誤解の火花
「まぁ……『穂旦山』侍従」
最初に理緒に気づいたのは、理緒の母親である葛緒だった。
栗色の髪に青い目の葛緒は『和佐山』侍従の内儀であり、和佐山全体の庶務を担っていた。
そのため頻繁に麓に下りることがあり、外と接触することも多いのだが、それで麓に姿を現した理緒を見つけたのだ。
「いらっしゃるとは伺っておりませんでした。何か急ぎの大事が?」
前掛けで水仕事をする手を拭き、参道へと近づいてくる理緒へ改めて視線をやった。
近づくと理緒が、ぼろぼろであることが分かった。
衣服には汚れと染み。父親ゆずりのふかふかの毛並みも乱れぱりぱりになり、手足は傷だらけでよたよたと歩く姿は瀕死の様子にも見えた。
葛緒は手にしていた桶を落とすと、立場など忘れ駆け寄った。
「理緒!!」
ぽて、と軽いものが転げるような音と共に理緒は葛緒に倒れかかった。
「理緒、どうしたの理緒!」
葛緒は娘の姿に動転し、傷を探した。
目立った外傷はないが、随分と疲弊していることは間違いない。
すぐに横にしてあげなくてはならない。
葛緒と共に麓で栗拾いをしていた子らが異変に気づき駆け寄ってくる。すぐに父にこの事を伝えなさいと命じられると、山栗が転がるように子らは参道を駆け上がっていく。山際から杭打つ朱の鳥居を駆け上がると、すぐに父の姿があった。
『和佐山』侍従が理緒を本殿へ運ぶと、状況を把握する前に三那彌がやってきた。
座敷につくと横たわった理緒の様子を見て、命の危険はないと判断する。
「御方様、『穂旦山』の身になにかあったのでしょうか」
葛緒は湯でしぼった木綿地で娘の傷や汚れを拭いながら問う。
三那彌は難しい顔をしたままで、侍従が応えた。
「とりあえず『穂旦山』侍従が起きて事情を話してくれないと、何ともできない。葛緒、食事の用意をお願い。多分僕が作らない方がいいから」
「ぷに飯なんか食わせたら理緒が死ぬ」
残った『和佐山』主従は無言であったが大体のことは目線で把握しあえる。
重い空気を、三那彌がため息でさらに重くした。
「最悪のパターンだろこれ」
「ご想像のパターンであったらどうなさいますか」
『和佐山』は返事をしなかったが、侍従は迷わずに『和佐山』の思考を遮断する。
「相手が悪すぎます」
「分かってる」
「第一いま『和佐山』は最盛期とは言えません。それで悪狐へ真っ向衝突は自殺行為です」
『和佐山』侍従は一度目を伏せて娘の姿を見てから、改めて三那彌へ視線をやった。
「最悪、乗り込んだ先で『穂旦山』がすでに亡い場合もあり得ます。そうなれば無駄足となります」
伏している手前、声を荒げることはなかったが三那彌は侍従の言いぐさに眉を跳ねて嫌悪感を示した。
そんなこと、考えても口にするな。
そういう意図を理解して、侍従は切り口を変えた。
「僕は三那彌様を失う訳には絶対にいかないのです」
「だからってこのまま契里を見捨てる訳にいくか。こうして理緒もうちに来てる」
「理緒と関与することで三那彌様が死地に向かうならば、理緒は今から門前に捨てます。ご自分が言った言葉をお忘れですか。山を第一になさると」
葛緒が聞いたら何と思うか分からないが、それでも侍従は山に降りかかろうとする厄災に対しては冷静であった。
「『穂旦山』がかけがえのない存在であることは僕も分かっています。誰よりも古くから三那彌様の身を案じてこられたのは、あの方であることも。 だからこそ三那彌様を山から出す訳にはいきません」
「お前の言ってることは正解だし、そうすべきだってことは分かってるよ」
この迷いは過去にさらに三那彌を苦しめた『雪白山』の時と同じだと、侍従は理解していた。
「守夏様に助力を乞うのはどうでしょう」
「無理だろ。契里は『紅葉山』派になりに行ったんだぞ」
「ですからそれを改心させるためにも、お力添えを頂きたいと訴えれば」
「どうかな……守夏兄様は裏切り者には厳しいしな。それに」
無理だ、今守夏は一柱の妹の存在で動いてくれるほど暇ではない。
単身で対処するほかにない。
三那彌の中ではすでに結論がついていた。
「すべての不安要素をもってしてもなお、悪狐のもとへ向かうと仰せですか」
侍従の言葉に『和佐山』は頷いた。
「お前はここに残っていていい」
「そういう訳にはいきません。僕は三那彌様を泣かせるわけには絶対にいかないのです」
侍従は理緒を挟み向かいにいる主の白い顔をじっと見つめた。
「あなたが行くというならば、僕はどこへでも行きます。僕は『和佐山』侍従なのですから」
「なら最初から行くって言えよ」
「ちゃんと釘をさしてからじゃないと、三那彌様調子のるじゃないですか。僕自身は大反対なんですよそれはちゃんと分かってくれないと困ります」
「主様に向かって調子のるって何だお前。ダムダムするぞ!」
頭上でのやりとりが炎上しはじめたのを悟ったのか、単にうるささからか理緒は目を開けた。
言い争いは一瞬で消え、三那彌は理緒を覗き込む。
「理緒、大丈夫か。何があった」
「みなみさま……」
思考が定まらない様子ではいたが、理緒は三那彌を認識した。
大丈夫だ頭は動いている。
侍従が判断すると同時に、ぽっこりと小山のように膨らんだ布団からきゅー、と空腹を訴える音が部屋に響いた。
真剣な表情であった『和佐山』は少し気が抜けた顔をして、理緒の腹を撫でてやった。
「……風呂に入って、飯を入れてから話は聞こう」
葛緒の用意した粥を茶のように流し込み、芋煮と山菜のひたしも完食すると理緒はやっとふっくらとしたいつもの笑顔を見せた。
理緒によると外傷はないが、大三縞からここ紀州和佐山までほぼ徒歩でやってきたという。
飲まず食わずでここまでやってきたのは想像の通り紅葉山に捕らわれた契里を助けるため『和佐山』へ助力を乞うためだった。
「あぁ、村上……村上か。覚えてるぞ、あの時は『呉山』侍従だったけど」
『和佐山』は理緒が説明する事情に村上が登場してきたことで、今回の一件が悪意のもとに働いているのだと確信した。
「ひどい仕打ちをされました。ちぎー様が心配です」
「私もいい思い出はない。あの野郎」
怒りを共有する主を置いて、侍従は理緒に続けた。
「それで?『大山積』からは子細は聞いたの?」
「『大山積』は、お前は何もできないから黙って待ってろって言いました。『大山積』は『紅葉山』派だからなんでも知ってるって言う風体で、でも僕はわかりません」
「『大山積』もグルかよ。ほんっとーに契里は男運がないな」
「御方様、まっすぐ紅葉山に向かうのはさすがに無謀です」
葛緒はわらび餅を各個に回して、茶を淹れながら言及をはじめた。
「話の様子では今紅葉山には『葵山』時雨様がいるようです。『葵山』は『大豊山』の覚えも深い才知の持ち主であったと聞きます。かつて『豊山』派に身を置いていた時代は『豊山二ノ輪麓』久照様の後見を得ていたはずです。『紅根山』を通して『豊山二ノ輪麓』久照様に通じ『葵山』を説得する道はとれませんか」
「紅を使って『豊山二ノ輪麓』に働きかけるのは避けたい。あそこは貸し借り作るとあとで響く」
「それに下手な働きかけをしたらまずいよ葛緒。『葵山』に小細工をしかけると怒りに触れかねない。失敗したとき山ごと取りつぶされる危険があるそれはだめだ」
侍従の言葉に葛緒は難しい顔をしたまま頷き次の手を思案した。
「それに紅葉山には鬼の『大江山』が鎮座しています。横から押さえられて辿り着けない可能性もありますから、先に『大江山』を押さえる必要もあるかと」
「『大江山』ってたしか妹が治めてたはずだぞ。いくら私が全盛じゃないからって負ける気はしないけど」
「茂野がおります。『大江山』侍従茂野──私の叔父上にあたりますが、容易に山を抜けることを許す御方ではないと存知ます」
「あーっ英雄茂野か。そうかあいつ『大江山』侍従になったんだったな。なんだよその三方の守りはよぉ……正攻法でしかけないとしても、活路が見えない」
頭を掻き乱す三那彌に侍従は困った笑顔を向けた。
「腐っても三朱ですよ三那彌様。『大江山』に茂野様、『葵山』主従が揃えば、紅葉山の顔を見ることすら叶わないでしょう」
全員が沈黙した。
これは立ち向かう前から負けが見えているとしか思えなかった。
「僕がいくのです」
高度な会話に入れなかった理緒は、ここでやっと全員に投げかけた。
理緒も一山の侍従であるから、幼いからといって全てを他山の縁者に任せるつもりは毛頭ない。
「みなみさまや、お父様お母様は、紅葉山と縁はありませんが、僕はちぎー様の侍従です。山に留めおかれる命は下りましたが、山に向かい受け入れられる権利があるはずです」
「あ……まぁ、そうだな。従者が主に会いにいくことを妨害するのは理に適わない」
戦略を組み立てなおそうとすると、葛緒は小さな理緒を黙って見つめ頷いた。
その視線は母としてのものから色を変えている。
「そこで『穂旦山』侍従を討つような動きがあれば、『紅葉山』側にやましい事情があるということです。こちらが反撃をする筋は通ります」
「でも理緒、お前が先陣に立たないといけない。大丈夫か」
侍従としてだけでない、能力的なものも理緒はまだ未知数であるし、なにより幼い。
和佐山を出た時から比べれば、穂旦山の信仰を得て随分と成長したとは誰もが思ったが、まだ舌っ足らずな上、幼さは抜けきっていない。
三那彌からすれば在りし日の自分の侍従が、先代『雪白山』とすごろく遊びなどしていた頃を思い起こすほどに幼く見える。
「僕は『穂旦山』侍従理緒です。ちぎー様がくれた名前に恥じる行いはできません。やられるまえにやるのです」
だがそんな頃の自分の侍従は、果たしてこんな口上を述べることがあったかと思うと、なんとも思いだせない。
遠い芸州から、必死の思いでここまで助けを求めてやってきたと思えば、小さいながらもこの娘に送ってやる言葉はひとつだけだ。
「よく言った。和佐山出自の矜恃を忘れてないな。お前は私の誇りだ」
この時『紅根山』に時雨からの文が届いていれば踏みとどまることも考えられただろうが、文は紀州の前で止まっていた。
村上がさぼり癖を出して、途中寄り道をして団子など貪っていたためである。
契里を紅葉山に留め置いて、抗議をしてくるものは完全に押さえたと村上は考えていたのである。
契里の膝元である芸州大三縞は筆頭の『大山積』に話を通していたし、紀州だか泉州だかの三山がいかに契里と縁があったとしても三朱の座する紅葉山まで抗議の刃を携えてやってくるとは到底思えなかったからである。
のち時雨は村上でなく山に置いてきた侍従の松緒に文を託すべきだったと心底後悔したという。




