼なら太陽の光が射している。…そんなふうに、人の体からも波動が発せられていて、皆それを感じながら暮らしていると考えられないかな」

 気づくといつのまにかラジオの話に聞き入っていた。彼の声やリズミカルな口調は絶え間ない波のように、寄せたり引いたり、心地よい揺らぎがあった。

「……つまり、人の波動が、そんじょそこらにいっぱいある、と」

「そうそう。ここにもここにもここにも」

 ラジオはまた手のひらを向けて、ここ、と言うたびにそこにある波動に触れるかのようなしぐさをした。

「そして人それぞれ感情それぞれの波長があって、その───揺らぎ」

 私はまた少しの驚きをもって、私と同じ言葉を選ぶ彼を見た。彼はふっと微笑んだ。

「……人は揺れているんだ」

 ゆったりと体を小さく揺らす。くすくすと笑う。

「同じように揺れている人がいて……つまり僕らの波長が合っている、と」

「……?」

 考え込むと眉間に皺が寄った。私は人差し指で額をこりこりと掻いて、「つまり」と小さく体を揺らした。

「ラジオさんは私の波動を感じて、波長が合っていると思う、と」

「そうそう。ほらね」

 気がつけば二人して同じリズムで体を揺らしているのだった。後ろから「何かすげえ楽しそうだなあ」と遠山さんの笑う声がした。「はっ、ついのせられてしまった」と私が言うとラジオはカウンターに突っ伏してクククと笑った。

 波動を感じる───

 ラジオの言うようなことが本当にあるのだろうか。それは判らないが、『波長が合う』のは頷けなくもない。どう見ても彼ら二人にのせられているこの状況を、私は楽しんでいた。気が合う、通じ合うといった事柄を光などの電磁波に置き換える考え方も、物事にやたらと神秘性を持たせたがる怪しげな人達より好感が持てた。

「うん。判るよ。だってほら、『心を揺さぶる』とか言うものね。そういう波動があって、揺れる……って考えると面白い」

「うん。そうなんだ。だからさっきの失言は」と、顔を上げたラジオはまたクククと笑ってカウンターと仲良しになった。ようやく体を起こして「はあ、」と溜息を吐く。

「僕と似ていると思う、ってこと」

「…似てます?」

と私はカウンターの中に戻った遠山さんに訊ねた。彼は「さあ、よく判らない」と答えた。「でも名前は似てるじゃない。ラジ男とパソ子」遠山さん、気に入ったらしい。

「パソ子じゃないってば。……でも何でラジオなの?」

 ラジオは少し俯いて、困ったように微笑むだけだった。代わりに遠山さんが答える。

「よく喋ってよく歌うからラジオ」

「…ものすごく納得がいった、今」

 テーブル席の客達が立ち上がるのに合わせて遠山さんがレジに向かった。ラジオは「よく喋る」と言われたからか、それまで人懐こく尻尾を振っていた子犬が置いてきぼりを喰らって、しゅんとうなだれているように見えた。

 するとさらさらした髪の隙間から犬の耳が飛び出して、ぺたっと垂れた。

 勿論、実際に犬の耳が生えたわけではなくて、『そこに犬の耳がある』という感じがするだけである。だけど一度そう感じてしまうと、私にとっては『そこに見えない犬の耳があるのと同じ』なのだ。見ると彼はご丁寧にふさふさした尻尾まで垂らしていた。「耳と尻尾が垂れてるよ」と言ってやると、彼は私を上目で睨んで「わんっ」と言ってみせた。

 要するに、感覚の遊びだ。

 感覚だけの物言いで、話が通じさえすればいいのである。

 よって、これ以降、ラジオが犬の耳と尻尾を生やしているような気になった時には、私の目にそれが映ったかのように記す。

 私の一言で「わん」と吠えてみせた。彼の言う通り、私達は同じ感覚の持ち主なのだ。

 この時のことを、後に遠山さんは振り返ってよく「秋葉原ラジ男パソ子誕生の瞬間」などとからかう。漫才師のような言われようだが、これ以後私達は『ラジオ』と『パソコ』の役割を持ったコンビを組んで動くことになる。

 カウンターに並んで座る私達の背中に、巨大な一枚の絵を背負って。


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