錦の地に月
「のぅ『穂旦山』」
色を重ねて盛りを迎えた紅葉を眼前において、『紅葉山』は契里に声をかけた。
雅葉殿から出て山際に杭打たれる朱の鳥居の下、崖上から望む景色は、赤い海となり風で浪打っている。
「はい『大紅葉山』」
さくさくと音を立てて落葉が『紅葉山』の道行きに音を添える。
契里はその後ろを数歩下がって同行していた。
『紅葉山一ノ宮麓』朱善は、なにやら縁深い姉である『大江山』に言い含められたようで、暫く前からこうして共歩きする際に同行しなくなった。
契里はそこで知ったのだが『紅葉山』の侍従朱善は、銀朱の分社であるらしい。
銀朱にとっての『紅葉山』とは、『和佐山』にとっての守夏と似た存在なのだろう。
そう位置づけするとおおよその銀朱の心の動きが理解できた。
大事な兄だからこそ、お姉様なら私は納得できる──そう言った妹の顔は真剣だった。
銀朱が『紅葉山』の気に入りであることは知れていた。つまり銀朱は契里にこう提案しているのだろう。
自分は契里のいちばんであった時雨を譲り受けた。
だから自分のいちばんであった『紅葉山』を頼みたいのだと。
だが契里は思う。この兄の特別な思いを背負う力が自分にはあるのかどうか。
向かい合い対等にやりあう何かが、存在するのか。
「そなた時雨には通暁しているようだが、あれが『豊山』派で立ち回っていたのと、こうして『紅葉山』派を名乗っておる時とどちらがよく思えるか」
「『紅葉山』派を名乗られるようになってからお会いしたのはつい最近のことですが……比べることはできません。まったく生まれ変わったように思います」
兄とのやりとりは、自然観賞より祀り事の事や、時雨の話が多い。
特に時雨とは長い間疎遠であったから、その間共にいた契里から聞く時雨の話は興味深いようだった。
時雨としたら聞かれたくない話ばかりであるのだが。
「それだけの衝撃が時雨にあったと考えるべきかな」
「『大紅葉山』は時雨様が『豊山』派でいたほうがよかったとお考えですか?」
「ん……いや? そうさなぁ……。銀が関わると大抵私の思い通りにはことは進まないものだ」
契里は、にこりと笑むだけで返事に留めた。
「失敗したとは思ってはいないが、成功したとも思っていない。大局を見極めるにはまだ早計であるな。まぁいくらでも修正はできよう」
「失敗はいつ成功と結びつくかわかりませんものね。『大紅葉山』は御自分の幸せさえも、目標のための足がかりにすると伺いましたが、まことのようです……」
時雨は契里を高く評価していた。
能力的なもの、立場的なもの、性格も含めてのことだろうが、洞察力や理解深める様を見ると『紅葉山』も納得ができた。
「そなたは私の事も随分と耳に入れているようだなぁ。それとも時雨が寝枕にそなたへ愚痴をこぼしたか……なんにせよ、随分とそなたに甘えていたとみる。でもそれも分かるな。そなたは月のようなおなごだ」
『紅葉山』は昼の月を見上げた。
焼けるような紅の大地に反して空は、青く月は白く靜かに二柱を見下ろしている。
「お兄様を見下ろすような状況は、天地が入れ替わらなければあり得ません。私はまだ若輩の妹です」
にこりと『紅葉山』は契里の謙遜に微笑んだ。
「おいで」
手招きを受け入れると、契里はもみぢの絨毯に座るように指示された。
裾を広げ座すと『紅葉山』はその契里の膝にころんと横たわった。
小さな頭が膝にのるともう一度『紅葉山』は笑った。
こうすれば嫌でも『紅葉山』を見下ろすことになる。
謙遜はやめろという意味だと契里は理解したが、距離が近すぎる。どうしていいか分からずに契里は膝から顔を逸らした。
月が影を落としたかのように恥じらう様は、青白い輝きを肌に宿しながらも、頬は周囲をとりまく紅葉によって赤く照らされていた。
逃げる月を追うように『紅葉山』の小さな手が契里の頬を撫でた。
右の頬、左の頬と手の甲が撫でる。
『紅葉山』は指の甲で顔をそむける頬を己の正面へ向けさせた。
「時雨と会って縁深い妹となって、月日重ねたことはまず失敗であったな」
「……いいえ、そのように思ったことは今に至ってもありません」
「時雨に会っていなければ、悪狐に会うこともなかっただろう?」
契里はそっと身をかがめ、膝に顔を寄せた。
「まだ大局を見極めるには早いのではないのですか」
その動作に合わせて肩に掛かった髪が肩から滑りおちると、『紅葉山』の頬を擦った。
左右に下げられた瑪瑙と珊瑚の簪細工が擦れあって、涼やかな音を立てると、冷えた契里の唇が『紅葉山』の頬に添った。
「時雨様とお会いしたのは、あなた様に会うためであったとすれば失敗ではなかったはず」
「切り返しが手練れておるな」
「私は『穂旦山』契里です。田舎の稲荷ではありませんお兄様」
風すら間を通ることをはばかるような距離で、契里は『紅葉山』を見つめていた。
「お兄様のことを、私はお慕いしております。もう御自分を悪狐などと卑下するのはお止め下さい。」
「私はそなたの思いに同じものを返すことができるかどうか」
「承知しております。私の気持ちの対価に卑下はおやめ下さいと、お願いしております」
「いや……まこと私は、非道も行うものだしなぁ……」
あっけらかんとした兄に、契里はどう言ってやるべきかと思案したが次の兄の言葉で思考が止まった。
「私は誰に罵られても、何とも思わないのだが、それが価値ある感情であるとそなたが思うならば、この広い稲荷の世においてそなただけに、罵ることを許そう」
「だから私は、罵られるべきではないと申し上げて……」
契里は膝の上の兄へ視線をやった。
そこにいたはずの小さな兄の姿は消えて、契里がここ十日で見てきたものとは変化して見えた。
童子のようにころんとした姿は失われて、時雨の背丈を越え、短かった金色の髪は長く──長く滝のように紅葉の葉に散らされていた。
紅葉山全盛の紅葉の様が、顕現している。
金箔を散らすように長い髪が揺れている。
目映い──焼けてしまいそうだ。
頬に触れてくる手の小さくふくふくとした指先も大人のそれに代わり、長く緩やかな曲線を描いて頬の線を撫でてくる。
指先が止まったのは、契里の唇の上。
ほんの数秒の間であった。
瞬きすると、その姿は消え、小さな兄がこちらをじっと見ている。
幻かと思ったが、兄は契里の驚きなど蚊帳の外である。
「いますぐに、他の何かはそなたに与えてやれないが、それを与えてやろう。そなた以外の罵りを、私は受け入れない。私を罵る権利をそなただけが持つ限り、そなたは私の特別な妹だ、契里」
芸州の浮島を千年ほど見守っただけの契里が、その倍以上の歳月の紅葉を踏みしめてきた兄を罵ることなどできないと分かっていてそう言うのか。
時雨ならそう言うだろうが、契里は『だからこそ』なのだと分かっていた。
この兄の特別な思いを背負う力が自分にはあるのかどうか。
向かい合い対等にやりあう何かが、存在するのか。
その答えはこれなのか。
あぁ、悪狐『紅葉山』本当に恐いわぁ……
契里は心の底から『紅葉山』を罵った。
この稲荷と自分は似ている。
自分を犠牲にしてもいいと自然に思ってしまう悪さや、時雨を思う気持ちまでも。
簡単に自分を追い詰め卑下しがちなところまでも。
だからこの兄は、こんな事を言うのだろう。
「後悔なさらないでくださいね、お兄様」
なにもかもお見通しなんて、本当に嫌だわぁ……
契里は誓ったばかりだった。
今度は互いに傷つけあいながらでも、思い寄せる相手と、正しくあるべき箴言をして行きたいと。
「私……結構毒舌なんですよぉ?」
「それがそなたの権利なのだから。私は聡明なそなたの罵りは、黙って聞き入れよう」
落ち葉が吹き寄せる風に騒ぎ立てる。
契里はゆっくりともう一度身をかがめて、兄の額に唇を寄せた。
「義務を怠ると許さないという風にしか聞こえません」
「そうか、その通りだから言い返す言葉はない」
「お慕いしております、お兄様」
「それは罵りではないのぅ」
「『穂旦山』では罵りです、覚えておいて下さい」




