長崎の日々
勝が幕府に取り立てられたのは安政2年(1855年)であり、海防掛の大久保忠寛の推薦によるものであった。大久保は黒船来航時の勝の建白書に衝撃を受けるとともに、勝が野戦砲を造る際に鋳物師からの賄賂を断ったという噂を聞いたことで彼を登用することを決意した。
当時の老中阿部正弘は身分の上下に関係なく幕臣を取り立てる方針をとっており、勝の登用もその流れの一環といえる。ちなみに勝の蘭学塾氷解塾の塾頭、杉純道も同じ頃に阿部によって取り立てられている。
勝の職名は下田取締掛手付であり、その最初の仕事は伊勢、大阪方面の海岸を見て回り海防計画を練り直すことにあった。
勝が取り立てられたその年の7月には長崎に海軍伝習所を設けることが決まり、勝もそこへ派遣されることとなった。海軍伝習所は日本に蒸気船を寄贈していたオランダが、日本人に航海術を教えたいと好意を示してきたことでその設立が決定した。
勝は安政6年(1859年)に江戸に戻るまでの約5年間を長崎で過ごすこととなる。ここでの学びはこれまでの蘭学修行でも得られなかったことが多く、実際に蒸気船を動かすことによる訓練は大いに刺激となった。
実用的な学びだけではない。長崎伝習所には幕臣だけでなく諸藩の優れた藩士たちも集まっていた。
「彼らは幕臣なんかよりもよっぽど優れている」
と勝は確信し、ときにはそれを口にした。彼自身幕臣なのだからあるまじき発言かもしれないが、ここから勝は海軍、さらには新国家の建設にあたって諸藩士の力に注目していくようになる。
さらにオランダ語が話せた勝は教師であったオランダ海軍の軍人たちとの交流も深めた。
「ヨーロッパの人間は日本人ほど身分の上下にとらわれない」
というのも勝が長崎で確信したことであった。黒船が来てから幕府も能力主義を取り入れ始めたとはいえ、未だに日本は古くさい幕藩体制に縛られている。生まれた家柄によってその人間の立場も決まってしまうこの国の仕組みに、勝は改めて疑問を持った。
特に勝に影響を与えたのが、安政4年(1857年)8月に教官として就任したカッテンディーケという人物である。彼はその頃首班格であった勝と伝習所の運営について話し合う仲であった。
長崎伝習所の生徒には教官に対して横柄な者も多く、カッテンディーケをはじめオランダ人教官たちは苦労していた。そんな中で勝は両者の間を取り持つ役割も果たしていたのである。
2人は国家観も語り合った。
「長崎の街は敵の攻撃に対してあまりにも無防備です。これでは攻撃を受けたらすぐにやられてしまう。それを長崎の商人に伝えると『そんなことは我々の知ったことではない。お上が何とかなさることだ』などという」
カッテンディーケは日本で受けた衝撃を勝に話した。
「オランダではどうなのですか?」
と勝が問うと、
「オランダには憲法があって、国民の生活は保障されています。だから誰もが自らを国家の一員であると自覚しているのです。敵が攻めてこようものならば自らのこととしてこれを防ごうとします。日本国がそうでないということを不思議に思います」
とカッテンディーケが返したことで勝は衝撃を受けた。
さらにカッテンディーケは、
「この国ではいくつもの藩が独立して互いに対立している状態です。そのため国家、国民全体の利益を代表するなどということは思いもよらないことでしょう。しかしそれでは一般に対しての不利益にしかなりません」
と日本の持つ矛盾を指摘した。
当時日本では全ての人間が、幕府やあるいは藩といった単位に属していた。その中でいかに生きるかということが発想の限界であった。いわばそのような思想を人々に強いることで、江戸260年の泰平の世は保たれてきたのである。
「だがそんなものは世界から見れば時代遅れだ」
ということを勝は悟った。カッテンディーケの助言は、勝に日本人、日本国民という意識を与えたのである。
勝が長崎で接した外国人はオランダ人教官だけではない。長崎に渡来した諸外国の船員や軍人の応接も任せれており、外国側の用向きを江戸に伝える役割を果たしていた。それに対する老中阿部正弘の要求を勝が外国人に伝えることもあり、いわば彼は阿倍の私的な外交掛であった。
後に勝は諸外国との交渉をこなす局面に幾度か臨むことになるが、ここで培った経験と人脈がその時に活かされいくこととなった。
安政4年(1857年)に江戸に軍艦教授所を作ることが決まり、長崎の伝習生たちが江戸に帰ることが決まった。長崎伝習所は新しい伝習生たちにより再開することとなった。しかしこれまでの経験者に残っていて欲しいというオランダ人教官側の要請により、勝は長崎に残ることになる。
同じ年の5月にはこれまで伝習所の監督を務めた永井尚志の後任として、木村喜毅が着任することとなった。後に彼と勝はアメリカに向かう咸臨丸でも同船することになるが、どうもこの2人は馬が合わなかったようである。生まれつき身分が高い家柄である木村と、身分の低い家から実力で今の地位を得た勝の間には相容れないものがあったようだ。
ある日木村が、航海稽古の時間が短いのではないかと文句をいったことがあった。勝はそういう木村を船に乗せて五島の方へと向かったが、やがて風と波により木村が気分を悪くすると、
「もう帰ってもよかろう」
というが勝は、
「まだ天草から少し出たばかりです」
といって譲らなかった。結局木村が
「もうよいから船を戻せ」
といったことで航海は終わった。
また木村が、伝習生が夜遊びに出かけるのを禁じて門に錠をかけたことがあった。しかしオランダ人教官たちや伝習生を見張る目付下役たちも夜の街へと遊びに出ている。伝習生たちからすれば不満であった。
そこで勝は錠を壊し、
「大事なのは技術を得ることです。彼らが学問ができなければ責められてしかるべきだが、そのような理由で責めるものではありません」
といって木村を説教した。糞真面目を嫌い、人情にも通じている勝らしいエピソードといえる。
勝は伝習所での航海中に何度か命の危機を経験している。安政4年(1857年)の秋、対馬で測量をしようとしている時に異人と間違われて火縄銃で撃たれかけた。
また同じ年の秋に、手軽な実習船であったコットル船で日本人だけの遠洋航海に挑んだことがあった。しかし大暴風の中で船は沈みかけ、勝の決死の指揮により何とか無事に帰還した。この成果を知ったカッテンディーケらオランダ人教官たちは、勝になら操船のことは任せてよいといったという。
安政5年(1858年)、勝やカッテンディーケ、伝習生たちは遠洋航海として薩摩に訪れた。3月15日に山川に上陸し、それを聞いた薩摩藩主島津斉彬は単騎で駆けつけた。勝やカッテンディーケは斉彬に対して、自分たちが乗ってきたオランダ船咸臨丸の中を丁寧に案内した。
この時の勝たちの目的地は琉球であり、琉球で薩摩の機密を探れという指示を幕府から受けていた。しかし斉彬はその代わりに鹿児島に来てくれといい、彼らは鹿児島に行くことになった。そこで斉彬は薩摩がこしらえてきた西洋式の軍事施設を全て見せてくれた。
島津斉彬は反射炉、溶鉱炉、紡績所、ガラス工場、軍艦といった当時国内では最先端のものを藩内で作り上げ、富国強兵、殖産興業を進めていた。その開明的な思想から、英明な藩主として名高かった。
「ここまで見せていただけるとは恐悦至極にございます」
勝は斉彬に対して礼を述べた。
「私は薩摩一藩のために西洋化を進めているわけではない。日本国のためと思ってしております。勝殿たちのような、これから国を背負われる方々にお見せするのは当然というものです」
勝は感激した。本来藩主と自分とは同じ席で話すことさえ許されない関係のはずである。なんと心の広いお方であろうか。
「勝殿は日本国が朝鮮、清国と交易をすることを考えておられるそうですな」
「それぞれの国が欧米諸国に狙われている以上は、別々になって戦う必要はありませぬ。ともに手を携えて立ち向かうべきでございます。そのためにも我々は船の動かし方を学ばなければなりませぬ。船は敵と戦うだけではなく、交易をするうえでも役に立つというものです」
「あなたは面白いお人じゃ。今後国事に関して談じたいことがあれば書状を勝殿に送ろうと思う。その際はよろしくお頼み申す」
斉彬はこの年の7月に病気で亡くなったため、2人の関係は長くは続かなかった。しかし斉彬が彼に仕えていた若き西郷隆盛に勝のことを話していたことが、後に日本の歴史に大きな影響を与えることになる。
安政5年(1858年)の末、幕府内で日本からアメリカに使節を派遣する際に、蘭学と航海術に通じている勝を同行させようという話が持ち上がった。異国を見てみたいと思っていた勝からすれば願ってもないことであった。
翌年の正月、その話と長崎の伝習所を縮小するという方針も相まって、勝は江戸に戻ることになった。長崎の伝習所は時の大老井伊直弼が西洋嫌いということもあり、勝が江戸に戻った翌月に廃止となっている。




