海軍をめぐって
文久2年(1862年)2月、孝明天皇の娘和宮がときの将軍家茂のもとへ嫁いだ。老中安藤信正は朝廷と幕府の結びつきを強めることで、幕府の勢力挽回を図ったのである。しかし異国嫌いの孝明天皇はその条件として、幕府に1日も早く攘夷を実行することを約束させた。
幕府によるこのような公武合体の政策は尊王攘夷派の反発をかい、安藤は江戸城坂下門の近くで水戸藩の浪士らによって襲撃されて負傷した。これにより幕府の権威はより失墜することになる。
3月には元薩摩藩主で今は亡き島津斉彬の弟で薩摩藩の指導者である島津久光が、幕政改革を掲げて上洛した。久光は朝廷に幕府への勅使を立てることを要求し、薩摩の軍は勅使を護衛しながら江戸に入った。
薩摩の要求は将軍が上洛して攘夷を議論すること、島津や毛利など有力な大名たちに幕政に参加させること、一橋慶喜や松平春嶽を登用することなどである。この要求により将軍家茂は、尊王攘夷派が渦巻く京にのぼることを余儀なくされることになる。
久光率いる薩摩勢が江戸から薩摩へ帰る途中、横浜近郊の生麦村で薩摩藩士がイギリス人4名に斬りかかり1人を死亡させる事件を起こした。これが翌年の薩英戦争の引き金となる。
勝が軍艦操練所頭取、さらには軍艦奉行並に昇進したのはこの頃である。
8月19日、勝は城内にて松平春嶽と老中の水野忠精に海軍を盛んにするにはいかがすべきか問われた。
「今足りないのはとにかく人材です。身分の貴賤など問うておる場合ではありません。志ある者の中から選ばなければたしかな人材を得ることはできませぬ。幕府の人間から選んでこれにあたらせようとばかりしていては、真の人物は得られますまい」
と勝は答えた。この男は幕臣でありながら、事あるごとに幕府のことを貶すようなものの言い方をする。
翌日、海軍建設に関して大広間で話し合われた。上座には将軍家茂が座り、主要な地位の者たちは皆参加している。下座の方には勝も、さらには小栗も控えている。
木村喜毅が口を開いた。
「これからは幕府が異国に負けぬ海軍を備える必要がございます。」
といって彼は幕府による海軍構想を述べ始めた。とはいっても彼が思いついたものではない。かつて小栗が木村たちに献策したものである。
彼の構想は壮大である。日本の沿岸部を東海、東北海、北海、西北海、西海、西南海の6つに分け、それぞれに艦隊を配置する。そしてそれぞれの艦隊が基地を設ける。東海は江戸湾、東北海は箱館、北海は能登、西北海は下関、西海は大坂、西南海は長崎である。特に東海と西海の艦隊を主要とする。そして各艦隊に約2000トンの軍艦を10隻以上、約1000トンの軍艦を30隻以上、運搬船を10隻以上配置する。
それに対して
「それほどの艦隊を用意するのにどれほどの年月がかかるか?」
という質問があがったから、誰もが黙り込んでしまった。
そこで勝に目をかけている大久保忠寛が勝に
「前へ出て申しあげよ」
と命じた。こういう場合は、そう命じられてもその場で申し上げなければならない決まりである。
だが勝はそれを無視して前に出た。そして、
「500年はかかりましょうな」
といったものだから皆呆気にとられた。
「いたずらに人数や船が多ければいいというものではありませぬ。それにかなうだけの人材が育っていなければ意味がありません。そのような大事業を論ずるより先に、学術を進歩させてそのような人物を育てることこそ先にございます」
それを聞いて下を向きながら唇を噛んだのは小栗である。なぜこの男は、自分の考えた幕府海軍の構想に水を差すようなことをいうのであろうか。とはいえ理由は薄々分かっている。
勝は海軍の建設を、幕府主導で行おうとするのが気に食わないに違いない。この男は幕臣でありながら幕府の力には限りがあると思い込み、それを前提に物事を考えようとする。
「とんだ不忠者ではないか」
と小栗からすれば不満である。軍艦を作り海軍の人材を育てるというのは、幕府が果たさなければならない責務なのである。勝が期待している諸藩はそれぞれの藩のために動いているに過ぎない。しかし幕府は日本という国家を背負っているのである。その幕府以外に海軍の建設などできるはずがないではないか。
この年の6月から小栗は勘定奉行勝手方の職に就き、上野介と名を改めた。
小栗は財政にはうるさい人物であり、その知識と能力は幕府のみならず国内随一であった。彼は後に株式会社を作って幕府の利益を増やすことを模索するが、それだけでなく必要のない支出を減らすことにも苦心した。幕府の中には必要のないと思われる儀式もいくつか存在したが、彼は容赦なくそれを廃止している。
国費の精算書を勘定奉行が読み上げるという慣例が存在したが、
「すでに配っている書類をわざわざ読み上げる必要はありますまい」
といってなくしてしまった。
また勘定奉行が諸大名から賄賂を受け取ることを許さず、そのために恨みもかった。
彼は幕府に財政面での援助を申し出る藩があれば御用金を貸し与えた。しかしそのお礼金を贈られることがあれば、それを老中たちの前で見せびらかし、
「このようなものを用意できるなら、そもそも幕府から金を借りる必要などないではないか。幕府も貸す必要がない。私はこのようなことを断じて許しませぬ。これは大名に返します。また老中方の中にこのようなものを受け取られた方がおられるなら、取り急ぎ返さりますよう」
といい放ったという。
そんな小栗のもとに将軍上洛の際の支出に関する相談が寄せられた。
「馬鹿げている。公方様の上洛に出せる金などない」
と財政状況を話した小栗は、
「そもそもなぜ公方様が攘夷決行を誓うために京へのぼらねばならぬのだ。幕府は断じて攘夷などせぬ。危険な者たちが溢れる都へ行かれるなどやめたほうがいい」
と吐き捨てるようにいった。
これまで幕府は黒船来航時や日米修好通商条約の調印、さらには対馬でのロシア人との交渉等、事あるごとに外国人と交渉をして戦を回避するように努めてきた。それは今戦をしても負けて異国に支配されることが分かっているからであり、だからこそ平和裏に進めてきたのだ。深く考えもせず攘夷を唱える朝廷や諸藩の者たちとは国を憂う想いが違うのであり、彼らの要求をのむなど言語道断だと小栗は思っている。
一方で勝は、将軍の上洛を自身の海軍構想を進めるための大きな一歩だと考えていた。海路上洛を実現することで将軍や老中たちに船に乗ってもらい、沿岸部を見て回ってもらうことを目論んでおり、そのためにイギリスの商船「順動丸」を独断で購入した。
この頃勝は福井藩主松平春嶽の政治顧問であった横井小楠と交流を深めている。後に勝は
「俺は今までに天下で恐ろしいものを2人見た。それは横井小楠と西郷隆盛だ。横井は、その思想の高調子なことは、俺などはとてもはしごを掛けてもおよばぬと思ったことがしばしばあったよ」
と語っている。
横井にすれば幕府は「私」の政治を行っているのであり、これを「公」の政治に切り替えなければならない。幕府による政治制度は徳川家が天下をとった際に、その体制を盤石にするために築かれたものであって決して国民のためにできているものではない。
また彼は開国論者であったが、幕府が結んだ条約はアメリカ等諸外国に迫られて自己の立場のために踏み切ったものに過ぎないと思っていた。このような私的な条約は、外国との戦争になっても一度ご破算とするべきである。この「破約必戦論」までは勝は支持しなかったが、幕府が私的な政治を行っているという前提は勝と同じであった。
日本海軍の建設を目指していた当時の勝は尊王攘夷派の志士から標的とされ、刺客が訪れることも珍しくなかった。それでも勝は常に丸腰で応対し、妻のたみなどは冷や汗をかくのだが、本人は何とも思っていない。
ある時長刀を二本差している者が訪れて、
「お前の刀は抜くと天井につかえるぜ」
といったらその者は帰っていった。また刀を抜きかけた相手には、
「斬るなら見事に斬れ。勝は大人しくしていてやる」
といったらこれもまた帰っていった。
勝は常日頃から自分の刀の鞘と鍔を結んで抜けないようにしてあった。斬りかけられることはあっても自ら斬りかかったことは一度もなく、それを信条としていた。命を大切にする思想を持っていたようで、屋敷の庭の雑草も「虫の居所がなくなって可哀想だ」といって生えたままにしていたという。
これを単なる平和主義とかヒューマニズムととらえるのではどこか面白みがない。彼の哲学にはそういう言葉では言い表せない深みがある。
彼はこんな言葉を残している。
「誰を味方にしようなどといふから、間違ふのだ。みんな、敵がいい。敵が無いと、事が出来ぬ。国家といふものは、みんながワイワイ反対して、それでいいのだ」
一見好戦的な発言に見えるが、敵というのは彼なりの露悪的な表現である。皆考えが異なるのは当たり前であり、100人いれば100個の価値観がある。そういう意味では誰もが敵なのだ。しかし敵といっても倒すべき敵ではない。
敵とはしっかりと向かい合わないといけない。その中で新たな可能性や価値観が開けてくるかもしれないのである。「これしかない」などと自分の考えや立場にがんじがらめになるのは愚かなことだ。だからこそ彼は開国派でありながらも攘夷派とも関わったし、幕臣でありながら倒幕派の志士たちとも交流した。
彼は次のような言葉を残した。
「主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ」
「人はよく方針々々といふが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下の事は、あらかじめ測り知ることの出来ないものだ。網を張つて鳥を待つて居ても、鳥がその上を飛んだらどうするか。我に四角な箱を造つておいて、天下の物を悉くこれに入れうとしても、天下には円いものもあり、三角のものもある。円いものや、三角のものを捕へて、四角な箱に入れうといふのは、さてさて御苦労千万の事だ」
そして常に敵同士で意見を昇華して、くだらぬ争いをして誰かが傷つくのを避けようとした。それは自分と刺客の間でもそうだし、もっといえば日本と異国、これより先の幕府と薩長といった間でも勝のそんな価値観が活かされていく。
年の暮れ、肌を刺すような風が江戸にも吹き荒び始めている。勝の屋敷に2人の男が現れた。1人は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬、もう1人は北辰一刀流の千葉道場の千葉重太郎である。
「お前ら俺を斬りに来たんだろ。まあ一回座って話でも聞きなよ。斬るのはそれからでも遅くねえだろ」
例のように勝は落ち着き払っている。
勝は自身の構想を語った。幕府だけではなく諸藩から志ある者を集めて日本に海軍を作る。やがては清国、朝鮮と連携して東アジアに欧米列強に対抗できるだけの大海軍を築き上げる。これを聞いた龍馬は、
「私を弟子にしてくれませんですやろか?」
といったものだから勝は、
「斬りに来といて弟子になる馬鹿がいるかよ」
といいながらも笑って受け入れた。
12月16日、勝は順動丸に老中小笠原長行を乗せて大坂に向かった。大阪湾の視察と調査が目的であったが、家茂の海路上洛の予行演習の意味もあった。
帰路で下田に寄った勝は、土佐藩主山内容堂に出会った。
「我が門下に坂本龍馬以下数名の土佐藩脱藩の者がおります。なんとか脱藩の罪をお許しいただけないでしょうか。さすれば私がお預かりいたします」
「まあとにかく一杯飲まれよ」
容堂は大酒飲みとして知られている。そして、
「龍馬のことは任せる」
と容堂がいったから勝は証文を書くように頼み、龍馬らは自由に行動できる身となった。




