6.殿下が! ご挨拶を!?
新年の祝祭以降、大きな問題が起こることはなく、されとて平穏無事というわけでもなく、といった案配で、まあ色々と、様々に、紆余曲折。
なんやかんやあったものの、一年を過ぎて貴族学院への入学を控える頃には、殿下の態度は劇的に向上されていた。
少なくともいきなり物を投げつけたりはしなくなったし、癇癪を起こして部屋を出ていってしまうようなことも少なくなった。
まあ、公の場に限る、という注釈は付きますけれども。
「いやはや。殿下のご成長には目を見張りますな」
王子妃教育を受けに登城したある日。
殿下の教育係を兼任されるシレー子爵が、授業を終えて廊下に出たところでニコニコと嬉しげに笑った。例の、作家たちを囲い混んで殿下専用の本を作らせていると言う男だ。
ひょろりと細身の体をした、パッと見では気弱そうな顔をした眼鏡のこの人が、あんな大胆なことをしたというのを最初は意外に思ったが、なかなかどうして。
わたくしに対しては「おお、ヒーデル侯爵令嬢は優秀でいらっしゃる」と手放しで褒めたかと思うと、ではこれもやってみましょう、これも理解できるでしょう、と遠慮なしにアレやコレやと課題を出してくるスパルタだった。
異例の若さで殿下の教育係に就任されてから、今のところ最長で職を維持なさっているだけのことはある。
そのシレー子爵は、感慨深げに続ける。
「正直、殿下に婚約者だなんて、まだ早いと思っていたのですがね」
「どのような意味で、でしょうか?」
「普通のご令嬢ではまずやっていけないからですね。以前の殿下にはまだ、相手を尊重するという情緒が足りておりませんでしたから」
シレー子爵はきっぱり言った。
それはまあ、そう。
まあ今だって、尊重できているかと言えばまったくそんなことはございませんけれども、エスコートの手すら拒んでひっ叩こうとなさいましたものね。同じ年頃のご令嬢方であれば泣き出してもおかしくない。
それを思えば、式典の際に嫌々ながらも腕を差し出してくださるようになったのだから、大きな変化ですわ。
わたくしまで感慨に浸りそうになっていると、シレー子爵は元々細い目を更に糸のようにすると、小さく笑った。
「意にそぐわぬ婚約で、かえって頑なになられるのではと思いましたが、善き方向に向かわれているようで何よりのことでございますな。ご令嬢のご人徳のなされるところでありましょう」
その言葉に、わたくしは即応せずにまずはにこりと微笑んだ。
褒めているようにも聞こえるが、先程からの流れとあわせて同時にわたくしが「普通ではない」という揶揄と「殿下をうまく制御されていますね。もしかして意のままに出来ると思われてます?」という刺を暗に含んでいる。
彼は貴族の言い回しについての訓練をこうして時々に挟んで来るから厄介だ。
「いえ、殿下ご自身の努力の賜物でございますわ。わたくしはあくまで婚約者として微力を尽くしているに過ぎません」
まずは殿下を立てるのは当然として、わたくしはあくまで補佐であるという立場を強調する。
実際は叱るわ煽るわ殿下に対してやりたい放題しているが、それはそれ。実情についてはシレー子爵もよくよくご存知のことだから、あくまで貴族的な探りあいをかわすための訓練としての言葉を探す。
「殿下は寛大でいらっしゃるから、わたくしのようなふつつかな令嬢のお小言も、婚約者であるからと許してくださっておりますの」
わたくしは普通の令嬢では出来ないことを果たすために婚約者をしているのですわ。何か文句ありまして? とは流石に付け加えなかったが、代わりににっこりと笑みに力を込める。
すると、シレー子爵は「まあ及第点ですかね」と楽しげに言った。
「ちょっとご令嬢としては強すぎる気もしますが、まあそのくらいでなければ、殿下の婚約者役は勤まらぬでしょうねえ」
「ありがとうございます」
にっこりと笑みの種類を変えたシレー子爵に、わたくしも肩の力を抜きつつ、視線をその細い目の内側を覗き込んだ。
「ですが、殿下は確かに寛大になられたと思いますわ。先生がその証左ではございませんこと?」
これまで殿下の教育係は数日ともたないで去って行ったと聞いている。そんな中で貴方はずいぶん長く続いていますものね。どうやって取り入りましたの? と。意趣返しとしてチクリと嫌味を口にすると、シレー子爵は「んふ」と息を漏らすような笑い方をする。
「いやまったく、普通の令嬢ではこうはいかんでしょうなあ」
楽しげな声が言って、シレー子爵はその手に抱えていた本の表紙を軽く撫でた。新作なのだろうか、微かに新しい革の匂いがするそれを見ながら、子爵は続ける。
「私はただの教育者として分をわきまえているだけですよ。殿下はご自身を害さないものをわざわざ構いだてはなさりませんから」
その言葉には、疑問半分納得半分で曖昧に笑った。
トリアンリート殿下は直情型で気に入らないことがあるとすぐに不機嫌になり、少なくなったとは言え癇癪を起こすと手が付けられない暴れ方をされる。
が、確かに気に入らない人間に嫌がらせをしたりはなさらないし、多少の粗相程度では別に目くじらを立てたりはしない。
なんのかんのとわたくしのお小言も「生意気な」「うるさい」と怒鳴り散らすことはあっても、黙っている時にわざわざ喧嘩を売って来られるようなことはない。
「少なくとも先生よりは素直でわかりやすい方ですわね」
思わず言うと、子爵は「ふは」っと噴き出した。
「貴方ったら、本当に……んふっ、素晴らしい逸材ですね、ははっ。はぁ……できれば、役を離れて真に婚約者になっていただけるのが一番なのですが、いかがですか」
「…………はあ」
笑いに声を詰まらせながら、シレー子爵は爬虫類のような薄い目をわたくしに向けられた。
そんなことを言われましてもね。なんとも返答しかねていると、カツカツと後方から靴音が近付いてくるのが聞こえてきた。
「何をしている」
刺々しい声は殿下のものだ。後ろで頭を下げる侍女や従者たちの様子から、公務を終えたところなのだろうとわかる。恐らく行き先はわたくしと同じだろう。
姿勢を正して静かに腰を落としながら、丁寧に頭を下げて淑女の礼を取る。
「ご機嫌麗しく存じます、殿下。王子妃教育の時間が終わりましたので、庭園へ向かうところですわ」
「私は新作があがりましたので、ヒーデル侯爵令嬢へお預けするところでした」
「……!」
その言葉に、殿下の目がきらりと光った。これは、わたくしの挨拶なんてもう頭から抜けていらっしゃいますわね。いつものようにお小言を口にしようと唇を開こうとしたその時だ。
「殿下」
シレー子爵がにこやかに笑みを浮かべたままでトリアンリート殿下を呼んだ。
「ご挨拶がまだでございますよ?」
わたくしは、彼のその態度にちょっと驚いた。
トリアンリート殿下がお小言を嫌うのは王宮内では常識だ。教育係たちが次々に解雇されたのはそれが原因だろうと皆察している。
それでなくても殿下は機嫌の悪さをすぐ態度にされる方なので、後ろ楯もなさそうな下位貴族の方なんてあっという間に「お前はクビだ!」と言われそうなものなのに、普段からこのような態度をされてらっしゃるのかしら?
内心でハラハラしていたが、殿下はむっと眉を寄せたが、ちらりと子爵の手の中にある本を見ると舌打ちに近い音をあげながらも、くるりと踵を翻してわたくしの方を見た。
「……ごきげんよう、ヴェリアルデ嬢」
面倒くさい、という意思を隠さぬ低く響く声だが、殿下はわたくしに向かって礼を取った。
殿下が! この流れで、挨拶を!?
わたくしが思わず目を丸くしたのを、殿下の後ろでシレー子爵が肩を小刻みに震わせながら見ていた。




