攘夷か開国か
勝は江戸に戻っている。その勝のもとに、将軍家茂の上洛が海路ではなく陸路に変更になったと知らせが入った。薩摩藩士がイギリス人を殺害した生麦事件を受けてイギリスが江戸湾の軍艦を増やしており、海路による上洛は危険と判断されたためである。将軍の海路上洛による海軍建設への布石は、一旦は挫折した。
2月24日、勝は砲台設置の調査のために大坂に向かった。ここで勝の警備についたのは坂本龍馬と、同じく土佐藩出身の岡田以蔵である。
以蔵は土佐藩の攘夷派の指導者武市半平太の土佐勤王党に属し、その命でこれまで多くの暗殺に手を染めてきた。そんな以蔵に新しい道を歩かせたいと考えた龍馬は以蔵を勝に紹介していた。
出会って最初に以蔵が
「自分は学もなく人を斬ることだけしか能がありません。お役には立てないかと思います」
と暗い顔でいったものだから勝は、
「馬鹿野郎、自分で自分を殺すようなことをいうもんじゃねえ。どんな奴にだって志さえあれば何でもできるさ」
と怒鳴りつけたものだから以蔵は彼に従うことになった。
京には尊王攘夷派の過激な浪士たちが溢れている。ある日勝を見つけて斬りかかる者が3名いた。以蔵は一瞬にして1名を斬り捨て、後の2人は急ぎ逃げていった。
「見事なもんだがなるべく人は斬らないようにしな。殺生なんてしないで済むならそれに越したことはないさ」
と勝がいうと、
「私がやらなければ先生の首がなくなってますよ」
と以蔵が答えたものだから勝はぐうの音も出なかった。
一方で龍馬はこの頃勝に心酔し、故郷の姉に勝の弟子になったことを手紙で自慢している。勝は龍馬に対して自らの国家構想を語っていた。
「アメリカのように国民が政治をする人間を選んで、選ばれた人間は国民のために政治をする。そんな共和制を敷かなければならない」
そしてそのためには、
「今の幕府一強の政治体制ではならない」
のである。
まず雄藩連合によって政治を主導して、幕府もそこに加わるべきである。ちょうど将軍が上洛して攘夷決行についての話し合いが行われる。それは勝の構想の実現のための第一歩であった。
勝にとって将軍の上洛は、海軍建設のため以外にもそのような意味がある。それを知る龍馬たちは勝の理想の実現のために、進んで彼の力になろうとした。勝のために働くことが、そのまま日本の夜明けにつながると信じていたのである。
長州藩や攘夷派の公家たちは将軍家茂に攘夷決行を迫るための動きを続けている。3月に陸路で上洛した家茂は、攘夷決行を誓うために加茂上下社の行幸に供奉させられた。
また幕府はイギリスより生麦事件の賠償を迫られており、支払期日を5月2日と指定された。まさに内憂外患とはこのことで、幕府は窮地に立たされている。
それらを受けて朝廷との交渉を担当している老中小笠原長行のもと、大坂の東本願寺にて攘夷決行に関する話し合いが行われた。この場に参加した勝は意外なことを口にした。
「この際なぜ戦わない必要がありましょうか。朝廷が攘夷を命じ、天下の志士たちもそれを望んでいる。それなのに幕府は回答を先延ばしにしてその場しのぎに終始している。攘夷を決行し外国と戦えばよろしい」
「そんなことをして勝てると思うのか?」
という小笠原長行の質問に対し、勝は平然と
「勝てるわけがありません」
と答えた。
「負けるでしょう。しかし負けることで天下の人民をして勝算のないことを悟らせ、国内の真の奮発を引き起こすことができるのです」
勝は本気でいっている。勝にとっての至上命題は挙国一致の体制を築くことであり、外国に敗れることがその契機になると思っていた。
当然勝は攘夷には反対である。しかし攘夷派の志士たちが持つエネルギーは、国を変革しうるだけの力を持つと思っている。それを黙殺するのではなく、活かして国の統一と変革のために昇華させるべきである。
しかしその場に居合わせた幕臣たちは黙り込んでしまった。幕府には明確な方針がない。やはり挙国一致は幕府のもとではなく、諸藩や志士たちのもとで行われなければならないと勝は再認識した。
この頃の小栗は江戸にいて勘定奉行と歩兵奉行を兼ねている。彼は勝が大坂でいっそ攘夷をせよと発言したことを知り驚愕した。
「あの男は何を考えているのか」
小栗にすれば分からない。攘夷が無謀であることなど勝は分かっているはずではないか。そう分かっているからこそ幕府は開国を進めてきたのである。そんな幕府の苦労も知らないで、京都では尊王攘夷派が異国を打ち払えと将軍に迫っている。幕府は彼らの要求などはねのけて開国を貫くべきだ、というのが小栗の一貫した考えである。
小栗は昨年の末から3月にかけて、かき集めた旗本や御家人に軍事訓練を施していた。万が一の時は、彼らとともに上洛をして家茂を尊王攘夷派から救い出すべきだと考えている。
またその頃、英仏両国から尊王攘夷を迫られている幕府に対して軍事援助の申し出があった。幕府側からすれば、そんな援助を受ければ朝廷と尊王攘夷派を敵に回すことになる。老中竹本正雅はこれを断った。
これに対し、
「英仏の後ろ盾を得て京より公方様をお救いなさるべきだ」
と主張して譲らなかったのが小栗である。小栗のもとには4カ月の間で鍛えた兵たちがいる。英仏両国の援助のもとで彼らとともに京へ上れば、尊王攘夷派と戦うこともできるはずだ。しかし結局その援助は受けられないこととなった。
生麦事件による幕府への賠償請求に対し、小栗は軍事援助を受けられるならその代わりとして支払ってもよいと考えていた。しかしそれが叶わない以上、薩摩藩が勝手に引き起こした事件の賠償を幕府がする義理などない。
だが当時江戸に戻っていた老中小笠原長行は、賠償を幕府が支払うことに決定した。それに対して小栗は連日御用部屋に押しかけ、その過ちを説き続けた。
「勘定奉行は私でございます。今の幕府にそのような金はございません。イギリスは薩摩にも賠償を要求しており、それだけで済むはずでございます。仮に支払うにしても額が適正が話し合うのが筋というもので、言いなりのように支払うのはいかがなものでございますか」
しかし小栗の案は受け入れられず、小笠原の手で勘定奉行と歩兵奉行の任を解かれた。
「また罷免でございますか」
妻の道子は明るい声でそういった。亭主が罷免になる度に動揺していてはきりがない、そんな不思議な境遇に彼女は身を置いている。
「私は自らの信ずるままに意見を申し上げたまでじゃ。そのうえで罷免となるならば悔いはない」
「お好きになさいませ」
「お前には苦労をかけるな」
小栗は心から謝った。
4月、尊王攘夷派は幕府に対して攘夷期限の回答を迫り、追い詰められた幕府は5月10日を攘夷期限とした。
上洛中の家茂は大阪城に入り、勝の指揮する順動丸に乗って大阪湾の警備状況を視察することとなった。
神戸に上陸した際、勝は家茂に
「ここは京と大坂を押さえる要衝の地であり、この地に海軍操練所を開きたいと考えております。幕臣だけでなく諸藩より人材を集い、ここで航海修行をするのは国家のため急務でございます。どうかお許しをいただきたい」
と頼むと家茂は
「その方の望むようにすればよい」
といったから、勝はこの若い主君のためなら身命をかけてもいいという気分になった。
勝は幕府やその重臣たちが嫌いだが、この家茂に対してだけは特別な感情を持ち続けた。若くして激動の世で将軍となり、攘夷か開国かという選択を迫られている。それは親が子を見守るような視線であったかもしれない。
4月25日、勝は尊王攘夷派の公卿として知られた姉小路公知に海軍の必要性を説き、午後からはともに船に乗り摂海の沿岸部を回った。そこには過激派の志士たちも乗っていたが、姉小路を筆頭に彼らは勝の意見に同意した。
「幕府も朝廷も海軍操練所の建設に首を縦に振ったちゅうわけですな。勝先生は大したお人じゃ」
龍馬は上機嫌で勝にいった。
「これからは朝廷も幕府も諸藩もねえ。全部が一体となって事を進めるんだ。海軍操練所はそれの先駆けになるかもしれねえよ」
「不思議なお人じゃのう、勝先生は。幕臣でありながら大局を見ておられる」
「幕府だけの力じゃもうどうしようもねえよ。攘夷を約束して江戸に帰った一橋慶喜公が、やはり攘夷はできぬと辞表を出したそうだ。慶喜公の猿芝居だよ。議論を長引かせて煙に巻いてしまおうってんだ。結局は幕府の保全しか頭にないんだ。国が進むべき道を定めようという覚悟がねえ」
勝の長く続くことになる慶喜への不信感は、この頃から始まっている。
「龍馬、海軍操練所の建設には資金がいるんだ。お前越前の松平春嶽公に会ってきてくれねえか?」
勝の頼みを受けた龍馬は越前に行き、藩主松平春嶽から五千両を引き出した。
この頃、長州藩の尊王攘夷派にして実力者の桂小五郎が対馬藩士大島友之允を引き連れて勝のもとへ訪れた。
ロシアによる対馬進出の件は一旦解決したとはいえ、対馬藩内で大きな論争を引き起こしている。彼らは勝に対し、
「攘夷の範囲を朝鮮にまで広め、日本の支配下に置くべきだ。そして欧米列強に備えればいい」
と主張した。
これに対して勝は、
「欧米諸国に比べてアジアの国はどこも小さい。その中で争っている場合ではないさ。むしろこの国から軍艦を出してアジア各国で連携し、海軍を盛大にして学術の研究を進めなければ欧米列強に蹂躙されてしまう。最初に朝鮮、それから清国と海軍による連合を広げていけばいい」
といったからその構想の広大さに、2人は何もいうことができなかった。勝のこのスタンスは、日清戦争の頃まで続くことになる。
幕府が攘夷の期限とした5月10日、長州藩は下関にて外国船への砲撃を開始した。
21日には勝の海軍建設を支持した姉小路が暗殺され、これが勝の計画にとって大きな痛手となった。
7月、生麦事件の報復としてイギリスが薩摩藩を攻撃して薩英戦争が始まった。
8月18日、京で尊王攘夷派として力を振るっていた長州藩勢力は、薩摩藩と会津藩によって追い落とされることになる。これにより尊王攘夷派の公卿たちも力を失うことになった。
江戸にいた勝はその知らせを受けて
「国内の挙国一致が遠ざかった」
と唇を噛んだ。海軍建設という議論を進めながら幕府側と尊王攘夷派の間に連携をもたらし、統一された体制を築こうという彼の独自の路線はここに挫折することになった。




