穂旦山の笑い方
理緒は両手に余るほどの大きさの箱を抱いて、台所へ置くとその上に上がった。
そうすると丁度土間のかまどを覗くのによい高さなのである。
理緒の侍従としての一日は、契里愛用の鋏を研ぐことにはじまり、山の見回りと食事の支度。武芸の鍛錬と読み書き勉学とそれなりの量があるが、理緒は特にこの食事の支度が好きだった。
なぜかといえば今理緒ができる役目の中で、もっとも主である契里を喜ばせることができるものであったからだ。
「理緒はお料理が上手ねぇ、葛緒に似たのねぇよかったわぷにちゃんに似なくって」
にこにこと料理を頬張りながらそんな風に言ってくる。
葛緒というのは、理緒の母である。
芸州からは内海を挟んで遠くの紀州にある和佐山にいる。
ぷにちゃん、と愛称で呼ばれているのは、理緒の父にあたる『和佐山』侍従である。
この春に発行された侍従見立番付に、紀州の前頭として掲載され、名実共に名侍従になった。家長が名侍従とされるということは、何もせずとも自分の格もあがってくる。
父の名誉に泥は塗るまいと、理緒なりに考えて日々勤めを果たしている。
しかし数えで十にもいかない理緒は、侍従と名乗るにもおこがましい従者以下である。
功徳も何もかも足りない理緒が侍従として早々に立場を得る方法はたったひとつ。
先代侍従の功徳を継承するという方法のみ。
『穂旦山』には、かつて二柱の阿吽侍従が存在した。
名は多々羅、上浦。両者とも今消失し存在していないが彼らが消滅するまでに積んできた功徳まで消えてしまったわけではない。
ひとの子が二柱の存在を記憶している限り、それらはあり続けるのである。
つまり理緒が二代目として多々羅か上浦を継承すれば、理緒は幼いながらも数百年間穂旦山を護り導いてきた使徒としての能力を得ることができる。
その継承は『穂旦山』である契里が祭事を行えばすぐできるのだが、まだその祭事は行われていない。
なぜか。
契里を気遣う『和佐山』もはやく継承して使えるようにしろと言うが、彼女は躊躇しているのだ。
継承をするのは力だけでない。
先代が侍従を継いで得てきた知識経験他多くの感情までも追体験することになる。まだ経験も浅く幼い理緒に継承を行ってしまったら、『理緒として』の自我は恐らくなくなるだろう。
先代侍従たちが帰ってきてくれることは嬉しいことだが、それでは理緒が不憫だと契里は思うのだ。
素質を気に入っただけでなく、愛くるしい振る舞いや己のために食事を喜んで準備してくる姿を消し潰す気にはならなかった。
「一から育てるとなると、根気がいるんじゃないか?」
「ゆっくり自分の侍従を育てるのもひとつの醍醐味じゃないの? ぷにちゃんだってそうでしょ」
「ありゃ知らんわ。ダムダムしかしてねーし」
「和佐山の放任教育も参考にしたいところだけど、でもうちはみなちゃんの所とはちょっと状況が違うでしょ」
「あーまぁね……。契里のとこは役目も多いし、侍従も二代目だしな。でも、結局、いくら理緒の能力が高いとしても、継承する必要性は出て来るだろ。その時万が一記憶の継承で齟齬があって理緒が発狂でもしたらどうすんだ。その方が理緒がかわいそうじゃねーの」
「理緒が成長すれば、継承をしても自意識を保っていられるはずよ」
「その前に敵襲にあって、処断されたりしたらどーすんだよ。脳天気すぎる。悪狐『紅葉山』の下についたんだ。侍従は強化しとけって」
「心配性なのねぇ、みなちゃんってば」
「し、心配してるんじゃない。一般論だって」
「何かあったら、みなちゃんが助けてくれるでしょ」
「面倒くさいお姉様だなぁ」
文句を言いながらもどこか嬉しそうな三那彌の頭を撫でてやると、なにやらむっとした顔をして向こうも契里を撫でてきた。
「それで契里オネーサマは、『紅葉山』派としてどーなんだよ」
「どうって?」
「何か変わったことはあるかって話。『葵山』時雨はどうしてるんだ。契里のことほっぽってるんじゃないだろうな」
「時雨様はお忙しいのよ。私この間はじめて『葵山』で『大江山』と顔合わせしたのよ。無駄に勝ち気で後先考えないところとかみなちゃんそっくりよ」
「褒め言葉じゃないよね」
「ないけど~。まぁそんな感じかしら。『豊山』派みたいにあれこれ行事に忙しい派閥じゃないのよ。『紅葉山』は横構造みたいなのよね。それぞれ好きにやってるけど、一応『紅葉山』を派閥長にしてるってかんじ?」
「それはそれで色々めんどくさい気もするけど」
「でも、そろそろ私も時雨様止まりじゃなくって『紅葉山』に挨拶しないといけないわね」
「契里はもう大三縞筆頭じゃないんだしいいじゃないか。やめろやめろ。触るな危険の悪狐だぞ。何されるかわかったもんじゃない」
声を裏返す三那彌に、契里は少しだけ新鮮さを感じておちょくった。
「みなちゃんでも、こわいって思う相手がいるのねぇ」
「茶化すなよ。稲荷最強の侍従の守夏兄様の片目を潰した稲荷なんだぞ」
「でも『大山積』が代わりに挨拶行ってって言うし~」
「『大山積』は筆頭に返り咲きしたのに、結局面倒は契里に押しつけかよ」
「みなちゃんと一緒みたい」
「あん?」
「『大山積』にとっても『紅葉山』は特別な存在みたいなのよ」
「契里は?」
「わたし?」
「そーだよ。契里は何とも思わないの」
そう言われて、ひとを茶化してみたり、代行の挨拶を任された自分の感情を考えてみる。
時雨のお父様で『紅葉山』派の派閥長である──
三朱の称号を持つ、三万の稲荷兄弟の最年長の一柱である──
多くの稲荷に畏怖し嫌悪され退けられる悪狐の代名詞……
と、そのくらいの常識的な概念しか浮かんでこない。
感情を基点とする恐怖などというものはなかった。
「そうね、私何とも思ってないのよね」
感情が欠落したようなその言葉に『和佐山』はとりあえず「契里は大物だよ」とだけ言ってやった。
言ったは良いが、契里が理緒を連れて穂旦山に帰ったあとも三那彌はそれが気にかかった。
『和佐山』侍従が浮かない主に声をかけると、三那彌は煙草をふっと吐いて語りはじめた。
「契里ってさぁ、分社時代からあんな感じなんだよなぁ。大器晩成つーのか、しっかりしててさぁ……抜け目ないし隙狙ってくるのは巧いし」
「『穂旦山』は確かに、高い素質をお持ちです」
「芸州大三縞の名稲荷の後継にって強く望まれて分社したからだろうけど、だからって全部完璧って訳じゃないんだよ。素質高いから何でもできるけどいつも損な役回りばっかりな気がする」
「損……ですか」
「今回のことだってそうじゃないか。『葵山』時雨についていくとか」
「『葵山』のことを想っておられるのでしょうね」
「だとしても、『葵山』は契里を嫁にしたりしない。契里はただ側に寄り添うだけだ」
「僕は『葵山』がどういう方か分かりませんが、そこまで健気な御方を無碍にするほど屑な稲荷ではないと思いたいですが」
「どうかな。私も知らないから。でも契里はそのへん分かってて『紅葉山』派になるんだってそう思ってるから、何も言わないでいるけどさ……いるけど侍従はまだ未熟、頼りの『葵山』は『大江山』に夢中だろ。何か会った時に誰が契里を助けてくれるんだよ」
「三那彌様を頼りにされているのだと、僕は思いますが」
侍従が酒を注ぐと、燭台の灯りの揺れを手元に落としながら『和佐山』はため息をついた。
「でももう派閥が違う。派閥間で何かあった時私ができることは限られてくる。お前たち和佐山のものと契里を天秤にかけるとしたら、私は山を優先する。そして派閥間の問題があったとしたら、私は守夏兄様を守る」
「正しいご判断です」
酒を注ぐ手を止めて、橙の灯りに横顔を照らす侍従に『和佐山』は視線を投げながら酒を仰いだ。
「今……契里にはそうやって言ってくれる存在がいない。契里は何でもうまくこなすし、損をひいても笑っていられるだろうけど、それは今までの規模での話だ。……だから心配なんだ」
「僕も気になる時がありました」
「ん?」
「『穂旦山』は慈しむということをよくご存じの御方です。でもそれにご自身は含まれてはいません。だからないがしろにされても笑っていられる。感情が欠落しているとも言えます。冗談を言って誤魔化してしまえる。しかし、それは笑っているとは言い難いことです」
『和佐山』は煙管を置いて、白い手を侍従の頭へおいた。
なで回すとそれを侍従は素直に受けた。
酒を注いでやると、恭しく頂き『和佐山』侍従は喉を潤した。
「そうなんだよな、あれが『穂旦山』の笑い方の唯一、悲しいところだな」