夢の牢
拙い文章ですが、お付き合いのほどよろしくお願いします。
私は、いつからこの場所に居たのか、どうやってこの場所に来たのかを思い出せないでいた。
私は階段を下っている。
薄暗い中に存在する大きく弧を描く木製の階段は、薄らと灰色を被っておりどこか古びた印象がある。
この階段は恐らく、木造の建物の中に存在しているのだろうが、私にはそれを確認する術はない。
私が感じているのは、形容しがたい閉塞感だけだ。
私のすぐ左隣には壁がそびえ立っているのかもしれないが、見えるものは全て暗く、階段の数段先も真っ暗である。
唯一分かることは、この階段が木で作られている事だけ。
私は行く先も分からぬまま、右手を手すりに這わせ階段を下って行く。
数秒後には階段の最後の一段から床に一歩を踏み出していた。
軋みを上げる床に対して久しさを感じる事に違和感を覚えるも、その原因を散策する気が起きなかった。
私は両足を床に着け、正面を見た。
一歩先の位置には、木製の扉がある。
窓のついた洒落た作りのドアは他と違わず、長年放置されたような印象がある。
顔の高さにある扉の四角い擦りガラスは、外の様子が全く分からないほど汚れている。
しかし、私はこの扉の向こうが外に繋がっていることを知っている。
その一方で、この外の世界がどうなっているのかを私は知らない。
私は無意識的にその扉を開いていた。
目の前に広がるのは灰色の大地と黒色の空。
二色の境界線は不気味なほど鮮明に分かれており、私の見えている空がどこにあるのか想像を絶する。
灰色を視界の隅に追いやれば、黒一色の世界。
空は鼻の先に在るようで、それを目で辿れば急速に虚空にある注視点に向かい、姿を晦ます。
空は触れられそうなほど近く見えるが、それを掴み取ろうとする好奇心は戦慄するほど強い恐怖で塗り潰されている。
もし手を伸ばせば、腕を捻じ切らんとするほどの力で吸い込まれ私の体ごと黒一面の世界に飛ばされてしまうはずだ。
私は正面へ向き直り、灰色の大地を観察する。
灰色の正体はきめ細かい砂のようでもあるし、柔らかい粘土のような印象がある。
その灰色が作る垂直に近い急勾配の丘は、正面に続く道を除いて私を囲っている。
不自然に高く積み上がっている灰色の山は、今すぐ崩れてもおかしくないように見えるが、その形がまるで当然であると私を納得させる。
そして私がその灰色に触れようとすれば、固めた泥に触れたような感触を受けるかもしれないが、確実に一粒の灰色ですら削ぐことは不可能だと分かっている。
仮に、私が誰かに「おかしいと思わないのか」と問われれば、私は彼に対し猜疑的な視線を返すだろう。
私の右側の高い丘には用途の分からない木材を組まれていた。
足場にすらならないほど簡素な建物はひどく朽ちており、組み上がっている事自体が奇跡的だ。
灰色の壁と似たような高さはある様だが、頼りない木材が数本だけの建物は非常に見すぼらしい。
木材は何かの建物もしくは高壁の骨組みだったのだろうか、木材の一部は灰色に深く刺さっている。
よく周りを見渡せば、他に数本の木材が地面に埋まっていた。
そして唯一通れそうな道には、行く先を示すように横倒しの木材が埋まっていた。
私はようやく歩き始める。
感触の分からない灰色の地面と固い感触の木材を踏み、正面の道に入っていく。
両手を広げたほどの幅がある道は、緩やかな下りで右周りに旋回している。
しばらく歩き、体感としては直角に右を向いたときよりももう少し旋回した方向を向いた頃、先ほどまでの双璧に挟まれた道から開けた場所が見えてきた。
開けた場所に出ると、海水の臭いと水に溶いたような腐臭を感じる。
一段高い私の場所は正面の壁まで緩やかな弧を描いて続いているが、左側に一歩下った先には緩やかな坂が広がっている。
坂は灰色の砂浜の様だったが、その上の大部分には比較的綺麗に木材が並べて深く埋め込まれている。
その床は意図してやったものか作業が雑だったのかは定かではないが、木材による凹凸や木材間の隙間がある。
そして、その床の上には木製の船と傍らには一本の木製のオールが置いてある。
船は完全に乾いており使われたような形跡はなかったが、オールはボロボロになっていた。
私は坂の先にあるものを見る。
坂から端までの距離はそれほど長くなく、ここからでも数歩で端着くだろう。
肝心の坂の先には空と同じ色の黒い空間が広がっていた。
それは海や水では無く、私の知っている空であった。
私は坂には向かわず正面の道を進むことにした。
先ほどまで歩いていた道と同じく感触の無い灰色の道だが、先ほどと違い木材が埋まっていない。
道は思いのほか長く、思うように先に進まない。
歩くペースと歩幅は先ほどと変わらないが、一歩の移動距離が先ほどよりも短くなっているように感じる。
この現象を奇妙にも、そしてもどかしくとも思うが、これが現実でないと思わせる環境がそれらをひっそり打ち消す。
私は道の終点付近で足を止めて"それ"を観察する。
先ほどの臭いの発生源であるそれは、おそらく私の知っているであろう生き物だ。
地面の灰色と少し違う汚れた水色の混じった皮膚が重なっているのか、同じ方向に皺が何本も入っている。
両手両ひざを地につけてただ呼吸をしているのか、一定の間隔でその背が小さく上下している。
"それ"がこれ以上の行動を起こすようなことはなく、ただそこに居る。
"それ"は恐らく人だったのだろう。
私は"それ"から目を背け、ふと振り向くと新たな道を見つけた。
滑落しそうなほどの急な道には所々木材が見えており、元々は階段か何かであったのだろう。
私はその道に進もうと歩みだした時、自身の心情に気づいた。
全身の寒気と早くなった鼓動。
私は恐怖を感じていた。
理由は先ほどの生き物のせいだ。
本当に"あれ"が人であったかは確信は持てない。
だが私の成れの果ては、きっと"あれ"と同じだ。
私にはそれを証明する手段は無い。
ただ私には、それが既に経験した事があるというほど鮮明な映像に見えた。
私の体は歩みを止めず道の先にたどり着いた。
恐怖に怯えず勇敢にも先に進んだわけではないと私は分かっている。
私は既に引き返すことも逃げ出すことも出来ない状態だった。
私の感情は多大な恐怖心を外付けされた莫大な好奇心で塗りつぶされていく。
私はこの先に確実に恐怖の対象がいることを知っている。
それでも嘘の好奇心が私を突き動かし、その根源へ歩みを進める。
目の前には破棄された木材が地面にいくつも突き刺さっていた。
それらは意図的に後から地面に刺したようで、乱雑に刺されているが一本ずつ分けられており、何かを埋葬した墓標のようにも見える。
そしてその墓標の一つに寄り掛かって座る水色の生き物が居た。
"それ"に動いた様子は無かったが、不気味にもこちらを見ているような感覚があった。
私は気にすることなく"それ"に近づく。
気づけば"それ"の目の前に立っていた。
座っている"それ"は私の目線の高さに顔がある。
ただその顔も皺だらけで部位を把握できない。
何をするでもなく、ただそこに居るだけなのだが、死んでいないという事は分かっている。
きっかけは分からなかったが、ふと掠れた男性の声が私に入ってくる。
「ここへ来てはいけない」と。
ーーーこんなところに来たら危ないよ
突然私の真後ろから女の声がかかった。
気が付けば私の左手が何かを握っている事に気づいた。
そして当然のように振り返れば、私よりも頭一つ低い少女が居た。
少女は私の視線に気づくと私の左手を両手で取り、にこりと笑みを返す。
私はようやく何を恐れていたのかを知った。
そして好奇心から解放された私はこの少女に捕まってはいけないと理解した。
私はいつの間にか部屋の中にいた。
そして私は空を見上げると同時に私自身を見下ろしていた。
画面の中に居るかのような感覚があるがその通りな様で、見下ろして分かる私の姿や周りはすべて平面だ。
そして、すべての描写が四角を組み合わせたようなもので描かれている。
試しに手足を動かせば、なんの不自由なく動かせる。
自分の体を見ながら足を動かして歩くというのは不思議な感覚であるが違和感はない。
私のいる場所は小さな家の中のようだ。
四方には壁があり、その一つには出入り口と思われるマスがある。
家の外側は真っ暗な空間が広がっているが空とは違い、ただ何もないだけだ。
私の見えている光景ではこれ以上の情報は無い。
私は落ち着いて辺りの様子を把握したつもりだが、心のどこかであの少女に対する恐怖が明確にあった。
そしてその恐怖心が私を臆病にし、無計画に私の体を突き動かすのだ。
私は出入り口と思われるマスに移動した瞬間、視界から黒い場所が無くなっていた。
見慣れた灰色が私の視界一面に現れた。
ただその灰色は完全に一色ではなく、高低差を示すように暗い場所や明るい場所があった。
私が視界の中心にぽつりと存在しているのが確認できた。
私の丁度真上には家のようなものが描かれたマスがあった。
おそらくはこの家が先ほどまで私が居た場所なのだろう。
私の体は勝手に歩きだす。
外に出てからか、体の寒気が止まらない。
この寒気が外気によるものでないことは本能的に分かっている。
あの少女が怖い。
私はあの家から出た瞬間から彼女に背いたのだ。
少女は私を探すだろう。
少女は私を捕らえるだろう。
私が少女に捕まれば、私は私の最期を見るのだろうか。
私の体はあの水色に変色し、私は物言わぬ生き物に成り変わるのだろうか。
いや、必然だ。
私はそうなるのだ。
ただ、それが私の最期ではない。
その将来は、私が勝手に呼吸をするほどに、当然のように起こるのだ。
私の足場が固い土から固い泥に替わった程度の違いに過ぎないのだ。
私が異形になろうとも、私はその変化に気づくことは無いのだろう。
これが私の確定した進路。
どれほど私が苛まれ、拒絶しようとも変わることのない確固たるもの。
そして私がこの地に居たのも、至極当然なのだ。
私の体は歩みを止めない。
既に諦めのついた思考は確定した未来に放心し、客観的に私を見下ろす。
いつの間にかかなり歩いていたのか、視界には家が映っていなかった。
私は何処へ向かっているのだろうか。
この地に安楽の場所は無く、永遠と少女の影に怯えているしかないのだ。
---もう、出てきちゃだめだよ
無邪気な少女の声が聞こえた。
見ると少女は私の一マス先にいた。
ただ、少女の輪郭は四角では無い曲線で模られていた。
私の体は少女とは反対方向に走り出す。
その様子を見て、私の中に呆れと、もう一つの感情が浮かぶ。
逃げ出すことなどできない。
それが分からない私の体は酷く滑稽だ。
現に少女も当然追ってきており、その差は全く開かない。
ただ、私が少女から逃げようとしているのは意外だ。
けれども、私の未来は一つだ。
私はこの場で歩みを止めて、少女に飛びつかれるのだ。
私の体は止まらなかった。
おかしいと思いつつもふと、私が何処に向かっているかに気が付いた。
家のあるマスだ。
私はそこに逃げ込むつもりだったのだ。
窓はなく扉のみの家ならば、籠城することが可能なのだろう。
だがその考えを私は一蹴する。
あの家は少女の用意したものだ。
私が助かる術はない。
そして少女を見れば、彼女は平面から脱しているのか、浮遊しながら私を追っている。
---行かないでよ
少女は私を追うのが楽しいのか、私の将来を嗤っているのか、笑顔を浮かべながら私を捕らえようと追跡する。
私の体は、遂に家の近くまで来たようだ。
ピクセルで描かれた私の体は相変わらず、表情と動きは無い。
ただ、当たり前のようにここまでたどり着いた。
しかしこの逃走劇ももうすぐ終わるのだろう。
私は芳しくない期待をしつつ、私が家を踏むのを見守った。
そして、私が家のマスに踏み入った。
だが私が家に入ることは無かった。
私は家の上に唖然と佇む私を確認し、安堵した。
逃走劇の幕引きだ。
私は最期の瞬間を確認せずに視界を閉じた。
逃げだしたい。
希望を捨てた私の中に、本来の私の願望が湧き上がる。
その様子は形となり、私の作り上げた真っ暗闇の中に溢れ出る液状の光として出現する。
白と黄の境界にある金色のような光が、ついには全ての暗闇を退ける。
その光は次第に色を変え、私が最後に見た光景を作り上げる。
私がはっきりとその光景を認識した時、私の目が開いていることに気づく。
変化はまだ終わらない。
私の思いが将来を替えようと働く。
その思いは私の立っている全ての大地を目繰り上げ、私は私自身を目がけて急速に加速した。
私はこの奇妙な光景に、未知に啓蒙されたかのような錯覚に陥る。
私の意識は海底の深淵へと沈み、すぐそこの天界へとはじき出され、恒星の激しい光が私の目を焼くと同時に浮遊大陸の地層に突入し、溶解した大陸の岩石がうねり海水となり私を海の底へと突き落とす。
何故逃げ出せる。
私の将来が破壊される光景が脳裏に浮かび狼狽する。
私は間違っている。
私の将来は呼吸をしているのだ。
何故そうではなくなるのか。
私の将来が誰も何もない最善のはずなのだ。
ああ、私は何を勘違いしていたのだろうか。
私はあの少女から逃げ出したいのだ。
ただそれだけの事。
不可能も可能も無い。
単なる願望だ。
私の意識は急激にあるべき場所へと吸い込まれていった。
ーーーあはは、すごーい
私は少女の賞賛の声と共に私の体に還って来た。
私の体は見慣れたものに戻っており、不思議なことに少女と同じように空間に浮かんでいた。
周りを見渡せば、ほぼ一面の黒い空と足元に帯状に広がる灰色と若干の茶色がある大地。
その大地は巻物のようなものだったのだろうか、一方向に長く続いている。
そしてその方向とは反対に浮かぶ少女は笑みを浮かべて私を見ていた。
私は少女から遠ざかるように動き始める。
飛行しているが不自由はない。
むしろ、すべての枷が外れたように体が軽い。
これなら逃げ出せるかもしれない。
ーーーでも、逃げちゃだめだよ
私は只管に、巻物の伸びている方向に向かう。
私にはこの先が逃げ道であることが、確信に近い形で感じていた。
私はスピードを落とさず、少女に向き直りながら移動した。
少女も当然追いかけてきているが、意外にもその差が開いてきているようだ。
ーーー …むぅ
少女にとってこの状況はつまらないらしく、小さく唸る。
すると少女は不思議な行動に出た。
少女の手に集まる謎の白い光。
光源としては機能していないが、不自然なほど明るく光っている。
少女が丸くなった光を私に向ける。
注意深く様子を見ると、その光が少女よりも速くこちらに向かってきているのに気づいた。
私は身を動かして光の軌道から外れると、何事もなくその光は私の居た場所を貫いた。
ーーーちゃんと避けられるかな
私が驚いている様子に気を良くしたのか、少女は身の回りに光弾を展開して、私を見る。
そして少女はそれらを私に向けて放つ。
数個の光弾が直線的な動きで私に飛来する。
絶え間なく補充を繰り返しているのか、その弾幕は止む気配がなかった。
しかしそれほど早くもない光弾は、スピードを落とさずとも簡単に避けることが出来る。
ーーー止まってってば
少女は私に光弾が当たらないことに痺れを切らしたらしく、また新しいことを始める様子だ。
少女はぐるりと縮こまると、その身体が粉末を押し固めた様にさらに縮み、怪しく光る紫色の結晶に変化した。
よく見ればそれは黒い球体に縁どられているようだ。
そして、私の耳に「ああ、あれは滅びだ。それを使わせてはいけない」という男性の声が聞こえてきた。
奇怪な光景に私はひどく冷静でいた。
この空間には私と結晶に変化した少女のみが居る。
そして真っ黒な空間に浮かぶ大地の帯。
帯の最後が私の逃げ道だ。
だから私は、ただこの道を進んでいけば良いのだ。
そして何より、私は少女に構う必要など無いのだ。
私は一目散にその場から離れることにした。
少女の様子が気になりはするが、私は振り返ることはしなかった。
ただ、何も起こらないという漠然とした信頼が私を動かした。
かなりの距離を移動できただろうか。
目的地は見えないが、すぐ近くにあるという安心感が湧いていた。
つい先ほどまで不運を受け入れ、望まぬ将来を想っていたのだというのがひどく懐かしい。
私は今なら自信を持って、言うことが出来るだろう。
これが私の最善の選択だったのだと。
私が気配を感じて振り返ってみると、少し離れた場所に人の体をした先ほどの少女が居た。
ただ、少女はどこか疲れて様子でいた。
ーーーお願い、止まってよ
少女が私に気づいたらしく、そのようなことを言ってきた。
先ほどまでの威勢は無く、どこか焦っているようだった。
私はそれが気になって、移動したまましばらく少女の様子を伺った。
少女も攻撃を加えてくるような様子はなく、懇願するような表情で私を見つめていた。
ーーーもう手加減できないから
少し長く感じるような時間、私が止まらずにいる事に少女は落胆したのか、行動に移り始める。
少女が両腕を広げると、鮮明に色のついた巨大な光弾が四方に展開した。
光弾の色は青、緑、紫、赤とこの空間からひどく浮いている。
よくその形を見れば、球体の中にも深い色の球体が入っており、まるで一粒の卵のようだ。
外膜にはギラギラとした稲妻のようなものが走り、その内側は何かの生き物がうごめいているかのように、彩度が常に変化している。
少女が黙ってそれを放つと、またもや見知らぬ人の声が「少女にそれを使わせてしまうなんて」という言葉を嘆くように発する。
魚卵のような光弾が動き始めると同時に、私の元にいつの間にか出現していた薄っすら色のついた煙が、周囲から収束した。
その煙の収束に驚きはしたが、痛みや違和感は全くなかった。
むしろ、沸々と安心感が湧いてくるような感覚があった。
私を飲み込めるほど巨大な球体が迫る中、私はどこか他人のような気持ちでその光弾を見ていた。
光弾は私と繋がっているかのように相対的な一定速度で私に近づいてくる。
速度は非常に遅いが、だんだんと近づいてくる様子が私を取り込もうとしている様にも見える。
生命的な神秘を感じる光の玉は、身の中に鼓動を持ち、その誕生を心待ちにしているように感じた。
だが私は、それが生まれないことを知っていた。
そしてそれらが限りなく私に近づけても、私に触れることは叶わないと分かっていた。
私はこの光弾に触れた時に何が起こるかなど想像できなかった。
だが、想像できなくて困ることはない。
そのような事態は確実に起こることは無いのだから。
私が少女から逃げ出すことが出来た。
この結果が私の求めていたものだ。
私の将来は確実にそうなるのだ。
私は光弾の静止を確認すると、そのまま振り返った。
いつの間にかほど近い距離には、巨大な鉄格子の門が構えられていた。
そしてその奥には、同じく巨大な茶色い観音開きの扉があった。
私は地に降り立ち、ゆっくりとしたペースでその門に近づいた。
ーーーだめなのにぃ、止まってくれなきゃ、ああぁっ、あああああああああ
私の後ろで、少女が絶叫した。
私は歩みを止めることなく、大門に近づく。
大門は私を歓迎するようにその扉を開き、少女の声は次第に遠ざかっていった。
私が門をくぐり、扉に対峙する。
奇妙にも、私の足下は灰色ではなく白い下地に茶色の塗料で四角が3つ描かれている。
私はそれを気にすることなく、扉に向かい歩いていく。
私は観音扉に両手をかけて力を籠める。
ずっしりと重い扉だが、段々と隙間が大きくなっていき、遂には私が通れるようになった。
部屋の中に入れば、静止した空間が私を迎えた。
薄暗い木造の部屋には本棚や壊れた椅子が無造作に置かれており、長い間誰にも使われていないような印象がある。
その様子を確認し、私の中にあった緊張感は溶け、替わりに安心感と達成感で満たされていく。
私は最後の仕事に取り掛かるため、開いたままの扉に向き直る。
外はやはり真っ黒な空が占めており、先ほどまで追ってきていた少女の姿や声は既に無かった。
両手で扉を押すと、巨大な扉はゆっくりと動き出す。
ようやく、これで終えることが出来る。
私は閉ざされる扉の先にある光景を今一度見ようと顔を上げる。
見えたのはひらりと浮かんだ一枚の紙のようなもの。
その一面を見て欲しいと言う様に、こちらを向いている。
茶色で何かが描かれている紙はどこか見覚えのあるものだった。
だが、三つの四角の内の右二つが茶色で塗りつぶされていた。
そして、残る一つにはコーヒーカップを持った道化と塗りつぶされた吹き出しが描かれている。
道化は横目に私を見ているようだが、どこかどうでもよさそうな表情を浮かべている。
私が道化に視線を送ると、道化はそれに答えるようにカップを口元に持っていった絵に切り替わる。
その変化をすぐに終え、元の姿勢に戻ると、道化は吹き出しに意思を示す。
「お前は用済みだ」
その意思に声は伴わなかった。
茶色の吹き出しに書き出された白い文字は、全く感情が籠っていない洒落っ気の無い字体で書かれていた。
だが、私の心情に最大の衝撃を与えた。
その言葉の意味は分からなかった。
だが、それを考える暇もなく、扉は一人でに閉まっていた。
私の求めた静寂が暗い空間を覆う。
しかし、今の私にとってこの空気はそれほど心地の良い物には感じなかった。
あの言葉が気になった。
あれは逃げ出した私を送るための言葉だったのだろうか。
私がここまで来られたのは、私の本来の逃げ出したいという意思のおかげだと確信している。
そして道化は、逃げ出すことなど不可能だと思っていたのかもしれない。
しかし実際に私は成し遂げた。
道化は悔しかったのだろう。
だが、あの言葉は私に向けられたものだったのだろうか。
私を捕らえられなかった少女の方こそ、この言葉がふさわしく思える。
少女は私を逃すことをひどく恐れていた。
それは、用済みとなった場合を恐れていたのだろう。
私は少女が可哀想だとは思えない。
少女が私を捕らえようとしたことは、私にとっての害だった。
そして少女が私を逃がしたことは、道化にとっての害だった。
少女は失敗しただけだが、それが全てだ。
私はそう思うことにした。
私は思考を止め、顔を上げる。
薄暗い空間はどこか見覚えのある埃っぽさがあった。
少しだけ違うところがあるとすれば、それほど明るさの無い光源が捨てられた木片の隙間にあることだ。
私はどこか懐かしさを感じる光を求め、木片を崩していく。
次第に見えてくる青紫色の光源はどこか見覚えのあるものだった。
その記憶は私が灰色の大地に踏み入れるよりも前のものだ。
私が実際にその光を用いたことは無かったが、その光に触れれば何が起こるかの予想は付いていた。
その光は私に帰る場所を示してくれるのだ。
そして、その光は私に問いかけるのだ。
「帰るのか」と。
私がそれを承諾すれば、私は本来あるべき場所に送られるのだ。
私は光源が鮮明に見えてくると、帰還への期待が最大限に高まってくる。
先ほどまでの衝撃を忘れ、私はついに青紫色の立方体に触れた。
それが稼働したのを感じる。
私は問いに対して承認する準備を済ませていた。
私は光の極僅かな変化を眺めながら、その瞬間を待った。
その光は私に問う。
「戦いますか」
私は確認せずに承認した。
私は一瞬、間違えてしまったことに狼狽えた。
だが、どこか楽観的な思いが心を満たしていた。
私は無意識的にもう一度光に触れた。
光は何も起こさない。
その光は光源としての仕事を終えたのか、次第に光が弱まっていく。
私の呼び声をその光は完全に無視して、終息していく。
そして光は消え、木造の空間には薄暗さだけが残った。
私は次第に私が犯してしまった事態を把握していく。
私は、最後の選択を間違えた。
その結果として、青紫の光は何も起こさず消えていったのだ。
私は失敗したのだろうか。
私は望まぬ運命から逃げ、少女を失望させ、私の望みを勝ち取ったのだ。
その結果、帰ることは叶わなかった。
最後まで成し遂げられなかったことに疑問は残る。
だが、どこか間違えていたのだろうか。
私は確信して最善を行えたはずだ。
今の私は酷く哀れに映っている。
既に答えは知っているのに、それをあえて見ないふりをしている。
その答えが私を示していることが信じがたいのだろう。
それが否定はできないと知っているなら尚更だ。
なら、その頼みの綱を切り落としてしまおうか。
青紫色の光は、帰り道を示さなかった。
これが全てだ。
ああ、お前は用済みだ、立ち退いてくれ。
意識の落ちた私は部屋の隅に居る金髪の少女に目が行った。
少女の後ろには巨大な扉があり、つい先ほど見た光景に酷似している。
少女はどこか大人びた雰囲気を醸し出しており、視線の先にある大回りの螺旋階段を下った者を見てるのだろう。
少女の翠色の目には、期待と心配の感情が浮かんでいた。
ご覧いただきありがとうございました。
現実離れした異質な空気を楽しんでいただけたのなら幸いです。
ちなみに、この作品は筆者の見た夢を基に考察を加えたものです。
夢ならではの独特な浮遊感や理不尽に襲い掛かる鈍足感が伝わっていれば嬉しいです。