幻聴海岸
真夏の深夜、トタン屋根がじっとりと夜露に濡れる音だけが響く古びた一軒家で、雄彦は浅い眠りから目を覚ました。
隣の和室で眠っているはずの妹、志津の姿がない。
開け放たれた窓の外からは、生温かい潮風と共に、ざざん、ざざんと重苦しい波の音が部屋に入り込んできていた。海岸までは歩いて数十歩の距離だ。
志津は3年前の夏、目の前の海で親友のアオイを水難事故で亡くして以来、心を閉ざして言葉を失っていた。雄彦は、引きこもる妹を養うために夜間の沿岸警備員をしながら、この寂れた港町で二人きりで暮らしてきた。
そのとき、遠い波音の向こうから、奇妙な音が鼓膜を震わせた。
「……しづ……ちゃん……つめたいよ……たすけて……」
雄彦の背筋に冷たいものが走る。それは3年前に死んだはずのアオイの声だった。録音されたテープを再生したような、どこか平坦で、しかし恐ろしいほど生々しい響き。
ハッと外を見ると、暗闇の中、白いパジャマを着た志津がふらふらと砂浜へ向かって歩いているのが見えた。
「志津! 待て!」
雄彦は裸足のまま飛び出し、夜の砂浜を走った。
追いついて彼女の肩を掴むと、志津は虚ろな目で海を見つめたまま、ガタガタと震えていた。3年ぶりに開かれた彼女の唇から、かすれた声が漏れる。
「アオイが……アオイが呼んでるの……」
「幻聴だ、目を覚ませ! アオイはもういないんだ!」
雄彦は妹を抱きしめ、無理やり家へと連れ戻した。
しかし、恐怖はそこから始まった。
翌日から、その声を聞いたのは雄彦たちだけではないことが分かった。港町の住人たちが、それぞれ過去に亡くした大切な人や、行方不明になった我が子の声を、夜の海から聴き始めていたのだ。町全体が奇妙な熱病に浮かされたようになり、一人、また一人と、呼ばれた住人たちが夜中に海へ入っては姿を消した。翌朝の海面には、不自然な血だまりだけが残されていた。
雄彦は狂気の原因を突き止めるため、知り合いの海洋研究所の職員に連絡を取り、海中マイクでその声の正体を分析してもらった。
そこで突きつけられたのは、科学的な絶望だった。
「これは人間の声じゃない。音声の波形が直線的すぎる。彼らは言葉の意味なんて理解していない。ただ、人間が一番パニックを起こし、海に飛び込みたくなる音の周波数を、効率的な捕食ツールとして再現しているだけだ。浅瀬に上がってきた、新種の肉食性深海魚だよ」
さらに、その魚の体内からは、過去に溺死した人間の鼓膜や喉の組織が、未消化のまま大量に発見されたという。彼らは人間の発声器官を摂取することで、よりリアルな声へと進化していたのだ。
ある嵐の夏の夜、ついに志津は抑えきれなくなり、激しい雨の中に飛び出してしまった。
「志津!」
雄彦は激しい波が打ち寄せる海岸へ走った。懐中電灯の光が真っ黒な海面を照らす。
波間に浮かんでいたのは、人間の頭のような、半透明のブヨブヨとした巨大な魚の群れだった。魚たちの顔の正面には濁った眼球があり、音を増幅させるための口が、苦悶に歪む人間の顔のように肥大化している。
何百もの魚が一斉に口を開いた。
スピーカーがハウリングしたような凄まじい音響と共に、町で死んだ全人間の声、そしてアオイの声が、数千人分の絶叫の重なりとなって轟く。その音圧だけで鼓膜が裂けそうだった。
しかし、志津は恐怖するどころか、その歪んだ声の重なりに愛しい人たちの面影を見出し、うっとりとした笑顔を浮かべた。
「今行くね」
志津は引き止める雄彦の手をすり抜け、自ら激しい濁流の中へと沈んでいった。
「志津ーーー!」
雄彦の叫び声は嵐にかき消される。彼女の姿が完全に消えた直後、波の下から新しい音が響き渡った。
「おにいちゃん……つめたいよ……」
それは、たった今食い殺された志津自身の声だった。完璧に模倣された新しい餌の歌が、暗い海から雄彦の耳へと、じっとりと這い上がってきた。




