小栗家の堅物
小栗家は代々徳川将軍家に仕える家系である。4代目の忠政は徳川家康のもとで武功をあげて、又一という呼名を与えられた。戦で一番槍の功名を何度もあげたため、又一番槍かという意味合いが込められている。
文政10年(1827年)、その家系から後に小栗上野介と呼ばれる忠順が生まれた。父は新潟奉行の忠高、母はくにである。幼名を剛太郎、その後又一と改めた。又一は家康から賜った名誉ある呼名であり、小栗家の当主は代々その名を名乗った。
小栗家ゆかりの人物に大隈重信がいる。大隈重信の妻綾子が小栗忠順の従妹であり、忠順と妻道子の娘国子は後に大隈により引き取られることになる。
その大隈が、
「明治の近代化は小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」
と語った。
小栗というと倒された徳川幕府側の人間であり、その存続に最後までこだわった男である。その男が明治新政府による近代化路線を先駆けて敷いていたというところに、明治維新という出来事の持つ奇妙さがある。
同時にそんな男が薩長などの雄藩ではなく、滅ぼされる運命にある徳川幕府の、それも譜代の家に生まれたところに、歴史の皮肉というか一筋縄ではいかない要素を感じざるを得ない。
小栗の容貌は面長で若干色黒である。額が広くて顔中に痘痕の跡が残る。その眼光は鋭く、表情を緩ませることは少ない。子供は彼を前にすると怯えて、時には泣き出す子もいる。大人でさえ彼の何事をも恐れぬかのような表情や態度を前に身を縮める者が多い。
14歳になった小栗が播州林田の藩主建部内匠頭のもとを訪問したことがあった。その時の林田旧藩士の証言が残っている。
「その挙動は、全く大人のようであり、言語明晰、音吐朗々、応接堂々としてすでに巨人の風があった。未だ少年の身でありながら、煙草を燻らし、煙草盆をはげしく叩き立てつつ、『成程』、『成程』と藩主と応答し、人は皆その高慢に驚きながらも、将来はいかなる人物となられるだろうか、と噂しあったものであった」
その態度があまりにも堂々としたものだったから、内匠頭は感心し、娘を彼のもとへ嫁がせたいと考えるようになった。やがて嘉永2年(1852年)、小栗は23歳の時に内匠頭の娘道子を嫁に迎えることになる。
小栗は幼少の頃から幅広い学問に触れた。漢学や蘭学、さらには財政や経済といった、当時の武士にはあまり馴染みがなかったものまで学んでいた。
漢学は9歳の時に著名な漢学者であった安積艮斎の塾に入門した。安積は攘夷論に立ちながらも海防や交易の重要性を理解しており、それが後の小栗の開明思想に与えた影響は大きいはずである。
当時の主な教養は儒学である。幕府が推薦していた朱子学や、当時の志士の間で流行っていた陽明学といったものだ。また禅学も流行っていた。しかし小栗はそういったものには目もくれず、実用的で現実的な学問に没頭した。
ちなみに彼は勝と同じく、島田虎之助のもとで剣術を学んでいる。また、幕臣の田付主計という幕臣のもとで砲術を学んだ。
主計の弟子に結城啓之助という与力の者がいた。彼と親交を深めた小栗はよく議論を行ったが、その時に
「幕府が3本マストの大船を造ることを禁じたために、国内の船舶には十分なものがない。そういうものを造って交易をして富を増やさなければならない」
といったのだという。驚くべき先見性である。
彼にとって学問とは物事をいかに解決するかという一点に集中していた。イデオロギーが世を席巻していた幕末にあって、その徹底した現実主義は突出した個性であるといえる。
若き日の小栗が、後の外国奉行朝比奈甲斐守に誘われて花見に行ったことがあった。隅田川の上を船に乗って進むのだが、彼は花にも酒にもお酌をする美人にも目もくれず、
「あの川の堤の地理上の利害はいかがであろうか。またあの堰は少し高くした方がよいのではないか。向こうの水田とこちらの水利は、民生のうえで特質利否はいかがだろうか」
などといったから、甲斐守をはじめ周りを唖然とさせた。
いわば彼は風流ごとに興味がなく、当時流行りであった詩文を練るということもしなかった。周りからすれば冷徹な人物に映り、それもあって対人間では誤解や衝突が多かった。
そんな彼だが徳川家、幕府への忠誠心というものだけは持ち続け、それは死ぬまで変わることがなかった。それは江戸260年の期間に熟成した武士道が彼の中にも根付いていたというべきだろう。
現実主義者でありながらそれは矛盾だというのは、徳川恩顧の家に生まれ育った小栗に対して酷というべきだろう。もし仮にそれを矛盾だというのなら、そんなに面白く深みのある矛盾は他にない。現実主義的な変革を躊躇しない性格でありながら、徳川を第一とするその思考は、やがて彼を複雑で孤独な立場へと追いやることになっていく。




