第3話 浮気の確信
六月の雨は、降り方を知らないらしい。
さっきまで曇っているだけだった空が、サークルの部室を出た瞬間に裂けた。前触れもなく叩きつけてくる水の壁。傘を持っていたのは瀬名だけで凛は「大丈夫、走る」と言いかけたが、瀬名が腕を引いた。
「うち、すぐそこだから」
二人で走った。一本の傘に二人で収まるには距離が近すぎて、瀬名の左肩と凛の右肩はどちらもずぶ濡れになった。アパートの外階段を駆け上がり、鍵を開け、狭い玄関に滑り込む。
二人分の荒い呼吸とドアの向こうで叩きつける雨音。凛のシャツが肩から胸にかけて透けていて、瀬名はそれを二秒だけ見てから視線を外した。見ていたいが今はまだ、見ていい距離じゃない。
「タオルと着替え、出すね。サイズ合わないかもだけど」
凛は玄関で立ったまま「⋯⋯ごめん」と言った。迷惑をかけているという申し訳なさが声に滲んでいる。この子はいつもそうだ。誰かの領域に足を踏み入れることに必要以上の罪悪感を持つ。
「ごめんって何。雨に謝ってよ」
軽く返してバスタオルを投げると凛が片手でキャッチした。凛の反射神経は良かったが、濡れた前髪の下から覗く目は、赤いセーフライトの暗室で見たときと違う色をしていた。あのときよりもっと不安定で悲しい色。
着替えを済ませた凛は、瀬名の部屋の真ん中で少し途方に暮れたように立っていた。グレーのスウェットパンツは丈が短くて、足首が覗いている。Tシャツは肩幅が合わなくて鎖骨の影が深い。自分の服を着た凛、という取り合わせに心拍数が上がるがつとめて平静を装った。
「座って。何か淹れるよ」
キッチンに立ちながら考える。コーヒーか紅茶か。——いや、この子にはココアだ。根拠はない直感。甘いものを嫌がるタイプではないことは、先月の撮影帰りに自販機の前で迷った末にミルクティーのボタンを押していたことから推測済み。
鍋にミルクを注ぎ火をかけてココアパウダーを溶かす。わざわざ鍋で温めるのは見栄ではない——嘘だ、半分は見栄だ。でも残り半分はこうした方が少しでも美味しくなるのではないかという、自分でもよくわからない衝動。
マグカップを凛の前に置く。白い陶器に茶色い液体から沸き立つ湯気が凛の顎の下あたりで揺れた。
凛はマグカップを両手で包んだ。
その手が冷たいことは、さっき傘の下で触れたときに知っていた。六月の雨は生温いはずなのに、凛の指先はいつも温度が低い。末端冷え性なのか、それとも別の理由で血の巡りが悪いのか。両手で包み込むようにカップを持つ仕草が、飲み物を飲もうとしているのではなく、温度を求めているように見えた。
凛は何も言わない。
瀬名はソファの反対側に座り、文庫本を開いてみた。読む気はなく活字の上を視線が滑っていくだけで、意識の九割は一メートル離れた隣の凛に向いている。
でも急かさない。この子は沈黙を必要としている。言葉が口の中で形になるまでの時間が瀬名とは根本的に違うのだ。
不規則なリズムで雨が窓を叩いている。部屋の照明は暖色のフロアランプだけで天井の蛍光灯は点けていない。二人の影がフローリングの上で重なりかけて、重ならない。
三分。五分。七分。
凛がココアを一口飲んだ。飲み込む喉の動きを瀬名は文庫本の上端越しに見ていた。
「――瀬名」
声は静かだった。低くて、平坦で、感情を押し殺しているときの声。暗室の夜よりもさらに一段深い場所から出ている。
瀬名は指を挟んだまま本を閉じる。いつでも「読書に戻る」ことができるという逃げ道を凛に残すために。
「⋯⋯たぶん、彩音に浮気されてる」
「たぶん」が付いていたけど、凛の声は「たぶん」の温度ではなかった。
瀬名は何も言わずに本を膝の上に置き、身体を凛の方に向けた。
凛はマグカップを見つめている。中のココアに自分の顔が映っているのかいないのか、ぼんやりとした眼差し。
「⋯⋯彩音のスマホに、通知が来たのを見た」
沈黙。
「知らない女の人の名前で。ハートの絵文字が付いてて」
沈黙。
「友達だって⋯⋯友達かもしれないって、思おうとした」
凛の指がマグカップの縁をなぞる。爪が白い陶器に当たって、小さな音がする。
「この前、彩音が『友達と家で飲んでる』って。——彩音の部屋に、行ってみた」
瀬名の腹の底に冷たいものが落ちた。凛が確かめに行ったという事実。この子がそこまでしたという事実。それがどれほどの葛藤を経た行動か、瀬名には想像がつく。嫌なことを嫌と言えない、確認するのが怖い、そういう子が——自分の足で、恋人の部屋まで歩いた。
「⋯⋯誰もいなかった。電気、消えてた」
それだけで十分だった。凛にとっても、瀬名にとっても。
雨音が強まった。窓ガラスを水が伝い落ちていく影が、壁に不規則な模様を描いている。
凛が息を吸って吐く。もう一度吸った。次の言葉を口にするための酸素を、意識的に取り込んでいるように。
「⋯⋯それから、泊まった時も——」
声がさらに低くなる。
「いつも、してたのに。『今日はそういう気分じゃない』って」
マグカップを握る指が白くなった。血管が浮き上がるほど強く握っている。
「前は、そんなこと言わなかった。⋯⋯私の触り方が、嫌なのかなって」
瀬名の胸の奥で、何かが燃えた。
それは怒りだった。彩音という名前の、まだ顔をろくに見たこともない女に対する、冷たく研がれた怒り。凛がこんな顔をしている原因。この子に「自分の触り方が嫌なのか」と思わせている原因。自分が至らないからだと、この子に思い込ませている原因。
——同時に、冷静な部分がもう一つの答えを導き出す。
チャンスだ。
彩音の足場が崩れている。凛の心に亀裂が入っている。その亀裂に自分の指を差し込める。今日ここで、瀬名の部屋で話したという事実は、すでに一つの選択の結果にほかならない。
凛は無自覚だろう。しかし人間は本当に辛いとき、一番安全な場所を選ぶ。
怒りとチャンス。
その二つが同じ温度で同時に存在していることに瀬名自身が驚いた。怒りは凛のため、チャンスは自分のため。それでも、その比重が前者に偏っていることまでは気づかなかった。
「⋯⋯でも、好きなんだ。彩音のこと」
凛の声が今日、はじめて震えた。初めて声に揺れが混じった。
「だから聞けない。聞いて⋯⋯本当にそうだったら」
凛が唇を噛んだ。薄い桜色の唇の色が一瞬だけ白くなって戻る。
「⋯⋯もう、一緒にいられなくなるから」
窓を打つ雨が、その言葉の輪郭を曖昧したが瀬名の耳には一音も欠けずに届いていた。
凛は泣いていなかった。いや、泣けないのだ。涙が出るのは感情が溢れたときで今の凛はむしろ逆だ。感情を必死に容器の中に押し込んでいる。蓋を押さえる両手が震えているだけで中身はまだ零れていない。一度零れたら、もう戻せないから。
「⋯⋯凛は、優しいね」
瀬名は今回もそれだけに留めた。
批判はせず。「別れた方がいい」とは言わない。「裏切られても好きでいられるの?」とも聞かない。瀬名に求められているのは解決策でもジャッジでもない。ただ、この重さを一瞬だけ誰かに預けたい——それだけだと分かっているから。
瀬名が横にズレて、右手を動かす。
凛の頭に、そっと手を置いた。髪はまだ少し湿っていて、ドライヤーで乾かしきれなかった水分が指先に触れた。黒い髪は見た目より柔らかかった。力は入れない。ただ、手のひらの重さだけを凛の頭の上に乗せる。
凛が目を閉じた。
一瞬だけ。ほんの一秒か二秒。まるで祈るみたいに瞼を伏せて、それからゆっくりと開けた。長い睫毛は小刻みに揺れている。
その仕草が物語っていた。言葉よりも雄弁に。
この子がどれほど長い間、誰かに頭を撫でてほしかったか。触れてほしかったか。
「大丈夫?」でも「頑張れ」でもなく、ただ温かい手のひらを——自分の上に。かっこいい側、守る側、エスコートする側、荷物を持つ側。そうやって自分を固定してきた凛の、蓋をされた一番奥の場所に、瀬名の手が初めて触れた瞬間だった。
凛が「⋯⋯ありがとう」と言った。三度目の「ありがとう」は、やっぱり暗室の夜とも写真を渡した日とも違っていて、声の最後に息が混じっていた。
吐息に近い音――壊れかけの容器から漏れた、ほんの少しの空気。
雨は止むことを忘れたようだった。
結局、凛は終電を逃してソファで眠った。瀬名が「ベッド使って」と言っても「ここでいい」と動かなかったからブランケットをかけて諦めた。
自分のベッドに横になって、天井を見る。
暗い天井の向こうで雨が叩いている。ソファから凛の規則正しい寝息が聞こえる。起きているときよりずっと穏やかな呼吸。今夜あれだけの言葉を吐き出して、それでも眠れるのは、きっと——信頼のかたちだ。この部屋を、この場所を、安全だと感じたから眠れた。
瀬名は暗闇の中で唇の端を上げた。
彩音への怒りは、まだ胸の底で冷たく燃えている。同時に頭の中では情報が整理されていく。凛が話した内容。スマホの通知、不在の夜、身体的な拒絶。状況証拠は十分だが、凛はまだ「たぶん」と言っている。
確定するまでは動かない方がいいだろう。確定したとき——いや、確定させるまでもないかもしれない。凛の心がもう揺らいでいるのだから。
そう、後はこの亀裂をあわてず、あせらず丁寧に、丁寧に広げていくだけ。凛の心の一番柔らかい部分を剥き出しにして、丸裸にしたところを優しく包みこんでやればいい。
ソファの方を見る。暗くて凛の顔は見えない。ブランケットの膨らみと呼吸の音だけ。
——必ず奪う。
この子を、私の女にする。




