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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第1話 瀬名 蒼は悪女である。

 欲しいものを見つけた瞬間の胸の高鳴りを、瀬名(せな) (あお)は何より愛している。


 それは四月の河川敷で、唐突にやってきた。


 桜はもう盛りを過ぎて、風が吹くたびに花弁が水面へ落ちていく。


 写真サークル「レンズ・ノート」の新歓撮影会。土手の斜面では新入生と上級生が入り混じって三脚を立てたり、スマホで自撮りしたり、誰かの一眼レフを覗き込んで歓声を上げたりしている。


 二年からの途中加入で飛び込んだ瀬名は周囲と挨拶を交わしながら人間関係の地図を描いていた。誰と誰が並んで歩くか、誰の冗談に誰が笑うか、視線の向かう先と声のトーン。十五分も観察すれば、たいていの力学は読める。新しい場所に入ったときの癖みたいなものだ。


 地図を描きかけた目が、河川敷の下流側で止まった。


 芝生と水際の境目。周囲の喧騒から少しだけ距離を置いた場所に、しゃがみ込んでいる人影がある。片手を地面について低い姿勢を保ち、もう片方の手で一眼レフを構えている。


 水面すれすれの角度——反射光を撮っているのだろう。白いシャツの袖がひじまで捲り上げられていて、前腕の筋がシャッターを切るたびにわずかに動く。黒のスキニーパンツが似合っている。


 スニーカーの爪先が少しだけ水に浸かっていることに本人はたぶん気づいていない。黒髪のショートカットが風に揺れて、うなじが見えた。


 それだけなら「あ、かっこいい子がいるな」で終わっていた。


 その人物が立ち上がった。撮った写真を確認するために液晶を覗き込み、一度小さく頷いて、顔を上げる。横顔が午後の光にさらされた。


 ——ああ。


 切れ長の目。すっと通った鼻筋。顎のラインは細いのに、どこか芯がある輪郭。中性的というより、性別のどちらにも属することを拒否したような整い方。少年のようで少年ではない。少女のようで少女ではない。


 でも——睫毛がやたらと長い。唇が薄く、桜色をしている。光の加減でそう見えたのかもしれないし、もともとそういう色なのかもしれない。


 かっこいいのに、可愛い。


 瀬名の足が止まった。心臓が一拍だけ跳ねて、胃の底がじんわりと熱くなる。


 この感覚には覚えがある。デパートのショーウインドウ越しに、どうしても欲しい靴を見つけたときと同じ。あるいは古書店の棚の奥にある限定版の背表紙が目に入ったときと同じ。手に入るかどうかは関係ない。欲しいと思った瞬間にもう、手に入れるまでの道筋を描き始めている。


 ほしい。この子がほしい。


 反射的にそう思ってから、自分の即物さに少しだけ笑った。まだ名前も知らない。声も聞いていない。右利きか左利きかすら判然としない。


 それなのに頭の中ではもう、あの子にメンズのテーラードジャケットを羽織らせたらどうなるかを考えていた。似合う。絶対に似合う。ネクタイを緩めた姿なんか想像するだけで楽しい。


 ——逆に、オフショルダーのワンピースを着せたら? あのクールな顔が、どんなふうに崩れるだろう。恥ずかしがって顔を赤くするタイプかもしれない。そういう顔が見たい。全部見たい。かっこいい姿も、かっこよさが剥がれた可愛い姿も、私だけに見せてほしい。


 妄想の速度が尋常ではないことは自覚している。でも止める気はなかった。


「——おー、瀬名ちゃん。どう、楽しめてる?」


 声をかけてきたのは三年生のサークル部長、小野寺(おのでら) 真帆(まほ)だった。さっぱりしたポニーテールに日焼けした肌。首から提げたフィルムカメラがよく似合う。さっきの自己紹介タイムで「何でも聞いてねー」と言ってくれた人だ。瀬名はすかさず笑顔を作った。


「楽しんでます。みんないい人ばっかりで」


「よかった。途中加入って最初ちょっと入りづらいもんね」


「あの、小野寺先輩。あそこで撮ってる人——」


 視線で示す。河川敷の下流側、片膝を立てて液晶を覗き込んでいるあの横顔。


「ん? ああ、朝霧(あさぎり) (りん)。去年の春から入ってるよ。腕はいいんだけど、まあ無口でさ」


 朝霧 凛。字面が浮かぶ前に音が耳に残った。朝霧、りん。響きが硬くて可愛い。あの横顔に似合っている。


「理工の機械工学科で、写真の構図はすごくいいんだけど、飲み会には来たり来なかったりで。一匹狼ってほどじゃないけど、群れないタイプだね」


 真帆はそこで少し声をひそめた。冗談めかした口調。


「あと彼女いるから、手ぇ出さないでね?」


 心臓が二拍跳ねた。一拍目は「彼女」という単語に。二拍目は、それが自分への牽制として機能したことに。


「私そんなに飢えてないですよ」


 笑って返す。声のトーンは完璧にコントロールした。内心の舌打ちは一ミリも漏らさない。


「彼女さんもこのサークルの人ですか?」


「ううん、サークルは入ってないよ。文学部の英米文学だったかな。去年の文化祭あたりから付き合ってるみたい。桐谷——桐谷(きりたに) 彩音(あやね)ちゃん、だっけ。華やかな子でさ、凛の隣に並ぶと王子と姫って感じ」


 文学部。瀬名の目が一瞬だけ細くなった。同じ学部棟か。その情報を頭の隅の引き出しに入れて、表情には出さない。


「へえ。お似合いなんですね」


「まあね。お互い美人だし、凛がエスコートすると様になってるね」


 真帆はそれ以上深入りせず「じゃ、何かあったら声かけてー」と別のグループのほうへ歩いていった。


 瀬名はその場に残った。


 河川敷の風が吹いて最後の桜の花弁が数枚、視界を横切る。朝霧 凛は今、川の対岸に向けてレンズを構えていた。納得がいかない一枚があるのか、眉間にかすかな皺を寄せている。


 あの真剣な横顔を、恋人は知っているのだろうか。この角度から見たときの頬から顎にかけてのラインの綺麗さを、誰かがちゃんと言葉にして伝えたことがあるだろうか。


 瀬名は自然とカメラを持ち上げていた。レンズを静かに回して焦点距離を伸ばす。望遠。河川敷の雑踏を飛び越えて、ファインダーの中に凛だけを捉える。


 立ち上がりかけた姿勢、風に乱れた前髪の隙間から覗く額、唇が薄く開いて何か——たぶん独り言を呟いている。光が白シャツの肩に落ちて、水面の反射が顎の下をほんのり青く照らしていた。


 一枚だけ、シャッターを切った。


 音は川のせせらぎと新入生たちの笑い声に紛れて、誰の耳にも届かない。液晶に映った凛の横顔を一瞥して、瀬名はカメラを下ろした。


 いい写真だ。構図も光も申し分ない。


 ——でも、本当に撮りたいのはこんな遠くからの一枚じゃない。


 もっと近くで、もっと無防備な顔を。あの睫毛の一本一本が数えられるくらいの距離で私のレンズだけに向けられた表情を。


 撮影会の終わりがけに、機会は向こうからやってきた。


 集合写真を撮るから戻ってこいと誰かが凛に声をかけて、凛が土手の斜面を上がってくる。そのときようやく、靴の爪先が濡れていることに気づいたらしい。足元を見下ろして、小さく眉を寄せた。


 瀬名は自分のトートバッグからハンドタオルを引き抜いて、ごく自然な動線で——まるで集合場所に向かう途中でたまたま通りかかっただけの顔をして——凛の横に立った。


「はい、これ」


 差し出されたタオルに凛の視線が一瞬止まる。それから瀬名の顔を見た。至近距離で目が合うのは初めてだった。切れ長の目の虹彩は、遠くから見るよりずっと濃い焦げ茶で、光の加減で黒に見えていただけだった。


「⋯⋯靴」


 一語で状況を説明しようとしている。瀬名は笑いを噛み殺した。


「そうそう、さっきからずっと水に浸かってたよ、爪先」


 凛の耳がわずかに赤くなった。ほんの少しだけ——日焼けかもしれない程度の色の変化でも瀬名は見逃さなかった。


「⋯⋯どうも」


 低い声だった。低いのに角がなくて硬い子音の奥に、柔らかい母音が隠れている。


 タオルを受け取る指先が視界をかすめた。爪の短い、あまり手入れのされていない手。シャッターを切るために最適化されたような無骨な指——思ったより、小さい。


「今年から入った瀬名 蒼です。よろしくね、朝霧さん」


 にっこり笑って名乗る。凛は小さく頷いただけで自己紹介もあいさつも口にはしなかった。ただ、タオルで爪先を拭きながら、もう一度だけ瀬名のほうを見た。何か言いたげで、結局何も言わない目。


 再度、集合写真の号令がかかって凛は歩いていった。タオルはポケットにねじ込まれている。返すタイミングを探しているのか、そもそも返すという発想が出てきていないのか。


 どちらにしても次に会う口実ができたのは幸先が良い。瀬名は凛の後を置いながら口角を上げた。


 ――彼女がいる。サークルの外の、華やかな女の子。

 

 だからなんだという話である。


 河川敷には桜が散っていて、四月の風は少し冷たくて、瀬名 蒼は今、途方もなく機嫌が良かった。


 欲しいものが見つかったのだ。あとはどうやって手に入れるかを考えるだけ。それが一番楽しい工程なのだから。


 ゆえに瀬名にとって、これは恋ではない。どう攻略するかというゲームだ。


 朝霧凛、ターゲットオン。

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