鵺
瞳に映るものは
──鵺
頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇だとされる。
雷獣であり、鵺が訪れた屋敷の主は必ず不幸に遇うという。
──ヒュオウ、ヒュウルリ……
木枯らしにも似た音が内裏に響き渡っている。
聞こえるのは決まって艮 (午前2時~6時)の刻。
朝陽がゆるゆると舞い込む頃にはピタリと鳴り止む。
初めは皆、気にも留めていなかったが、もう一月にもなる。
風の吹かない夜にも音は聞こえた。
そのうちふと誰かが口にした。
『これは鵺に違いない。
主上に災いをもたらしに来たのだ』
それ以来、内裏ではまことしめやかに噂が流れている。
勿論、帝の耳にも。
夕暮れ時、庭に男童の涼やかな声が響いた。
「晴明様、主上がお呼びでございます」
円座を枕に、庭に背を向けたまま晴明は呟く。
顔を向ける事すら面倒臭いとでも言うように。
「どうせ鵺の事だろう?
すぐに伺うと伝えろ。
帝も気の小さい……。
気にせねば良いのになぁ?」
晴明の声が届いていないのか、猫は構わず毛繕いを続けている。
「お前は気楽で良いな」
猫の喉を一撫でし、緩んでいた袍を締め直した。
いつの間にか男童は姿を消し、代わりに網代車がひとりでに動き出していた。
車が土御門の辻を曲がった頃には、辺りは夕闇に包まれ始めていた。
今宵も人々は噂をしあう。
人の不幸ほど愉しいものはないのだから。
清涼殿に進み入った晴明は好奇の眼差し、囁き合う声、それら全てに一瞥をくれ、廂に腰を据えた。
御簾の内から声が聞こえる。
平静を装ってはいるが、酷く怯えた声だった。
「……良く来てくれたな。
わざわざすまぬが聡いそなたの事だ。
用件はわかっておるな?」
「勿論でございます。
剛の弓の使い手を一人、お願いしたいのですが」
帝はすぐさま使いを兵衛府にやり、男がやって来た。
年の頃は晴明よりいくらか上だろうか。
引き締まった体つきと、異様に長い左手が弓の腕を物語っている。
柔らかに笑うその男は源満仲と言った。
父は元々皇族であった経基王だと言う。
彼はそんな事を鼻にもかけず、臣下に下ったのだからな、と一笑した。
清涼殿から離れながら彼は話し続けた。
どうやら話好きな男らしい。
闇が深まり、月明かりが一際強く射した頃、満仲の顔付きが変わった。
口許の笑みは消え、漆黒の瞳は冷酷さのみを称えていた。
不気味な風音が通り抜けるも肌を撫でるものは何もない。
「……来たな」
「……見えるのか?」
「……気配は感じるが見えぬ。
だから主上に頼み、そなたを呼んだのだ」
音がうねる。
先程までやかましげに啼いていた梟も身を潜めてしまった。
「ふむ。
では俺はお前の目になろう」
晴明はスッと満仲の瞼に指をあて、呪を描いた。
満仲の双眸に微かな光が吸い込まれた。
「……何をした?」
「後は頑張れよ。
俺は後ろで見ている」
晴明はゆるやかに口角を上げた。
「随分やる気のない陰陽師だな」
満仲は豪快な笑い声を上げ、ぐるりと白砂の上に広がる夜空を睨んだ。
蒼白の月は紅く染まり、黒い影を映していた。
その影は言い伝えそのものの姿。
満仲は鵺目掛け、弓を引いた。
矢が当たる。
瞬間、それがぐにゃりと歪んだ。
蛇の尾は縮まり、輝く金と黒の豊かな毛並みは艶やかな肌へと変わっていく。
猿だったはずのその顔は、美しい女の顔になっていた。
女は音もなく白砂の上に立つ。
『……やっとお会いできましたね。
経基様……』
頭に直接流れ込む不思議な声。
言語を話しているのではないのかも知れない。
意識の奥で理解している、そんな感覚だった。
体に褐色の月明かりのみ纏い、近付いてくる女に満仲は矢を射る事も忘れ、ただ立ち尽くしている。
晴明は舌を鳴らし、小さな紙を吹いた。
紙は宙を舞い、獅子へと変わる。
咆哮が空を裂く。
『……なぜ……邪魔をするの?
私は……、
私はただ、愛しい人に会いに来ただけなのに……』
退きながら女は語りかけてくる。
「そんなもの、知ったことか。
お前を滅すのが俺の仕事だ」
一瞥すると獅子が爪を立て、女に飛びかかる。
鮮血が飛び散り、白いしなやかな四肢が引き千切られる。
けれどもまだ声は続く。
『あなたは、私達の仲間なのに……。
ねぇ、狐の坊や……?』
晴明の瞳が揺らいだ。
途端に獅子の動きが止まり、しに体がぐんぐん縮まり元の紙へと戻った。
静けさが内裏に訪れる。
──ヒュル……
音と共に小さな鳥が月に消え、白砂に散らばったはずの血も、肉も跡形もなくなっていた。
「あれはなんなのだ………」
放心したように満仲が呟く。
無理もない。
鵺の形を彩ったものが女体に変化し、父の名を呼んだのだから。
「……人間だ。
いや、既に半分喰われているか」
晴明にいつもの皮肉めいた笑みはない。
足元で青い炎をあげる紙を踏みにじり、内裏を後にし、神泉苑へと向かった。
このとき、平静ではない晴明は気付かなかった。
もう一つ、網代車が音を潜め、後をつけていたことを。
夜の神泉苑は暗く水を張ったように静かで、物音一つしない。
砂利の音のみがやたらに響いていた。
柳下に灯りが仄かにともっている。
晴明がそちらに目を向けた瞬間突風が耳を裂いた。
「お前、なぜわかった?」
滴る血を意にも介さず尋ねる。
仄かな灯りはゆらめき、女へと姿を変えた。
『あなたらしくない問いね。
……だって、輝きがちがうもの。
神々しくも禍々しい白銀の煌めき。
半妖の中でもとびきり美しいわ』
音もなく女が近付き、晴明の白い頬に指を這わせた。
『母君は……お元気なのかしら?』
「答える道理はない」
『……そう。
でもあなたにも人の恋路を邪魔する道理はないわ』
晴明はゆっくりと目を閉じ、指を揃え唇に当てる。
空気が騒ぐ。
風に吹かれ鈴の音が響き、後ろの茂みでガサリと音がした。
綻ぶ呪。
茂みには、へたりこむ兼家と猫がいた。
「兼家……お前、そこで何しているんだ」
いつもなら僅かな気配も見落とさないはずなのに……。
不覚。
晴明が護りの呪を掛けるより早く、女は兼家の口から中へと入っていってしまった。
猫はただ、見ていた。
まるで絵巻物でも見ているかのように。
以来、内裏に鵺が出る事はなくなった。
次に兼家が目覚めた時、世界が変わっていた。
体の端々から熱がほとばしる。
まるで己が覇者になったような心持ちになった。
たちまち兼家の噂が内裏に広まった。
魂が入れ替わったかのように切れ者になった、先が楽しみだ、と。
そんな兼家を晴明は眺めていた。
少し悲しそうな瞳で。
だが見ているだけで、何もしない。
変わりゆく友人を見ても。
遠くに兼家を見ているとき、不意に肩を掴まれた。
「お前にしては、大失態だな」
ニヤニヤ笑う光栄の手を振り払う事なく、晴明は呟いた。
「あぁ……、一生の不覚だ。
祓えるとすれば、ヤツが自分の意思で体を離れた時くらいだな。
……後は流れに任せるさ」
「兼家ごと、滅すれば良いじゃないか」
「猫が傍観した。
俺はそれに倣うだけだ。
……流れには逆らわないのが俺の主義なもんでね」
薄く笑みを浮かべると、晴明は足音もなく廊下の先に姿を消した。
兼家の高笑いが響く。
妖に怯えていた彼は、もういない。