蘭学修行
本所亀沢町に破天荒で知られる男がいる。名を勝小吉といった。
彼は旗本の家柄ではあるが、そうはいっても下級であり祿高も決して高くはない。旗本男谷家の当主男谷平蔵が勝家の株を買い取って小吉を養子とした。
平蔵の父は越後小千谷出身の盲人であり、江戸へ来てから旗本男谷家の株を買い取った。つまり小吉の家は古くからの幕臣ではない。
小吉は子供の頃から学問が苦手であり、また生まれつき身分が低いと出世できない世の仕組みを激しく憎んでいた。彼からすれば、幕臣の中で高い地位にあってふんぞり返っている者たちは、先祖に功があったに過ぎないのである。
そんな捻くれ者の彼は、14歳にして家を出奔して全国を渡り歩いた。危険が伴うとはいえ死んでしまえばそれはそれという覚悟があった。
やがて江戸に戻ったが、上に憚ることのできない性格からまともに職を得ることができず、町では騒ぎになるほどの喧嘩や道場破りを繰り返していた。そして21歳にして再び出奔したがすぐに江戸に連れ戻された。
父の平蔵は呆れて彼を座敷牢に閉じ込めた。その座敷牢の中で、小吉は妻お信との間に男の子を授かった。名を麟太郎と名付けた。
麟太郎は9歳の時、道で狂犬に噛みつかれるという災難にあった。金玉が食い破られるほどの大怪我であり、医者は命は助からないかもしれないという。
麟太郎が布団の中で項垂れていると、小吉が彼を叱りつけた。
「しっかりしやがれ、人間生きたいと願っていたらそう簡単には死なねえよ。だから辛気臭い面すんじゃねえ」
小吉のその一言で麟太郎は気をしっかりと持ち直した。やがて別の医者が傷口を縫うことになったが、その医者は手先を震わせている。
それを見た小吉は刀を抜いて麟太郎の顔の側に立て置いた。麻酔薬もなく激痛が走ったが、麟太郎は泣かなかった。
その後麟太郎の様子は芳しくなく、命が助かるか分からない状況が続いた。そんな中で小吉は、毎晩水を浴びて近所の金比羅神社へ裸参りをして祈った。そして一人きりで麟太郎の看病をし続けた。その甲斐もあってか、70日ほどして麟太郎は快方に向かった。
麟太郎は将軍徳川家定の弟である初之丞君の小姓役を務め、七歳から江戸城に上がっていた。やがて初之丞君が御三卿の一橋家を継いで一橋慶昌と名乗り、そのもとで出世する道が開けた。将軍家定が病身であったため慶昌が将軍職を継ぐことも考えられたのである。
しかし天保9年(1838年)、その慶昌が病のために亡くなった。それにより麟太郎も16歳で江戸城から下がることになった。とはいえ、幼少の頃に政治の中枢である江戸城で暮らしたことは勝麟太郎、後の勝海舟にとっての財産となったはずである。
江戸城を下がった麟太郎は家督を譲られ、それからは剣術に励んだ。江戸で評判の島田虎之助の道場に泊まり込んだ彼は、道場での稽古を終えると夕方から稽古衣一枚で王子権現まで行き夜稽古をした。稽古といっても剣を振るだけではない。まず拝殿の礎石に腰掛けて瞑目し、それから木剣を振る。それを夜明けまで五、六回繰り返し、道場に帰るとすぐに朝稽古をやった。これを毎日繰り返していたという。
また師匠の島田は麟太郎に、「剣術の奥意を極めるには、まづ禅学を始めよ」と説いた。それを聞いた勝は19の頃から約4年間、牛島の弘福寺に通って禅学に打ち込んだ。
誰もが座していても、さまざまな思考をして心はどこかにいってしまう。そしてその度に和尚が不意に棒で肩を叩く。それをされると皆驚いて転げてしまい、麟太郎もその一人であった。だが修行を積む中で彼は、同じように肩を叩かれても動じないまでに成長した。
麟太郎は後にこう述べている。
「座禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の境を出入して、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった」
瓦解の時分とは幕府が倒れる時期という意味で、勝はその間に何度も命の危機にあった。その中で大事業を成したわけだが、彼は「いつもまづ勝敗の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した」のであり、それは「剣術と禅学の二道より得来つた賜」なのだという。
島田は麟太郎に蘭学をも進めている。当時は欧米列強の船が各地の沿岸に現れて、日本は国防上の危機に直面していた。麟太郎は城中でオランダから献納された大砲を目にして関心を抱き、砲身の横文字が読みたくなったのだともいわれる。
麟太郎は幕府天文方翻訳員であった箕作阮甫に入門を断られ、永井青崖に蘭学を教わった。これが弘化2年(1845年)、麟太郎23歳の時である。
この年に麟太郎は、質屋の娘たみを娶っている。父小吉の借金を背負っていた当時の彼らの暮らしはあまりに貧しかった。夏には蚊帳がなくて冬には布団がなく、柱を削って飯を炊いていた。
そんな中でも彼は蘭学修行への情熱を失わなかった。しかし彼の暮らしでは辞書を買うことができない。彼は辞書を所持する医者のもとへ行き、損料を払う約束のもとでそれを借りることに成功した。彼はそれを筆写したが損料を払う金がなかったため、もう一組写本を作ってそれを売ることで損料を払いきった。
麟太郎の蘭学修行の最大の目的は兵学を知ることにあった。ある日彼は本屋で新刊の兵書を見つけたが、値段が高くて買うことができなかった。しかし喉から手が出るほどに欲しい彼はなんとか金を集めて本屋へ行ったが、すでに売られてしまっていた。買った人を聞くと四ツ谷大番町に住む与力だという。
彼はその与力の家に行って本を譲るか貸してほしいと頼んだが、承諾はもらえなかった。
「ならばあなたが寝てしまった後にこちらへ伺います。それならば構いませんか?」
と言うと与力はその執念深さに驚きつつも、
「四ッ時(午後10時)より後であれば構いません。ただし家から持ち出されては困ります」
と返答した。
それから麟太郎は半年かけて与力の家に通い、その本を写し取ってしまった。しまいには与力の方が感心して、その本はやはり差し上げるという。麟太郎はもう写したからと固辞したが、それでも貰えることになり、やがて写本の方を売って金にした。
麟太郎は嘉七という男の書物屋に通って並んである書物を読むようにしていた。この店で彼は北海道の商人である渋田利右衛門という男に出会い、意気投合した。利右衛門は麟太郎の家に来て話をして、帰り際に懐から二百両を取り出し
「これは僅かだが、書物でも買ってくれ」
と言った。麟太郎が驚いていると、
「遠慮なさらないでください。これくらいの金ならあなたに差し上げなかったとしても、意味もなく使ってしまうだけです。それよりはあなたが珍しい書物を買ってお読みになって、その後を私に送ってくださったらその方がよいというものです」
と言ってその二百両を置いていってしまった。
その後も麟太郎は利右衛門の経済的援助を受けた。それにより彼の学問はさらに進んでいった。
オランダ語を学んだことで麟太郎は兵学に限らず、外国の知識を吸収する術を得た。尊王攘夷が叫ばれる時代にあって、彼は開明的な思想を持ちそれをかたちにしていくが、その土台は蘭学修行により得た知識であったといえる。
彼は自ら国防上の危機を感じて蘭学から兵学を学ぼうと思い立ち、驚くまでの情熱でそれを実行した。彼は当時の幕藩体制によりがんじがらめとなっていた日本における、初めての近代人といえるかもしれない。
嘉永三年(1853年)、父小吉は病気のために亡くなった。享年49であり、好き勝手に生きた痛快な人生であった。同じ歳に麟太郎は赤坂田町に氷解塾という蘭学塾を開いた。
当時外国船に備えて軍備を固めようという藩も多く、彼は諸藩から鉄砲、大砲の製作や砲台の設計の依頼を受けた。彼は野戦砲の製作を依頼された際には、鋳物師に造らせていた。
しかしある藩の依頼で野戦砲を3つ造ることになった際、その鋳物師が麟太郎に六百両を手渡し、
「これで手抜きを見逃してほしい」
という。鋳物師は圧銅の量をごまかしており、他の麟太郎以外からの依頼時にも同じようにお金を包んでいた。それに対し勝は激怒し、
「その金で圧胴の分量を増やしてより良い大砲を造れ。設計者である俺の名前を汚すようなことをするんじゃない」
と厳しく言い渡した。この話が知れ渡って幕府の重職であった大久保忠寛の耳に入り、それが後に麟太郎が幕府での任を与えられる契機の一つとなった。
彼が蘭学塾を開いたその年に、幕府により追われていた高野長英が訪ねてきた。蘭学者である高野長英は幕府による異国船打払令、海禁政策を批判して捕らえられたが、獄を脱してその後は潜伏を続けた。酸で顔を焼いて人相を変えて江戸に潜入している。
「勝殿、勝手は承知ながら私を匿っては頂けないか?」
長英は深々と頭を下げて頼みこんだ。
「私は幕臣です。その義があるため匿うことはできません。申し訳ない。しかしあなたのことは誰にも話しません」
「やむを得ません。無理を申しました」
それから2人は時事を論じた。そして帰り際に、長英は自分で筆写した荻生徂徠の「軍法不審」を麟太郎に手渡した。
「私はこの先どうなるか分かりません。しかし勝殿、あなたはこれから世に出られるお方だ。これが少しでも役にたてば幸いです」
「ありがたい限りです。高野殿が望まれる世が早く来ることを望むばかりです」
「この国はまだ眠りから醒めていない。しかしいつ外国がこの国を獲ろうと攻めてくるか分からない。もはや身分に囚われている場合ではない。勝殿のような方が学問を活かし世を変えていかれませ」
1ヶ月後、高野長英は幕吏に追い詰められ喉を突いて自殺した。まだ時代が成熟しておらず、彼の思想は危険思想ととらえられた。生まれるのが早すぎたといえる。




