第4話 相談役から理解者へ
七月の瀬名 蒼は庭師だった。
急いで枝を切らない。水をやりすぎない。日当たりを計算しては土壌を整え、根が伸びる方向を見極めてからようやく手を入れる。焦って花を咲かせようとする素人は庭を枯らすが瀬名は素人ではなかった。
期末試験が終わり、キャンパスの空気が弛緩した。レポートと課題に追われていた六月の緊張が解ければ人は誰かと会いたくなるもの。その心理を利用しない手はなかった。
凛とカフェで会う頻度を週に一回から二回に上げた。もちろん自然に。
「この前言ってたスポット、行ってみたいんだけど」「新しいフィルム買ったから見てほしい」——口実はいくらでも作れた。写真という共通言語が万能の鍵になる。同じ趣味を持つサークルの友人が、夏休みに会う頻度を増やすことに、誰も不自然さを感じない。それは凛自身も。
会話の深度は意識的に管理した。
第一層は写真の話。構図、機材、好きな写真家。これは安全圏で凛が最も饒舌になる領域だった。
第二層は趣味の話。好きな本、好きな音楽。凛は読書をしないと思っていたが、機械工学科の棚にはSF小説が数冊並んでいるらしい。
アーサー・C・クラークとテッド・チャンの名前が出たとき、瀬名は「あなたの人生の物語」を読んでいたことに心の中でガッツポーズをした。翌週までに未読だった短編集を読み、次に会ったときにさりげなく引用を混ぜる。
その瞬間に凛の目が光った。
「瀬名、読んだの」
「凛が面白いって言ったから」
この「凛が言ったから」が重要だ。あなたの言葉を私はちゃんと拾っている。そのメッセージを、押しつけがましくない濃度で伝えること。これで嬉しくならない人はいない。
第三層は子供の頃の話だがここからは慎重に。凛は自分の過去をほとんど語らない。家族構成も、出身地も、高校時代の友人関係も聞いたことはない。だから瀬名の方から開示する。
「私、高校のとき演劇部だったんだよね。そこで覚えたの、人の観察。誰がどこを見てるかで、その人が何を考えてるか大体わかるようになった」
これは本当の話だ。ただし「観察」を覚えた本当の理由は省略している。凛は「瀬名が人をよく見てるのは、そういうことか」と納得したように頷いた。
瀬名が自分の過去を見せる。凛がそれを受け取る。すると凛の側にも「この人に見せてもいい」という感覚がほんの少しだけ広がる。信頼の構築とは一方的な受容ではなく、交互の開示なのだ。
——と、そこまでは戦略通り。
問題は凛に見せる「弱さ」が、予定よりほんの少しだけ本物に近くなっていることだった。
演劇部の話をしたとき。高校時代に本気で好きだった相手のことが喉元まで上がってきて、瀬名は咄嗟に飲み込んだ。その相手に「重い」と言われたことを凛に話す必要なんて一つもないのだから。
話す予定もなかった。なのに、凛の静かな目を見ていると、この子になら話してもいいんじゃないかという甘い誘惑が、なぜか首をもたげる。
馬鹿か。私は。
自分を叱りつけて、話題をフィルムカメラの長所短所論争にスライドさせた。凛が小さく首を傾げたのを見なかったことにした。
七月中旬。
夏祭りの夜に撮影目的で出かけた、という建前がほぼ形骸化した頃だった。
確かにカメラは持ってきた。金魚の水槽を上から撮り、提灯の行列を望遠で圧縮し、綿菓子の屋台から立ち上る砂糖の煙をスローシャッターで流した。凛も隣で同じようにシャッターを切っていた。二人で並んで同じ方向にレンズを向ける時間は、会話がなくとも楽しい。
そこでりんご飴を買った。凛が「食べたことない」と言ったからだ。まさか冗談だろう、と思ったが凛の顔は冗談を言っている顔ではなかった。もとより冗談が言えるような性格でもないが。
「凛、子供の頃お祭り行かなかったの?」
「⋯⋯あんまり」
それ以上は聞かない。凛が「あんまり」で止めたことには意味がある。代わりにりんご飴を差し出し「はい。人生初のりんご飴。感想をどうぞ」と促すと、凛はしばらく飴を眺めてから前歯でかじった。
ぱりん、と小さな音がして凛の眉が微かに上がる。
「⋯⋯甘い」
「そりゃ、りんご飴ですからね」
「甘いけど、りんごが酸っぱい」
「凛の感想は、いつもそのまんまだね」
瀬名が笑うと凛の口元が動いた。あの微かな、数ミリの弛緩だった。
人混みを抜けて川沿いの道に出ると屋台の喧騒が遠ざかった。水面に提灯の光が揺れている。七月の夜の空気は湿度が高くて、肌にまとわりつくような温さがある。
浴衣姿のカップルが手を繋いで追い越していく。瀬名と凛は並んで歩いているが手は繋いでいない。その肩と肩の間には拳一つ分の距離があった。
凛がカメラをバッグにしまったのは撮影モードが終わった合図。そうすると凛はさらに言葉が少なくなる。カメラが手元にない凛は武器を下ろした兵士みたいで、どこか心許なさげで、少し無防備で。
しばらく無言で歩いた。川のせせらぎと遠い太鼓の音。蝉はもう鳴いていない。
「瀬名」
「ん」
「⋯⋯瀬名といると、楽だ」
足が止まりかけたが、歩調を崩さないことに全神経を注いだ。
楽だ。
凛が使う言葉の中で、それがどれほどの重量を持つか、瀬名にはわかっていた。
力を抜いていられる、重荷を下ろしていい場所。守る側でいなくていい時間。凛にとってそれがどれほど稀少な状態か——彼女の前では常にエスコートする側でいるこの子にとって「楽だ」は最上級の賛辞に等しい。
「それは私が楽しいからだよ。凛と一緒にいるの」
そう言った。
いつもより声が柔らかいことに言ってから気づいた。計算して出したトーンではなく凛の「楽だ」に反応して、喉が勝手にこの温度を選んでいた。
からかうときの軽やかさでもなく、情報を引き出すときの穏やかさでもない。もっと素朴で、もっと——剥き出しの。
瀬名は一瞬だけ自分の声に耳を傾けて、それから意識の隅に追いやった。
深追いしない。分析しない。ただこういうことが起きた、という事実だけメモして引き出しを閉める。攻略の過程で感情が揺れることはある。ターゲットに入れ込みすぎる初歩的なミスを、自分がしないとは言い切れない。だから警戒はしている。しているから大丈夫。
凛は何も言わなかった。
そのまま二人で並んで歩き続けた。提灯の光が完全に見えなくなって、街灯だけが等間隔に道を照らすようになっても、二人の間の拳一つ分の距離は変わらなかった。
その距離が心地よいことを、瀬名は分析しないことにした。
*
七月下旬。
サークルの機材整理日。夏合宿を前に三脚やレフ板の点検をする恒例行事。部室の床に機材を広げては部員が四、五人で手分けして作業する午後。
小野寺 真帆は三脚のネジを確認しながら視界の端で二人を見ていた。
凛と瀬名。
彼女たちは部室の隅でレンズの清掃をしている。瀬名がブロワーを握り、凛がクリーニングクロスを持っては分業がやけにこなれていた。
週に何回会っていればこうなるのか、と真帆は考える。四月に瀬名が入ってきたとき、あの子はすぐにサークルに馴染んだ。人当たりが良くてカメラの腕もあって空気が読める。
真帆はそれを好ましく思いつつ内心で少しだけ警戒していた。あまりにもスムーズに馴染む人間というのは場の力学を読む能力に優れている。それ自体は悪いことではないが、あらぬ方向に転ぶと一気にサークルの空気を変えかねない。それは良くも悪くもだ。
そのとき瀬名が何か言った。ここからでは聞き取れないが凛の唇が動いた。ほとんど動かなかったが——口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
真帆はその変化を見逃さなかった。朝霧 凛の口元が緩むことが、どれほど珍しいか。一年半の付き合いで、真帆はよく知っている。
瀬名がまた何か言う。凛がクロスを持つ手を止めて視線だけで瀬名を見る。瀬名が笑う。凛が目を逸らす。瀬名がまた何か言う――凛の肩が小さく揺れた。
あれは、笑っている。声を出さずに、肩だけで。
しばらく観察を続けた真帆は三脚のネジを締め直して、立ち上がった。
瀬名がトイレに行っている合間に凛へ声をかける。
「最近、楽しそうじゃん」
凛が弾かれたように真帆の方を向く、少し間があった。
「⋯⋯そうかな」
「そうだよ。去年の凛、機材整理のとき一言も喋んなかったじゃん」
凛は返事をしなかった。クリーニングクロスを丁寧に畳んでいる。その指先が、ほんの少しだけ落ち着かない。
「いいことだと思うけどさ」
真帆はそこで一拍置いた。言葉を選ぶ。凛に対して多すぎる言葉は逆効果だ。必要な一言だけを、さりげなく。
「——自分がどうしたいか、ちゃんと考えなよ」
凛の手が止まった。
凛はクロスから目を上げなかった。何を考えているのかは真帆にはわからない。それでいい、真帆の仕事はここまでだ。答えを出すのは凛自身であって、真帆でも瀬名でもないから。
「⋯⋯うん」
凛の返事は小さかった。でも真帆は、その「うん」の中に単なる相槌ではない何かが含まれていることを聞き取った。考える、という意志。まだ形にならない、でも確かに芽生えたものをどうするか。
真帆が離れてしばらくして瀬名が戻って来る。瀬名は迷うことなく当たり前のように凛の直ぐ側へ座り直した。その動作があまりにも自然で、真帆は少しだけ目を細めた。
——手ぇ出すなって言ったのに。
もっとも、出しているのがどちらの手なのか。真帆には断言出来なかった。




