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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第2話 距離が縮まる日々

 地図を描くのに二週間、足場を固めるのにもう二週間。四月の後半には瀬名 蒼(せ な あお)はサークル「レンズ・ノート」にすっかり馴染んでいた。


 途中加入というハンデは、思ったほど重くなかった。むしろ都合が良い。一年生の初々しい連帯感にも、二年生の既成グループにも属さない中間地点に立てるから誰とでも等距離で話せる。


 「教えてください」と下から入り「ここはこうすると面白いよ」と横から差し込む。人当たりの良さだけなら新歓コンパの翌日から通用したし、撮影技術が伴っていることがわかると周囲の態度はもう一段柔らかくなった。


 ——で、肝心のターゲットはと言えば。


 朝霧 凛は瀬名の予想通りのペースで、予想外の角度から近づいてきた。


 きっかけは四月の最終週、河川敷での自主練習のときだった。瀬名が橋脚(きょうきゃく)のコンクリートに落ちる木漏れ日を低い位置から撮っていると背後に気配が立った。振り向かなくてもわかる。このサークルで瀬名の背後にわざわざ立つくせに声をかけるまで三秒以上かかる人間は一人しかいない。


「⋯⋯その写真」


 凛の声は低い。けれど柔らかい。この矛盾に気づいて以来ずっと気になっている。


「どうやって撮ったの。この——光の筋」


 液晶画面を覗き込んでくる凛の横顔が、四十センチの距離にある。シャンプーの匂いはしない。その代わり、陽に温まった布と微かなカメラのオイルの匂い。


「これ? 絞りをf/16まで上げてスローシャッターにしてるだけだよ。三脚がないから橋脚に肘ついて固定してるんだけど、ちょっとブレてるのがむしろ良かったかなって」


 丁寧に説明する。出し惜しみはしない。技術の話をしているとき凛の目には独特の光が宿る。普段の寡黙さとは別の回路が開くような、ファインダーを覗くときと同じ集中力がそのまま瞳に出る。瀬名はその光を至近距離で観察しながら、内心で快哉を叫んでいた。


 自分から来た。この子が、自分から。


 朝霧 凛は群れない。自分から声をかけるのは稀なことだと、この僅かなサークル活動の中でも十分に分かった。それが写真の技術的な話題ひとつで釣れた——いや「釣れた」は語弊がある。凛は獲物ではなく、瀬名が差し出したものに自発的に手を伸ばしただけだ。だからこそ価値がある。


 それからは自然に接点が増えた。


 五月に入ると撮影スポットの下見に二人で出かけることが週に一度のペースになった。候補地をリストアップするのは瀬名の役目で、凛は瀬名が提案した場所に黙ってついてくる。


 返事は大抵「⋯⋯うん」か「⋯⋯分かった」の二択で、感情の振れ幅が恐ろしく狭い。でも、よく見ていればわかる。興味のない場所には「うん」の前の沈黙が長い。本当に行きたい場所には沈黙が短い。コンマ数秒の差だけれど、瀬名の耳はそれを聞き分けられるようになっていた。


 凛は基本的に無口だ。でも、瀬名が一方的に話すことを嫌がらない。商店街のレトロな看板を「フォントが最高」と力説しても黙って隣を歩いている。それでいて、たまに「瀬名は変なところに引っかかるよね」と言う。


「変って何それ。褒めてる? 貶してる?」


「⋯⋯褒めてる」


「今ちょっと迷ったでしょ」


「⋯⋯迷ってない」


 この「迷ってない」の言い方が好きだ。わずかに目を逸らして、声のトーンが半音だけ上がる。嘘が下手な人間の、嘘が下手であることを隠すことすら出来ない返し方。からかい甲斐がありすぎて困る。


 ある日、川沿いの遊歩道で猫の写真を撮っていたとき。瀬名がわざと凛のフレームに入り込んで邪魔をした。凛が無言でレンズの向きを変える。瀬名がまた入る。凛がもう一度変える。三回目に凛の口元がわずかに緩んだ。ほんの数ミリ、唇の端が持ち上がった。


「笑った!」


「笑ってない」


「今、笑ったよ」


「笑ってない。⋯⋯撮れないんだけど」


 その否定する顔が、もう笑っていた。目尻に小さな皺が寄っていて声に怒りの成分がゼロで、シャッターから離れた指先がかすかに震えている。この子は自分が笑っていることに気づいていない。あるいは気づいていて認めたくないのだ。どちらにしても最高に可愛いかった。


 瀬名はこのやりとりが日課になることを確信した。そして実際にそうなった。何かにつけて凛の堅いガードの隙間にひと言を差し込み、あの口元の緩みを引き出す。


 そして毎回「笑った」と指摘し、毎回「笑ってない」と返される。凛がそのパターンを崩さないこと自体が、瀬名を拒絶していない証拠だった。


 ——ここまでは順調。計画通り。


 問題は「計画通り」であるはずの工程のひとつひとつが妙に楽しくて、ドキドキすることだった。


 凛の口元が緩む瞬間を目撃したとき、スコアが加算される感覚と同時に胸の真ん中が軽くなる感覚がある。それを瀬名は「手応え」だと解釈していた。攻略が進んでいる実感、狩りが順調に進んでいる。それ以外のものはないと。


 五月上旬。


 サークルの撮影会で瀬名は他のメンバーのスナップを撮って回った。新歓期から残った一年生のポートレート、談笑する先輩たちのグループショット。ついでという体裁で——凛にもレンズを向けた。


 凛は被写体にされることに慣れていないようだった。最初は「やめてよ」と手で顔を隠したが、瀬名が「一枚だけ、ね」と言うと、ぎこちなく手を下ろした。


 ただし目線をカメラに向けようと絶対にしない。斜め下を見たまま、所在なさげに立っている。それでは駄目だと瀬名は思わなかった。むしろ好都合だった。


「凛、あっち向いて。川の方」


 凛がジトッと――瀬名の体感、実際には殆ど変化していない――目を向けてから横を向く、そのとき河川敷の風が吹いた。黒髪が頬にかかり、凛が無意識にそれを耳にかけようとして——指が髪に触れた瞬間にシャッターを切った。


 撮れた。


 液晶を確認して瀬名は息を吐いた。この一枚は良い。構図や光線のことではない凛の表情だ。


 カメラを意識していない、素の顔。サークルのみんなの前で見せる寡黙で隙のない横顔でもなく、たぶん彩音(あやね)の隣に並ぶときの「かっこいい彼女」の顔でもない。


 風が気持ちいい、とでも思ったのだろうか。目を少しだけ細めて、口元の力が抜けて、からかったときとは違う種類の柔らかさが滲んでいた。


 ただただ無防備な表情。


 きっと誰にも見せない顔だ、凛自身が自分にこんな顔ができることを知らないかもしれない。


 瀬名はこれを後日プリントした。自宅のプリンターではなく暗室で用紙にはバライタを使って丁寧に焼いた。もったいつけた手間のかけ方だと自覚している。でもこの一枚には、それだけの価値があると思った。


 翌週のサークル活動後、部室に残っていた凛に渡した。


「はい。この前の」


 凛は受け取ってから目を丸くした。


 その表情を瀬名はずっと忘れない。切れ長の目がまん丸に開いて、唇が薄く開いて、数秒間――言葉が出てこない顔。写真を持つ指をわずかに震わせながら凛は自分の顔を見ている。紙の上の、自分の、知らない顔を。


「⋯⋯私、こんな顔してるんだ」


 声が掠れていた。


「うん。すごく良い顔してた」


 凛の耳の先が赤くなった。うっすらと、しかし確実に。


 凛はそれを自覚したのかしていないのか、写真から目を逸らさないまま「⋯⋯ありがとう」と言った。その「ありがとう」は瀬名がこれまで凛から聞いたどの言葉よりも不器用で、どの言葉よりも深い場所から出てきた音だった。


 瀬名の中で、小さなスコアが加算される。——はずだった。


 実際に起きたのはスコアの加算ではなく、胸の奥がぎゅっと絞られるような感覚だった。甘い痛みと呼ぶには鋭すぎて、達成感と呼ぶには柔らかすぎる、名前のつかない何か。瀬名はそれを意識の隅に追いやった。今は分析しなくていい。攻略は進んでいる。それだけ確認できれば十分だ。


 ——十分なはずだ。


 五月下旬。


 暗室は赤い。


 セーフライトの薄赤い光だけが二人の輪郭をぼんやりと浮かべている。現像液の、酸っぱいような苦いような匂いが空気に溶けている。


 この狭い部屋には窓がなくて外が晴れているのか曇っているのかもわからない、時間の感覚が溶ける場所。サークルの暗室は予約制で、今夜のこの枠は瀬名と凛の二人だった。


 トレイの中でゆっくりと像が浮かび上がるのを、二人で並んで見つめている。凛の呼吸が規則正しく聞こえる。この静寂が嫌いではない。凛の沈黙には圧迫感がないのだ。ただ黙っているのではなく、黙ることで場の空気を柔らかくできる人間がいるのだと、瀬名はこの一ヶ月半で学んでいた。


 像がはっきりしてくる。凛が撮った写真——古い石段に落ちる光と影のコントラスト。凛は暗い場所に差す光を撮るのが好きだ。それは瀬名が一ヶ月かけて辿り着いた分析のひとつ。言葉にできないものをファインダー越しに捉えようとするこの子は、無意識に、暗がりの中の一条の光ばかりを探している。


 凛がトングでプリントを持ち上げ、停止液のトレイに移す。その手つきは正確で迷いがない。写真に関わっている凛の指先には、日常のどの動作よりも確信がある。


「――彩音、最近帰りが遅いみたい」


 その声は唐突に落ちてきた。


 瀬名の指が一瞬止まった――すぐさま自分の手元のプリントに視線を戻す。心拍数が上がるのを自覚しながら、呼吸のリズムは崩さない。


「バイトって言ってるけど」


 凛の声が途切れる。現像液に揺れる写真を見つめたまま、言葉を探しているのがわかる。この子にとって、この言葉を口にすることが、どれほどの負荷なのか。瀬名の一ヶ月半の観察は、その重さを正確に測っていた。


「⋯⋯バイトのシフト、そんなに入ってないはずなんだよね」


 赤い光の中で凛の横顔が微かに歪む。歪む、というより硬くなる。感情が昂ると声が平坦になるこの子は表情もまた逆方向に動く。苦しいときほど顔から表情が消えるのだ。


「心配なの?」


 瀬名は声の温度に細心の注意を払った。高すぎず低すぎず。踏み込みすぎず突き放さず。相槌でもなく、誘導でもなく、ただ「あなたの言葉を聞いている」と伝えるだけの言葉。


 凛の指が停止液の中で停止する。


「⋯⋯わからない。聞くのが怖いだけかも」


 怖い。怖いのは聞いた結果を知ることではなく、聞くこと自体なのだ。


 その答えがどうであれ「あなた浮気してるの」と口にした瞬間に壊れるものがある——凛はそれを直感している。


 何も分からずに不安を抱えたまま日常を続ける苦しさと確認して日常が壊れる恐怖。それを天秤にかけて凛は前者を選んでいる。嫌なことを嫌と言えず自分が至らないからだと思い込む。

 

 朝霧 凛は、そういう子だった。


 瀬名は何も言わなかった。暗室の赤い沈黙が二人の間に溜まる。


「――私は、凛が話したいときに聞くよ」


 それだけ言った。アドバイスはしない。


 「確認した方がいい」とも「気にしすぎだよ」とも言わない。凛が欲しいのはきっと、そういう言葉ではないから。


 今この子が必要としているのは不安を口にしても空気が変わらない場所。投げた言葉が床に落ちず、かといって大げさに受け止められもせず、ただ隣に置かれること。


 瀬名はこの場の最適解を導き出して、その容れ物になることを選んだ。


 計算だ。最も効果的な信頼の獲得方法を選んだ——そう、計算だ。


「⋯⋯ありがとう」


 凛の声はとても小さくて掠れていた。でもあの写真を渡したときとは違う温度がある。あのときの「ありがとう」が驚きの中から出てきた言葉だとしたら、今夜の「ありがとう」は、もっと深い場所から、もっと重い蓋を持ち上げて出てきた言葉だった。


 感謝の中に、安堵がある。


「この人には話しても大丈夫だ」——凛の声がそう言っていた。言葉ではなく声の温度が。


 瀬名はそれを正確に聞き取り、正確に記録した。


 暗室を出たあと、夜風が肌に冷たかった。五月の終わりの夜はまだ少しだけ肌寒い。


 凛は「じゃあ」と短く手を振って歩いていった。白いシャツの背中が蛍光灯の下で一瞬だけ光って、角を曲がって見えなくなる。


 瀬名はスマホを取り出した。


 彩音のSNSアカウントは公開設定だった。インスタグラムのストーリーズには今夜もカフェの写真が上がっている。ラテアートの写真。一人用のカップが一つだけ映っているが、テーブルの反対側が不自然にフレームアウトしている。投稿時間は二十一時四十分。タグ付けなし。


 直接的に何かがわかるわけではない。一枚の写真から浮気を断定するほど瀬名は短絡的ではない。ただパターンを追う。週に何回ストーリーズを上げるか。凛と一緒の投稿はいつが最後か。タグ付けの有無、位置情報の有無。一つ一つは無意味なデータでも積み重なれば輪郭が見えてくる。


 地図の余白に、また一つ書き込みが増えた。


 スマホをポケットにしまう。夜風が首筋を撫でる。さっきまで暗室に充満していた現像液の匂いが、まだ指先に残っている。


 凛と同じ匂いだ——同じ薬品に手を浸していたのだから当然なのだけれど、それを意識した自分になぜか少し苛立つ。


 攻略は順調。信頼は確実に積み上がっている。


 瀬名は帰り道の坂を上りながら、口の中で小さく呟いた。


「⋯⋯楽しいな」


 その一言が攻略の手応えに対するものなのか、それとも今夜の逢瀬に対するものなのか。瀬名は自分自身に問わないことにした。


 五月の夜空には雲がかかっていて、星は見えなかった。

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