三本足の烏を助けたら、家に棲み着きました
――それは、私にとって運命の出会いだった。
月の見えない晩。ため息を吐きながら、私は帰り道を一人歩いていた。
ひんやりとした夜風に、人っ子一人いない。
どの家も灯りは消され、錆びれた街灯の灯りだけがぼんやりとあたりを照らしている。
不意に、持っていたスマホの画面が明るくなった。
もう、日付が変わりそうだ――
「はぁ……」
また、ため息を吐いてしまった。
大したものは入っていないはずなのに、肩に掛けたショルダーバッグがずっしりと重い。肩こりが治らないはずだ。
浮腫んだ足に、ローヒールのパンプスがきつい。お腹も空いたし、早くお風呂にも入りたい。でも、帰ったらすぐに眠りたいくらいにヘトヘトだ。
(まだ、水曜なのになぁ……)
私は、残業続きの日々に疲れ果てていた。
明日からも、この代わり映えのしない毎日が続くのかと思うと、ため息しか出てこない。
ふわりと、微かに臭う。
視線を向けると、ゴミ捨て場だった。どんなに綺麗に片付けられていても、いつも何故か少しだけ臭うのだ。
「……ん?」
そのとき、通り過ぎようとしていたゴミ捨て場の陰に黒い何かが蠢いて、私は足を止めた。
(黒猫……?)
私は屈むと目を凝らした。
それは、一羽の烏だった。
「うわ……」
黒光りする瞳と間近で目を合わせてしまった私は、思わず尻餅をつく。
(怖……)
それが、正直な気持ちだった。
意外と大きな体に、黒光りする羽と瞳。薄暗がりにいるせいで、その姿が余計に不気味に見えた。
(ツイてないなぁ……早く帰ろう……)
立ち上がって帰ろうとした時だった。
烏が小さく鳴いたのだ。ひどく、弱々しい声で――
私は、思わず烏に手を伸ばしていた。
理由はわからない。
けれど、私はその烏を抱えると、家へと急いでいた。
◆
「飲める……?」
そう問い掛けると、烏は黙って私を見上げた。
こうして見ると、つぶらな瞳が可愛く見えてくる。
烏の前に置いている器には、水を入れている。ちなみに、水道水でもミネラルウォーターでもない。
「それ、美味しいでしょ? 湧き水なんだよ」
笑いかけると、烏は私をじっと見上げてから、再び水に嘴を付けた。
烏を眺めながら、私もグラスの湧き水を口にする。普段飲んでいるミネラルウォーターと違って、ほんのりと甘く、喉越しが柔らかい。
また、週末に神社にお参りに行こう。決して湧き水だけが目当てではない――はずだ。
「怪我はしてないみたいだね。カラスさん」
話し掛けても、もちろん烏から返事は無い。
けれど、話しかける度に私を見つめ返してくれるので、つい話しかけてしまう。
「それにしても……あなた、足が三本あるんだね」
ラグに膝を抱えて座ると、烏がちらりと私を見た。
突然変異だろうか。気づいた時はぎょっとしたが、不思議と怖くはなかった。
(すごく大人しいよね……)
烏は、大きめの段ボール箱の中に敷いたバスタオルの上で静かに休んでいる。
今まで見てきた烏とはどこか違う気がして、少しだけ胸がざわめいた。
「早く元気になりますように」
私は烏にそう話しかけると、ベッドに潜り込んだ。
◆
翌朝、目が覚めると十時を回っていた。
(どうしよう……?!)
大慌てで、私は職場へと電話をかける。
「え……? 休んで良いって、どういうことですか?」
今朝、私の携帯から、体調不良だから休ませて欲しいと連絡があったそうだ。確かに発信履歴が残っているが、記憶は全くなかった。
(寝ぼけながら、休むって電話したってこと……?)
自分が恐ろしい。
それでも、休めることになったから結果的に良かったのか――
傍らでは、いつから目覚めていたのか、烏が私を見上げていた。
「ご飯にしようか」
そう声をかけると、つぶらな瞳が煌めいた。
でも、烏って何を食べるのだろうか。確か、雑食だと聞いたことがあるが――
白米を冷ましてから差し出すと、烏は静かに啄んだ。
私も烏の傍らに座り、遅い朝食にありついた。
◆
烏が来て三日が経った。
(彼氏なんて、いないのになぁ……)
職場で、何故か私に『彼氏ができた』と噂になっている。すぐに否定したが、「隠さなくて良いから」と言われる始末だ。
羨ましがる後輩と、面白くなさそうにしていた同僚や先輩たちの顔が浮かぶ。
連れ立って歩くような男友達はいないし、身に覚えは全くないのに――そう思いながら黒い羽を撫でると、烏は気持ちよさそうに目を細めた。
ゴミ捨て場で弱っていたのが嘘のように、烏は元気になっていた。といっても、相変わらず段ボールの中で大人しくしている。
(水浴び? とかさせたほうが良いのかな……)
“烏の行水”という言葉がある。
連れ帰ったときから衛生面が気になってはいたが、烏は無臭だった。顔を近づけて嗅いだわけではないが、不潔な感じは少しも感じられない。
夜道では不気味に黒光りしているように見えた体は、美しい艶のある漆黒だ。
烏は、私を見上げて小首を傾げた。
「……水浴び、する?」
そう問い掛けると、烏は段ボールからふわりと飛んで出てきた。一瞬だけ、翼を広げた烏の大きさに圧倒される。
「こっちだよ」と声を掛けると、トコトコとついてくる。その姿がとても愛らしく、キュンとした。
(頭が良いって聞くけど、本当だ……)
漬け置き用のカゴを洗って水を張ると、烏はそこへ入って体を浸した。
静かに水に浸かる様子に、私は思わず声をかけた。
「バシャバシャしないの?」
私の言葉に一瞬だけ固まった烏は、少しだけ翼を広げ水へ浸けた。バシャバシャするには、このカゴは狭いようだ。
「気持ち良い?」
そう問いかけると、瞼を閉じた烏は頷いたように見えた。
随分と物分かりと行儀の良い烏だ――私はそう思っていた。
◆
烏を助けてから、九日が経った。
今日は待ちに待った金曜の夜。私と烏の不思議な生活は続いていた。
元気に羽ばたいていくことを期待してベランダに段ボールごと出すも、烏は出ていこうとしなかったのだ。
(もう、寝てるかな……)
私は帰りのバスを待ちながら、段ボールの中で眠る烏の姿を思い浮かべた。
明日は、湧き水をもらいに神社へ行こう。一緒に行けたら良いのに――
烏は今や、まるで私の愛鳥のような存在になっていた。
「お姉さん、一杯どうですか」
そのとき、突然に声をかけてきたのは、スーツ姿の男だった。正確に言うと、酔っぱらったサラリーマンだ。
(最悪……)
聞こえないふりをしていると、顔を覗き込まれる。
「無視しないでくださいよー」
思わず後退ると、手首を掴まれた。
そのとき、私と男の間に黒い影が差し込んだ――
「痛……っ!」
背の高い若者が、酔っ払いの手首を捻り上げた。瞬間、軽々と持ち上げられた酔っ払いの体に、私は目を見張る。
助けてくれた彼はすらりとした体だが、相当な腕力の持ち主のようだ。
(誰……?)
「二度と近付くな」
放たれた低い声。
地面に降ろされた酔っぱらいは、「何だよ、彼氏かよー」とぼやきながら姿を消した。
(彼氏……)
その青年の横顔を見つめる。
ものすごいイケメン――というか、美形だ。少し無造作な黒髪のショートヘアがよく似合っている。
こんな彼氏がいたら、どんなに素敵だろうか――そんな馬鹿げた考えが頭をちらついた。
「あの……助けていただいて、ありがとうございました」
そう言って頭を下げると、酔っぱらいを目で追っていた彼がこちらを向いた。
(うわぁ……すごく綺麗な顔……)
切れ長の漆黒の瞳に、私は息を呑んだ。
とても同じ人間とは思えない。
端正で凛々しい顔立ちに、思わず見惚れてしまった。
「礼を言うのは、こちらだ」
「えっ……?」
深く腰を折った彼に、思わず抜けた声を出してしまった。
「私、何もしてませんけど」
そう返すと、彼は微かに微笑んだ。
「湧き水、とても美味しかった」
「おかげで助かった」と言ってきた彼に、思わず私は大声をあげてしまった。
まさか――
「……カラス、さんなの?」
「ああ」と無表情で答えた彼が、私が肩から落としかけたショルダーバッグを掴む。
「さぁ、帰ろう」
(これ、夢よね……?)
目の前には、私のショルダーバッグを持って立っている彼。
ちょうどやって来たバスに、私たちは一緒に飛び乗った。
夜景がちらつく真っ暗な窓硝子に、彼の横顔が映っている。服装は、黒いジャケットに黒いパンツで黒ずくめなのに、不思議と清潔感に溢れていた。その見た目だけで、良い匂いが漂ってきそうな気配さえする。
(これは夢だわ。リアルすぎるけど)
これが夢でなくて何なのだろうか。
仕事で心が疲弊して、こんな夢まで見るようになってしまったのか――そう考えていると、最寄りのバス停に到着した。
夜風が少し冷たい。
月明かりに照らされる夜道を、二人で歩いた。
(やけに長い夢……夢って、こんな感じだっけ?)
「ここで、助けてもらった」
ゴミ捨て場の前を通りながら、彼がしみじみ呟く。
こんな夢を見る自分が、怖いというよりも、もはや恥ずかしかった。こんな空想癖があったのかと――
そして、家に帰った私を待っていたのは、空っぽの段ボール箱だった。
(カラス……)
段ボール箱には、今朝変えたばかりのバスタオルだけが敷かれている。
胸にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。これは、夢だというのに――
「炊けたぞ」
低い声が落ちた。
私たちの帰る時間に合わせたかのように、炊飯器の音が鳴っている。
(……これって……まさか、現実なの……?)
私は、部屋に立つ彼をまじまじと見つめた。
彼はただ、無表情に私を見つめ返している。
「……あなたが、炊いてくれたの?」
そう問い掛けると、彼は静かに頷いた。
私が炊飯器を使っているのを見て、彼は炊き方を覚えたのだという。
(そういえば……)
「先週、職場に休むって連絡したのって、もしかしてあなたが……?」
頷いた彼は、「貴女は……疲れていただろう」と一言言った、どこか気遣うような眼差しに、胸の奥が熱くなる。
(もしかして、“彼氏”って――)
「あの……彼氏って、名乗ったりした?」
恐る恐るそう聞くと、彼は無表情のまま否定した。
「名乗ってはいない」
ああ。何となく想像がついた。
まぁ、こんな美男子が彼氏だと誤解されるのは、とても悪くない気分ではある。
「……どこで、寝るつもりなの?」
そう聞くと、彼は少し不思議そうな顔をした。
「私の寝床は、ここだ」
段ボール箱の中で膝を抱えて小さくなった彼に、私は思わず吹き出した。
彼は、少しだけ恥ずかしそうな顔で瞼を伏せると、一瞬で烏の姿へと戻る。
「あなたは……何者なの?」
屈んだ私は、つぶらな瞳で私を見上げる烏に問いかけた。
「八咫烏だ」
「やたがらす……」
私は、低い声で喋る烏を呆けたように見つめた。
「帰る家は……?」
「色々あって……出てきた」
「しばらく、ここに置いてもらえないか」と聞いてきた烏に、私は二つ返事でOKした。
こうして、私と烏の不思議な同居生活は続くことになった。
それから、どんなに仕事が遅くなっても、前ほど苦痛ではなくなった。
それは、家に烏がいるからだろうか――
今日も、三本足の烏は私の帰りを待っている。
― 終 ―
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