稲荷の春を斬る
理緒は紅葉山の参道を、駆け上がっていた。
山肌に添って杭打たれる朱の鳥居は、一基一基からひとの子の信仰を感じさせる。
穂旦山でもっとも大きい、海辺に立つ一基の大鳥居のような力が、立ち並ぶ鳥居から滲み出ているのが分かる。
険しい山肌にあっても、整然と鳥居が立ち並び道行きを示してくる。
岩盤を避けるような順路は取らない。
参道を行くものはここを通れという、強い意志を感じさせる。
二百余段を上がったところで、理緒は足を止めて呼吸を整えた。
上がり続けるだけだった息は、北風のような音を立てて喉を痛めつける。
「はぁ……はぁ……ちぎ……さまは……」
小さな理緒には、この参道は負担が大きい。
「まだ……まだ先か……」
──早く山に戻りたい。
──ちぎー様、僕ちゃんとぬか床をかきまわしていたんですよ
──習字もちゃんとやりました。境内のれもんも、収穫して、武芸の鍛錬もしたです。
──待っていたのです。お帰りを一日千秋の思いで。
石段を蹴り急ぐ理緒を、時雨はその先にある二ノ宮の終わりで待っていた。
先ほど茂野が足止めをしてきたこともある。
理緒もこのまままっすぐ本殿まで上がれるとは思っていなかった。
もう父である『和佐山』侍従が身を盾にしてくれない。
ここは自分の力で切り抜かねばならない。
『穂旦山』侍従理緒の初陣である。
立ちはだかるものは、何があっても退け、主の元へ駆けつけなければならない。
懐から引き抜いたのは理緒の身長と同じくらいはある、大きな銀色の鋏。
外に刃がついている鋏は、楽しく切り絵をするための道具ではなく、明らかに殺傷に適した武具の類である。
両刃のそれは、いざというときは二刀に分解して扱うらしいが、当然理緒はそこまで武芸を仕込まれていない。鋏を開いて相手の剱を受け、外についた刃で薙ぎ払う。その二つの戦術しか身についていなかった。
駆け上がる石段の向こう、時雨が立ちはだかる姿を確認する。
向こうが退く気配を見せないと悟ると、鋏を下段に持ち理緒は加速する。
「『穂旦山』侍従理緒、まいるー!」
名乗りと共に振りかざした一閃は、当然虚空を凪いだ。
振り切りすぎた切っ先が再度構えられるまでに、時雨は手刀で首筋を薙ぎ払えばそれで終わりだ。
終わりなのだが、聞かねばならないことがある
「いきなりの挨拶だが、目を瞑ってやろう。それよりお前にひとつ聞きたいことがある」
「!?」
随分と偉そうな物言い──これが『紅葉山』かと理緒が警戒するが、時雨はその疑惑に答える様子もなく自分の質問を投げる。
「『穂旦山』侍従、お前は『穂旦山』を連れ戻しに来たのか」
「そ……そうです。ちぎー様、約束の日になっても戻らない。何でって、伝令に理由を聞いたのに、教えてはくれなかった。僕には分からないからって」
時雨は痛々しいという顔をして額を手で覆った。
村上、あいつだ──
「そんなことない。僕は『穂旦山』侍従で、誰よりもちぎー様のことを分かっているのに」
「伝言に漏れがあったようだな。お前をあれが侍従として認めなくとも、契里がそう決めたのならお前は『穂旦山』侍従なのだから、認めて話をするべきだった」
時雨は再度鋏を構える理緒を数段上の石段から見下ろしたまま、現状を隠さず伝えてやることにした。
「契里──『穂旦山』契里は、今『紅葉山』の寵愛を受けて側に置かれている。長い間『紅葉山』が妹を特別に側に置いて可愛がることはなかった。これは我ら『紅葉山』派が見過ごしてはならない大事な機会なのだ。派閥の者としても、『紅葉山』分社としても、『紅葉山』には稲荷の世に執着する思いを、欲というものを持ってもらいたい」
理緒は時雨の言葉の半分以上が理解できなかった。
時雨の口上が幼い理緒には難しすぎるというのが一番で、時雨もそれが分かったようで良い改めた。
「つまり、契里は今この山の稲荷神の嫁になるか、ならんかという大事な時で……」
それでも理緒には、すぐにはそれがどれだけの事かは理解できない。
時雨はさらに言い改めた。
「契里は『紅葉山』を好いているのだ。稲荷神としてでなく、ただの個としてお互いに心寄せ合おうとしている時なのだ。だから侍従のお前は邪魔をするな。契里の為に山に戻って帰りを待て」
「ちぎー様が、僕じゃない誰かを?」
理緒の呟きは、時雨の耳には届かなかった。
だが戦意を失い、だらんと手が下がったのは十分に確認できた。
だが風が吹いて、それに顔を上げられたように理緒は声を張り上げた。
「僕じゃない誰かを、ちぎー様が大好きだって言うの!?」
一緒に山を歩いて、空を眺めて、海の向こうを見て、料理をする。
全ての契里の基礎となるべき穂旦山の全てを投げ捨てて、ここにいるというのか。
そう感じると震えで鳥肌が立った。
この先無限の時の中で、主が嫁入りをすることも、婿をとることもあるだろう。
それは理緒も理解している。
「芸州もそれを狙っているだろうな。その為に『大山積』清高は契里を身軽にした。──筆頭の役目から降ろし、お前という侍従がついたことで山の役目負担を減ることも期待しているだろう」
『和佐山』が守夏の嫁になった時のことを、理緒もうっすらとだが、覚えている。
そういうものだとしても、それは儀式であって、制約であって、心からの何かが伴うものではないと思っていた。
好きになるのは、違うものだと。
心からの何かが伴うことがあるのなら、それは山で起きる何かで、侍従と共にあるべき何かで、こんな──
理緒の知らない山奥の、悪狐だと呼ばれる悪魔の山でではない。
「だから『穂旦山』の、お前はその役目に応え──」
「ちぎー様は『紅葉山』のものじゃない!」
「別に契里を『穂旦山』から切り離そうとしている訳ではない。ただ少しの間借りたいという──」
「契里様は、僕だけの契里様だ!」
理緒は下げていた鋏を振り上げて、水平に薙ぎ払った。
話をすることに気を取られていた時雨の裾を切る。
目の前にいた小さな侍従は、鬼の形相で時雨を睨んでいた。
「ちぎー様は今まで、侍従をつけないで、ずっとひとりで山を守ってきた。芸州大三島筆頭っていう、過大なお役目を持っていながら、ずっとひとりだったんだ。僕を侍従にしてくれたのは、僕と一緒ならがんばれると思ったから。それを横から取っていくなんて」
「違う」
時雨はそれを即否定した。
「違くない! ちぎー様は……」
時雨が理緒に突きつけねばならないのは、向けられる敵意とは別のものだ。
「契里は決して"ひとり"ではなかった。『和佐山』三那彌もいたし、今はお前がいるだろう。だがな、何より──」
切り裂かれた袖を払い、時雨はただ真実を投げ付けてやった。
「ここまでの契里を支えてきたのは、紛れもなくこの私だ。お前がその物騒な武具を振り回して傷つけたのは、稲荷の春、十色筆頭『葵山』時雨だぞ」
ひゃっと、理緒の手から武具が落ちた。
震える尾をぎゅっと抱え、時雨を見上げた。
「千年侍従をつけずにいた稲荷神に、選ばれる優越感はあるだろう。──だが『穂旦山』侍従を名乗るなら、主の魂と色、同じく、気高くあるべきではないか? お前の大好きな契里は、千年『呉山』時雨に一番の寵愛を受けたにも関わらず、いつまでも素っ気なく見せ、いつまでも献身的で、ただあるように在り振る舞ってみせた。燃えるような嫉妬を隠し、涼しげな顔をしていたぞ」
それをそういうものだと、受け入れてしまっていた自分は、幼すぎたと時雨は今だからこそ思う。
契里が本当に泣きつきたい時に、側にいてあげられたかどうか、それを共有できていたかも時雨には自信がない。
だがそれでも、時雨なりに契里の幸せは願ってきた。
今迄もこれからもだ。
「お前はもう『穂旦山』侍従として名誉を受けたのだ。分かるな?」
理緒は落とした鋏をおとなしく拾い、ゆっくりと腰に差し直した。
そうすることでしか、『穂旦山』侍従としての誇りを『葵山』である時雨に示す術はなかった。
自分がいなかった時、契里はどうしてきたか。
ただ寂しかったに違いないという、それだけしか理緒の中にはなかった。
だが契里には『和佐山』がいた。
いたからこそ理緒はここに『穂旦山』侍従として居る。
ここまで参道を駆け上がることができたのだ。
時には泣いたと言っていたけれど、『葵山』時雨──当時『呉山』時雨に大三島筆頭としての多くの役目を助けてもらったと聞いていた。
「僕はまだ、はじまったばかり……なのです」
「そういうことだ。先達の配慮に、お前が感情で切り込むには千年早い」
「でも、はじまったばかりなのは『紅葉山』だって同じです。ちぎー様に一目だけでも会わせて下さい。ちぎー様が元気でいるなら、僕は何も文句を言ったりしませんから」
理緒はそこまでいうと、耐えていた涙をぼろぼろとこぼし、終いにはわっと泣き出した。
泣き出せばもうそこにいるのは、小さな山ノ狐でしかない。
時雨は大きくため息して、仕方なしにふかふかの髪を撫でて慰めてやる他になかった。




