国の統一のために
元治元年(1864年)8月、幕府によって長州征伐の布告が出された。小栗はそれを主導する人物の一人であった。
この頃小栗は勝手方勘定奉行に任じられ、名を上野介と名乗り始めている。上野国にある榛名山の麓の権田村が小栗家の知行所の一つで、特に関わりが深い土地であったことからそう名乗った。
小栗が長州を征伐することにこだわっていたのに対し、勝はその方針に反対している。この2人は一刻も早く国内を統一し、外国に立ち向かえる国家へと成長するべきだという方針は一致している。ただその中心に幕府を置くかという点で相違があり、その主張はいつも食い違う。
勝は幕府が諸藩との連合に立場を落とすことで、合議制により統一国家を築くべきだと考えている。しかし小栗にすればそれは甘い考えである。長州藩のように外国との戦争や京都御所への攻撃を行うような勢力は、国の乱れのもとである。そのような勢力を抑え込むだけの力を幕府が持ち、幕府の強大な主導のもとで国は統一されるべきだ、と小栗は考えている。
同月、勝のもとに長州藩への報復を行うために姫島に集まった四国連合艦隊の攻撃を止めに行くよう命令が下った。幕府は自分たちが長州を攻撃する前に、外国が長州に攻撃を加えるのは都合が悪いと判断したのである。
しかし勝が姫島に着いた時にはすでに四国艦隊による長州攻撃が開始されており、勝は帰ることを余儀なくされた。
外国からの攻撃を受けた長州は、それから幕府の大軍により包囲されることとなる。四面楚歌の長州藩内では幕府への恭順派が力を持ち、倒幕派の三家老の首を差し出すことで戦いに発展せずに長州征伐は終了した。
このいわゆる第一次長州征伐時に征長軍の参謀を務めたのが薩摩藩の西郷隆盛であり、彼は長州への重い処罰を検討していた。しかし幕府がそれに踏み切らないため、彼は幕臣の中でも頭が切れるとされる勝海舟のもとへ訪れた。かつて西郷の師であった島津斉彬から勝のことは聞いている。
9月11日に大坂にて2人は初めて顔を合わせた。国事を相談しようとした西郷に対して勝は
「幕府なんざあてにしないことです」
といったから、西郷は動揺を隠しきれなかった。幕府とは天下そのものではないか、それが当時の人間たちの常識であり、幕臣である勝がそれを否定するなど本来あってはならないことである。
この席で勝は西郷に対して幕府の内情を暴露した。西郷が倒幕ということを意識しだしたのはこの会談からであり、その意味でこの日は歴史的転換点といえるかもしれない。
この一事をもって勝は幕府を薩長に売り渡した不忠者だといわれることがあるが、この頃の幕府はあくまで強大であり、それが数年後に倒れるなど誰も思っていなかった。自分の保身のために幕府を売り渡したならまだしも、彼は幕府全盛時の段階からそれを見限り、日本のためには幕府がなくなるべきだと考えていた。
そしてこれから数年後に幕府および徳川家が消滅の危機に瀕した際は、むしろ自ら先頭に立ってそれを救おうとしている。彼は常に強い方に靡かず逆境の方に身を置いた。そういう粋さが勝にはあった。もっとも彼自身は不忠者だといわれても「その通りだよ」といって笑い飛ばすだけであろうが、その点だけは誤解であるというべきだろう。
「京都御所の一戦で攘夷派たちが恐縮したと思い込んで、幕府の役人たちは天下泰平の世になったと信じて疑いません。今幕府を取り仕切っているのは奸物だらけですよ。皆自分のことしか頭にない」
勝がそう指摘した。
「その奸物どもを退けることはできもはんか?」
西郷が聞くと、
「一人を退けるくらいならわけはないでしょう。しかしあとを引き受ける人物がおりませんな。いかんともしがたいですよ」
と勝はその絶望的状況を語って聞かせた。
それから外国人が望んでいる兵庫開港についての話になった。
「口先だけの談判をする幕吏を外国人たちは軽侮しております。いずれは明賢の諸侯4、5人で会盟して異国の艦隊を打ち破れるだけの兵力をもって横浜と長崎の港を開き、兵庫については筋を立てて談判したうえで条約を結ぶべきです。そうすれば国の恥にもならず、外国人たちはその条約に納得するはずです。これにより天下の大政は定まり国の方針は明らかになります。本当にそのような動きになるのなら、明賢の諸侯が集うまで私が外国人たちを説得して引き止めておきましょう」
「幕府ではなく諸藩の連合により国を動かすべきだということですか?」
「そうです。手始めにそうするべきですね」
「手始めとは?その後はどうなさるのですか?」
「天下の人材を集めて公議会を設けて、身分のない者でも出たければ出席させるんです。国事はすべて公論によって決するのです。今の身分でがんじがらめな世の中じゃ何もうまくいきませんよ」
この会談から西郷は長州藩を厳しく処罰する方針を改めて、その息の根を止めないように立ち振る舞うことになる。もし幕府を倒すということになれば薩摩藩は長州藩の力を借りなければならないのだ。
実際にこの年の末に長州藩士の高杉晋作が下関で挙兵して幕府への恭順派政府を倒し、長州藩は再び倒幕へと舵を切ることになる。そして慶応2年(1866年)1月には薩長同盟が成立している。
元治元年(1864年)11月、勝が自らの夢を託していた神戸海軍操練所から過激な浪士が多く出ているということが幕府内で問題になった。それにより彼は軍艦奉行を免職されることになる。そして海軍操練所も閉鎖されることになった。
勝は別れ際に弟子である龍馬たちに語りかけた。
「この地から幕府のためじゃない、日本のための海軍を作り上げるのが俺の夢だった。だけどな、俺のやってたことは決して無駄なんかじゃない。なぜならお前たちとともに過ごすことができたからだ。お前たちはこの国の希望だ。もうこれからは身分がどうこうって時代じゃねえんだ。志さえあれば何だってできる、そういう国になる。いや、ならなきゃいけねえ。お前らの手でこの国を変えるんだ。きっとお前らならできるさ」
皆涙を流さずにはいられなかった。
勝は龍馬たちを薩摩藩の庇護下に置いてもらうように西郷に頼んで実現させた。この後龍馬たちは亀山社中、さらには海援隊を作って薩長同盟、大政奉還という大業を成し遂げていく。
勝の代わりに軍艦奉行に就任したのは小栗であった。勝が過激な攘夷派たちを海軍操練所に引き入れていたという話を聞いて彼は
「いつもながら勝とはよく分からない男だ」
と改めて思わされた。
国に害をもたらす者たちを幕府の責任者が匿っていたなど許されることではない。小栗は勝のように柔軟には考えない。過激な攘夷派とはこの国の秩序を乱しかねない存在である。曲がったことは一切許されるべきではないと思っている小栗は、そんな者たちを集める勝の神経を疑った。
軍艦奉行となった小栗は軍備の増強と近代化の推進をはかった。まずアメリカから軍艦を購入した。さらに横浜に船舶小修理所を建設、また湯島鋳造所を修復して大砲小銃などの新兵器の製造を進めた。また鉄鉱の採掘にも力を入れた。
この頃小栗は、日本は封建制度を抜け出して郡県制を敷くべきであるという考えを持つに至っている。フランスの政治制度からの影響だといわれるが、小栗の頭にはアメリカで見た先進的な国家のシステムがあったはずである。
藩ごとに分かれていたのでは物事はスムーズに進まない。中央集権国家を築くことで日本という単位で物事を考えられるようになり、国民という意識も生まれるはずである。ちなみに明治維新における最大の改革は廃藩置県であるといわれるが、小栗はこの段階ですでにそれを構想していた。
小栗の構想と廃藩置県との違いは、その主軸を幕府に置くかという点である。あくまで幕府のもとでの郡県制を考えていた小栗が時代遅れだったかといえば、決してそうではない。当時国内が安定していない状況下にあって郡県制を敷くとすれば、現実的にこれまで実権を握ってきた幕府が中心となるしかない、と小栗は考えていた。
18世紀イギリスに「保守思想の父」とよばれるバークという政治家がいて、フランス革命による急激な社会変革を批判した。彼は社会を変革するにしても無闇矢鱈に行うのではなく、歴史的伝統や慣習との調和のうえで行うべきだと考えていた。小栗の価値観はこれに近いものがあったかもしれない。




