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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第5話 「都合の良い女」宣言

 海が見える。


 バスの窓から防波堤の向こうに広がる水平線が飛び込んできた瞬間、車内のあちこちで歓声が上がった。一年生がスマホを窓に押しつけて撮り始め、三年生が「着いてからにしろ」と笑う。瀬名は最後列の窓側に座って、その喧騒を心地よく聞いていた。


 隣の席で凛がカメラバッグのジッパーを確認している。もう三回目だった。


 レンズが二本、ボディが一台、予備のバッテリー。凛は旅先で機材を確認する回数が増える。いつもの寡黙さの下に、小さな高揚があることが手つきでわかった。


 八月の海辺の合宿は二泊三日の撮影旅行で瀬名にとっては四ヶ月かけて整えた土壌に種を蒔く三日間になる。


 一日目の夜。


 宿は海沿いの古い民宿で、二階の大部屋を男女で区切っての就寝スペースだった。夕食後に一年生が花火を始め、瀬名も何本か線香花火を振ったが途中で抜けた。ここにいても凛は来ない。花火の光と煙を嫌がるのではなく、単にああいう集団の遊びに自分を入れる方法を凛は知らないのだ。


 非常口の横にある屋上へと続く階段を上り、重い鉄扉を押し開けると潮風が髪を攫った。


 そこに凛がいた。


 コンクリートの縁に腰を下ろして、三脚の上のカメラを空に向けて星を撮っている。屋上の照明は消えていて、液晶画面の青白い光だけが凛の横顔を浮かび上がらせていた。


「お隣、いい?」


 凛が振り向く。瀬名を認めると小さく頷いた。


 隣に座る。コンクリートが昼間の熱を残していて、じんわりとお尻に温度が伝わる。見上げると星が——多い。都市部のキャンパスでは見えない数の光が、空を埋めていた。


「すごい綺麗ね、この星の数」


「⋯⋯うん。ISO感度を上げなくても、肉眼で天の川が見える」


 凛の声には写真の話をするときだけの熱がある。静かだけれど確信に満ちた熱。瀬名はしばらく黙って星を見た。波の音がここまで届いている。


 間をはかる途中で潮風がなんども頬を撫でた。


「凛は——彩音さんとのこと、どうするつもり?」


 凛の指がシャッターボタンの上で停止して沈黙が落ちた。波の音が急に大きくなった気がした。周囲の音が変わったのではなく、二人の間の空気の密度が変わったせい。


 凛は空を見上げたまま、何も言わない。


 ——ここだ。ここが分岐点。


 畳みかけることは簡単だった。凛の心の傷を刺激して、彩音との溝を広げる言葉ならいくらでも用意できた。でも瀬名はそれを選ばなかった。


 押すだけの人間は二流だ。引ける人間こそが信頼を得る。


「あの星座、わかる?」


 声のトーンを切り替える。指で空の一角を示す。明るい三つの星が大きな三角形を描いている。


 凛はじっと瀬名の横顔を見つめて、それから空に視線を戻した。その動作に何が詰まっていたのか——安堵か、疑問か、それとも「逃がしてくれた」という感謝か——瀬名には読みきれなかった。


「⋯⋯夏の大三角。ベガ、アルタイル、デネブ」


「流石。名前まで全部出てくるんだ」


「⋯⋯大したことない」


「そうかな。私なんか大三角って聞いてもおにぎりしか浮かばないよ」


 凛の肩がかすかに揺れた。声を出さない凛の笑い。暗くて顔は見えないけれど、わかる。


 結局、それ以上は踏み込まなかった。星空を見ながら、ときどき写真の露出設定の話をして、凛がシャッターを切る音を聞いて、波の音を聞いた。それは穏やかな夜だった。穏やかなまま終わらせることが今夜の正解。


 部屋に戻るとき凛が「——おやすみ」と言った。いつもより半音だけ声が柔らかかった。


「おやすみ、凛」


 瀬名は自分の布団に潜り込んで天井に向かって息を吐いた。焦るな。急ぐな。呪文のようにそう唱えた。



 二日目。


 朝から快晴で海が痛いほど青かった。午前中はサークル全員で浜辺の撮影をして午後は自由行動。


 瀬名は凛と二人で岩場の方まで歩いた。潮だまりにカメラを近づけてヤドカリを撮る凛の横顔は真剣そのもので、瀬名はそれを横から何枚か収めた。もう凛を撮ることに遠慮はしない。凛も「またか」という顔をするが止めない。止めないのだから——まあ、許可と見なしていいだろう。


 その後、二人は波打ち際に沿って歩いていた。裸足になりスニーカーを片手に持って、打ち寄せる波に足首を浸しながら凛が少し前を歩いている。瀬名は凛の足跡を踏まないように半歩ずれて歩いていた。凛の足跡は細長いが168センチの身長の割に、足のサイズは控えめだった。


 そのとき波が来た。


 予想より大きな波が砂を抉るように引いた。足元の砂が崩れ、瀬名の身体が海側に傾ぐ。カメラを持っている——海水に浸けるわけにはいかない——右手でカメラを庇い、左手で空を掴む。


 その左手を、凛が掴んだ。


 強い力だった。瀬名の手首を握り、一息で引き戻す。瀬名の身体が陸側によろめき、凛の胸元に突っ込みかけて——止まる。凛の左手が瀬名の手首を掴み、右手が瀬名の肩を押さえて、支えている。


 近い。


 凛のシャツから潮の匂いがする。呼吸が一つ聞こえた。凛のか、自分のか。首を上げると凛の顔が目の前にあった。切れ長の目が少しだけ見開かれていて、その瞳の奥に——自分の顔が反射していた。


 二秒。三秒。


 弾かれたように凛が瀬名から手を離した。


「⋯⋯大丈夫?」


 凛の声はいつもの低いトーンだったが、語尾がわずかに跳ねていた。


「大丈夫。ありがとう」


 瀬名は笑った。心臓がうるさい。


「——凛の手、意外と小さいね」


 凛が固まった。両手を自分の太ももの横に垂らして、所在なさげに指を握ったり開いたりしている。「大げさだよ」ではなく「小さくない」でもなく。


「⋯⋯普通だよ」


 耳が赤かった。凛の耳の先端から赤みが下りてきて、頬の上の方までうっすらと滲んでいる。凛自身はたぶん気づいていない。この子は自分の身体の反応に驚くほど無頓着だ。


 普通じゃないよ、と言いたい。あんなに力強いのに、あんなに華奢だった。私の体を一瞬で引き戻せるのに、離すときの指は震えていた。そのギャップを全部言語化して凛に突きつけたい衝動を、瀬名は飲み込んだ。


 凛は耳を赤くしたまま、スニーカーを拾うとまた波打ち際を歩き始めた。瀬名は半歩遅れてついていく。凛の左手が——さっき瀬名の手首を掴んだ手が、無意識に何度か握り直されているのを、瀬名は視界の端で数えた。



 最終日。


 午前中に全員で集合写真を撮った。真帆がセルフタイマーで走って入り、一年生が目を瞑り、撮り直しになった。瀬名はその間、ずっと穏やかに笑っていた。その穏やかな笑みは嵐の前に空が晴れることと似ていたかもしれない。


 荷物を運ぶ時間になった。


 大部屋から玄関に荷物を運ぶ往復の途中。瀬名はカメラバッグを凛に預け「ちょっと待って、忘れ物」と言って二階に戻り、すぐに降りてきた。忘れ物はない。タイミングを作っただけだ。


 あえて玄関の脇を通り過ぎ宿の裏手に回る。日陰になっていて海側の喧騒が遠い場所。


 壁にもたれて凛を待つ――凛は瀬名のカメラバッグを持ったまま、瀬名が玄関を通り過ぎ裏手に回ったことに疑問を覚えるだろう。そして探し始めて裏手に回ればすぐに見つかる。見つけたとき、この日陰に二人きりになる。


 足音が聞こえた。砂利を踏む、控えめな歩調。


「瀬名、どうしたの——」


 角を曲がった凛と目が合った。カメラバッグを両手で持っている凛に、瀬名は壁から背を離して、一歩近づいた。


「凛」


 名前を呼んだ。いつもとは違うトーンで。凛はそれを察したのか、足が止まった。カメラバッグを持つ手が少しだけ強張る。


 正面から目を見る。凛の切れ長の目に自分の顔が映っていた。真夏の日陰は涼しくて、蝉の声だけが高い。


「私、あなたのことが好き」


 凛の目が見開かれた。


 唇が薄く開く。声は出ない。カメラバッグを持つ指が白くなった。


 瀬名は微笑んだ。この微笑みは練習した。鏡の前で、何度も。押しつけがましくなく、卑屈でもなく、ただ「事実を伝えている」という清潔さを纏った笑顔。


「彩音さんが好きなのは分かってる。だから答えなくていい。ただ、知っておいてほしかっただけ」


 ここで間を取る。一秒。凛の瞳が揺れるのを見届けてから。


「——都合のいい女でいいから、そばにいさせて」


 この台詞を選んだ理由は明確だった。


 「答えなくていい」は凛から「断る」という行動を奪う。好意を告げられて断ることは相手を傷つける行為だ。他者を傷つけることを恐れる凛には、答えないという選択肢を与えることで「断る」を絶対に選ばせない。


 さらに「都合のいい女でいい」は「この人は多くを求めていない」「今の心地よい関係を壊さなくていい」——そう思わせることで、凛の罪悪感を薄めさせ瀬名の好意を「保留」する。


 保留している限り、瀬名は凛の傍にいられる。傍にいる限り時間は瀬名の味方になる。


 攻略に向けた完璧な手だ。


 ——そう思いながら、瀬名は一つだけ見落としていた。


 「都合の良い女でいい」と言った瞬間、自分の声が震えたことを。


 それはかすかな震えだった。音がほんの僅かに揺れていた。喉の奥の筋肉が一瞬だけ痙攣したような、制御の外にある震え。鏡の前では再現できなかった種類の振動。


 しかし瀬名の意識はそれを捕捉しなかった。台詞を言い終えたあとの凛の反応を読むことに集中していたから。


 凛は顔を背けた。


 何か言いかけて唇が動いた——「瀬」まで音になった。そのあとが続かない。言葉が喉で詰まっている。凛の横顔は赤かった。耳の先端だけではなく、頬も、首筋も。カメラバッグを抱きしめるように胸元に引き寄せて瀬名の方を見ない。見られない。


 瀬名はその後ろ姿だけを見つめ続けて、それから声のトーンを切り替えた。


「じゃ、荷物運ぼう。バス来ちゃう」


 何事もなかったように歩き出す。凛を通り過ぎて振り返らない。背中で凛の気配を感じながら玄関に向かう砂利道を歩く。足音が追いかけてくるまでには四秒かかった。


 バスの中で凛は最後列の窓側に瀬名はその隣に座った。いつも通りの配置――凛はずっと窓の外を見ていたがまだ耳の先端に赤みが残っている。


 二人の間に会話はなかった。バスのエンジン音と一年生たちの笑い声。窓の外を、海が、街が、流れていく。


 凛の手が膝の上にある。さっきカメラバッグを掴んでいた手。波打ち際で瀬名を引き戻した手。意外と小さい手。その手が一度だけ、瀬名の方へ動きかけて——戻った。凛は窓の外を見続けている。


 瀬名は見ていないふりをして、それを全部見ていた。


 心臓がまだ少しうるさかった。


 告白の興奮——と呼ぶには鼓動が長引きすぎている。あの告白は戦術だ。成功した戦術の余韻は、もっと冷たく、もっと乾いているはずだ。なのにこの鼓動は湿っている。胸の奥の、手の届かない場所で何かが脈打っている。


 ——問題ない。すべて予定通りだ。


 瀬名は目を閉じて座席にもたれ掛かった。バスの振動が背骨に伝わる。


 隣には凛の気配がある。肩と肩の間の拳一つ分の距離。その距離を、瀬名は言葉で超えたのだった。

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