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一大共有之海局

文久3年(1863年)末になり、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城といった各藩の指導者たちと幕府の代表として一橋慶喜が京に集い、国政を議論し合う参与会議が開かれることとなった。雄藩連合による政治の運営は、勝の理想の実現への第一歩であった。


しかし肝心の将軍家茂は江戸におり、将軍が参与会議に出るべきだという意見が京には根強かった。勝も同意見であった。それでこそ幕府中心から諸藩との合議制へと移行できるのである。当時京に滞在していた勝は、将軍の上洛という使命を背負って江戸に戻ることになった。


12月28日、将軍家茂は海舟の指揮する翔鶴丸に乗って大坂に向かった。またこの時期、神戸では海軍操練所の建設が進んでいる。将軍の海路上洛、幕府と諸藩による会議の開催、海軍の人材の育成、この時期は完全な形ではないにせよ、勝の理想が着々と実現へと向かっていた。


大坂へ向かう海上は荒れ気味であり、船上では陸路に変更しようという意見も出た。しかし家茂は

「海上のことは勝に任せてある。私とて海上ではその意見に従うのだ。そなたらも異議を唱えるでない」

と一喝した。勝はこれからたとえ幕府が瓦解するようなことになっても、この若き将軍のことだけは身命を賭して守らなければならないと心に誓った。彼は理論家である前に激情家であったかもしれない。


勝は忙しい。上洛を果たしてすぐの元治元年(1864年)正月には、長崎に行くよう命じられている。当時外国の連合艦隊に砲撃を仕掛けていた長州藩に対する報復のために英、米、蘭、仏の四国艦隊が長崎に集結しており、攻撃延期を頼みに行くことが目的であった。


勝の一行は佐賀関から陸路をとった。彼は軍艦奉行並でありながら籠に乗ることはせず、空の籠を先にやって自らは供の者と歩くようにしている。


「街を歩くってのはいいもんだぜ。その土地の風情や人情に触れることができる。偉そうに籠に乗って道の真ん中を歩くなんて俺の性には合わねえよ」

と勝は同行する龍馬たちには話している。


「しかし長州藩の攘夷派が先生の命を狙っちょるとの噂もありますき、用心してください」

龍馬は心配するが、

「人間死ぬ時は死ぬさ。その時はこそこそしてるより、前向いて堂々と死んだ方がいいだろ。命を投げ出す覚悟でいかなきゃ何事も成就しねえよ」

といって勝は取り合わない。


人には余裕がなくてはならない、ということを勝は常に信条にしている。物事を考えすぎると怯えて大胆に行動をとれなくなる。彼は剣術と禅により得た無我の境地を全身に染み込ませていた。


「世間に始終ありがちの困難が、一々頭脳に徹えるやうでは、とても大事業は出来ない。ここは支那流儀に平気で澄まし込むだけの余裕がなくてはいけない。さう一生懸命になつては、とても根気が続かん」

という言葉を後に勝は残している。


長崎では幕臣の勝らが長崎へ来たことを訝しんだ長州藩士たちが、彼のもとを訪れた。龍馬たちは警戒していたが、勝は長州藩が行う攘夷の無謀さを時間をかけて説き、やがて彼らは恥じ入った様子で帰っていった。


3月24日、オランダ艦長と領事が勝のもとを訪れた。この時に

「アジアの中で日本の称されるべきところは国人どうしで争わぬところにある」

といわれ、勝は「頭上の一針」と感想を述べている。


アジアでは欧米列強の侵略を前に国内で争いが起き、そこに付け込まれた国が多い。日本にはそれがないというが、実際は国内では開国派と攘夷派、佐幕派と倒幕派と分かれて対立を深めている。いつ全面的に衝突してもおかしくない状況であり、勝にはその言葉が皮肉にしか聞こえなかった。


勝は他の外国の要人たちとも会い交渉を続けた。かねてより面識のある者も多く、長州への攻撃の延期の約束を取り付けることに成功した。


勝が京へ戻ると、彼が期待を寄せていた参与会議は解散していた。幕府側の一橋慶喜が横浜鎖港を主張して譲らず、他の諸侯の反発をかって議論は長引き、皆呆れて京から帰ってしまったのだという。それこそが慶喜の狙いであった。彼は幕府の実権を強めるためには参与会議など解散するべきだと考えており、あえてその結果になるように振る舞ったのである。


「愚かなことだ」

勝は吐き捨てるようにいった。幕府は自らの体面しか頭になく、日本としてどう進むべきかということを考えていない。公よりも私を優先している、そのことが勝には許せなかった。


4月13日、幕府若年寄りの稲葉正己に呼び出された勝は砲台設置に関する相談を受けた。

「砲台など築いても敵からの的を作るのと同じことです。なんなら私は今ある砲台すら取り壊したいくらいです。それならば一隻でも多く蒸気船を買われるべきです。海軍の建設こそ一番の急務であるというのに、なぜそんなことにお金を使われるのですか?」


勝は翌日も二条城にて閣僚たちを相手に、幕府の方針を批判し続けた。もはや職を解かれても構わないと思っている。腐りきった幕府のもとでは地位を得て何になるものか、と勝は若干やけになり始めていた。


それでも勝は職を解かれるどころか、5月になって軍艦奉行に任じられた。この時から勝は安房守を名乗ることになる。


同じ5月に海軍操練所の人員募集の布告が出された。参与会議の解散により、幕府と諸藩による挙国一致という方向も見出せなくなった勝にとっての希望は、この海軍操練所だけであった。


彼は「一大共有之海局」という言葉を使っているが、幕府だけではなく諸藩の持っている船やその人材もここに集め、幕府だけが軍備を持っているという状態を打破しようと考えていた。また過激な尊王攘夷派の志士たちをここに集め、彼らの持て余したエネルギーを無謀な攘夷ではなく海軍の建設に向かわせようという思惑もあった。


5月末、勝は外国艦隊が長州藩への攻撃をいつ始めるか等を調べるように命じられて神奈川に向かい、旧知の仲の外国人たちとの話し合いを進める中で、彼らが幕府の横浜鎖港の方針に反発していることを知った。江戸に戻った勝は、老中板倉勝静に対して横浜鎖港の愚かさをなじった。


時勢は混沌としている。


6月に京の池田屋にて、長州藩の過激派浪士たちが巻き返しのためのクーデターを企んでいたところを新選組が襲撃した。池田屋にいた多くの者が斬られ、長州藩は幕府への恨みをより強めることとなる。


7月には勝の師であり妹婿でもある佐久間象山が過激な攘夷派により暗殺された。

「佐久間象山は蓋世の英雄であり、その考えは高らかで正しかった。これから俺は誰に国事を相談すればいいんだ」

勝は天に向かって嘆いた。


同月にかつて勝の護衛を務めていた岡田以蔵が土佐藩により捕らえて死罪となった。幕府寄りの大名である土佐藩主山内容堂は以蔵が属していた土佐勤王党の攘夷のための行動を憎んでおり、その弾圧を始めていた。人斬りとして反対派から恐れられた以蔵も例外ではなかった。


「お前たちは命を無駄にするんじゃねえぞ」

勝は龍馬たち海軍操練所の塾生たちに強く告げた。

「人を殺したり自分が死んだり、そんなことで世の中はよくならねえんだ。命を粗末にするもんじゃねえ」

勝は珍しく悲しげな目をしている。


7月19日には政権の奪回を狙う長州藩勢力が武力をもって京都御所に押し入り、幕府や会津藩、薩摩藩により撃退された。京の街は多くが焼け、長州藩士たちは散り散りになって逃げていった。



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