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遣米使節団

ポーハタン号の護衛艦咸臨丸に乗っていたのは提督の木村喜毅、艦長の勝海舟をはじめ福沢諭吉や土佐藩の漁師の子でアメリカに漂流した経験を持つ中浜万次郎たちであった。


勝はもともと船酔いが激しいことで知られていたが、咸臨丸出港の10日ほど前から熱を出して寝込んでいたこともあり、航海中は部屋の中に閉じこもっていたという。


2月には咸臨丸、3月にはポーハタン号がサンフランシスコに到着した。数え切れないほどの砲台が敷き詰められており、いつでも火を吹けるようにこちらに砲口を向けている。その景色1つだけでも、日本との規模の違いを感じられる。咸臨丸が礼砲を放つと、それらの砲台からも答礼砲が発射された。


遥か太平洋の向こうからやって来て初めて異国の土を踏んだ侍たちは、多くの市民に見守られながら大歓声で迎えられた。大統領からも公式に歓待を受け、アメリカ国内の新聞にも彼らの堂々とした姿が大きく報じられた。


勝はこれまで長崎や鹿児島で西洋式の施設を目にしてきた。そんな彼からしてもこの地の工場や施設は桁違いであり、これまで頭の中でしか描けなかったものが目の前に出現したようであった。


それ以上に彼が衝撃を受けたのが、アメリカの社会制度である。

「士農工商の差別がなく、日本でいう武士のような人たちでも商売をしている。また大統領は世襲ではなく国民によって選ばれる」


勝は長崎でのカッテンディーケの教えや、また幕府によるがんじがらめの身分制度への反発から、このようなアメリカの民主主義を理解できる下地がすでにできていたといえるかもしれない。


ある日勝はサンフランシスコ裁判所から呼び出され、いくつかの書物を掲げた裁判長から

「これは何だ?」

とは問われた。それは浮世絵の本であったから勝は、

「それは日本の芸術本であります」

と答えた。


どうやら日本人がサンフランシスコの女性に対して、これらの浮世絵を突きつけて受け取れと迫ったらしい。アメリカ側からすればこれが芸術であるとは理解し難く、ただの卑猥な絵にしか見えない。それで原因で裁判沙汰になっているようだ。


「浮世絵に対する見方は日本とここでは異なります。それとは知らず無礼を働いたことをお詫びいたします。その浮世絵は引き取らせていただいたうえで、しかるべき処分をいたします」

と勝が謝罪したことで事なきを得た。


その後勝は再び裁判長に呼び出された。そして訴えた女性が浮世絵の芸術性に感動したからそれを欲しいといっており、譲ってもらえないかとのことだった。アメリカではこのような絵は公序良俗に反するとして取り締まられているから、こっそりと譲ってもらわなくてはならなかったようだ。


日本とアメリカという異なる文明が初めて出会った時のエピソードとして、面白いものである。


小栗ら使節団は大統領に対して幕府からの国書を渡したが、アメリカへ来た目的はそれだけではない。井伊は小栗に対して、日米通貨の交換比率について交渉するように命じていた。


当時外国人は、日本の通貨を三分の一の価格で手に入れることができた。だから日本の小判が濫出して、商売も日本が不利になる条件となっていた。


これを受けて小栗はアメリカの通貨を集めてその貨幣価値を調べ、サンフランシスコやワシントンで交渉を重ねた末にフィラデルフィアにあるアメリカで一番大きな造幣局に向かった。ここには世界各国の通貨が集められており、日本の小判もその中に含まれていた。


そして造幣局との交渉により日米通貨の分析比較試験が行われることが決まり、両国の金貨の一部が削り取られて秤にかけられることとなった。その時に異議を唱えたのが小栗である。


「このように削り取った部分だけで調べるのではなく、小判一枚とドル金貨一個をそのまま使って調べるべきである。それぞれを溶かして含有量を分析するべきだ」

と小栗がいったからアメリカ側は慌てた。日本側がそこまで緻密な調査を求めてくるとは思っておらず、簡単な調査だけ済ませれば納得するだろうとたかをくくっていたからだ。


アメリカ側は拒否を続けたが小栗の粘り強い交渉により調査は行われ、結果両国通貨の金の含有量はほぼ同じであることが判明した。しかし幕府の方針により通貨の交換比率に関する交渉はこれ以上進めることができず、その後幕府は金の含有量を三分の一に減らした小判を発行することでこれに対応した。


とはいえ開国してすぐのいわば未知の状態で国際社会の場に飛び出た日本人が、ここまでの交渉をなし得たのは見事という他ない。


小栗も勝と同様にこの地で新たな文明に触れた。郵便事業や電信制度を見て学び、後に日本に持ち帰って提案するに至る。


またワシントン海軍造船所を見た際には、部品を集めて組み立てて船にするのではなく、すべての部品から製作していることに衝撃を受けた。そのような工場を日本も持たなければならぬという着想を得た。


またパナマでは、パナマ鉄道を政府ではなく商人たちが資金を出し合って組合を作り、得た利益を出資者で分配するという仕組みに感銘を受けた。これより7年後に幕臣の渋沢栄一がパリにて株式会社の仕組みを学び、それを持ち帰って日本に根付かせることになる。しかし小栗はそれに先駆けて仕組みを知って、やがて幕府の中で運用するに至っている。


サンフランシスコの石造りの建造物が立ち並ぶ街並みを見下ろしながら、勝と小栗はウィスキーを飲みながら語り合っていた。


「アメリカという国を見ると一つの国家とその国民という意識がはっきりしている。日本もそうあるべきです。藩などというものは、もはやなくしてしまったほうがいい」

小栗は酔っていたこともあって革命的な発言をした。彼は日本に郡県制を敷くことを目指すことになるが、そのきっかけはアメリカの政治制度を見たことにあった。


「そうですな。私が長崎にいた際にオランダ人のカッテンディーケがよくいっていました。欧米諸国の人間は国民の意識を持って国事にあたっていると。アメリカへ来てそれが確信に変わりましたよ。日本も早くそれを目指すべきでしょう」

「しかし時間がかかるかもしれない。今は国を守るためには攘夷しかないという連中が多くいる状況です。そんな我が国でアメリカと同じような制度を整えれば国は混乱に陥るかもしれない」

今の日本人の知識ではアメリカのような民主主義は上手く作用しない。だからこそ、

「幕府が強大な力を発揮して国の仕組みを指導していくべきだ。それから徐々にアメリカのように移行していけばよい」

と小栗はいった。


これに勝は疑問を抱いた。なぜそこまで幕府にこだわる必要があるのか、幕府が上に立つ以上は民主主義などありえないではないかと思うのである。勝は少しずつ幕府の存在意義に疑問を持ち始めている。


小栗と自分の考えは根幹が同じようで、実は異なる部分が多いと勝は感じている。幕府を優先する思想もそうだが、小栗は万事を理屈で済まそうとする。それが勝には不満であった。


「世間は生きている。理屈は死んでいる」

というのは勝の言葉だが、彼は常に世間の人々の声に耳を傾けてそこから考えを練るようにしていた。


小栗は頭は切れるし、その合理性は国内随一といえるかもしれない。しかしいかにそうであっても、世間の流れを無視して至った結論は机上の空論に過ぎないのだと勝は思っている。


民主主義を取り入れればその中で人々は考えを巡らし、いかにすれば国が良くなるか考えていくうちに政治の能力も高まるはずである。それが人情や世間の力を信じている勝の考えである。


それに対して小栗は、まずは幕府が合理的なビジョンのもとで政治を進めることが筋だと思っている。そこが下町の低い身分出身の勝と、エリート出身の小栗の考えの違いであった。


万延元年(1860年)5月に小栗らはニューヨークを出港し、太平洋を横断するのではなく南アフリカの喜望峰を廻るルートで帰国を果たした。勝らの咸臨丸は行きと同じく太平洋を横断して帰国している。


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