第16話「運命の分岐点」
「さぁ、どうするの? 土下座なら早くしなさいよね?」
70℃の熱湯に入れるはずがない――そう確信している翠玉は、ここぞとばかりに煽ってくる。
こいつほんと、性格悪いっていうか……なんか、よくSNSなどで流れてくる漫画の序盤でわからされる、当て馬みたいな奴だな……。
自分の思い描いていたことがことごとく打ち砕かれたせいで余裕がなくなっているのかもしれないが、なんだか滑稽だと思った。
「わかった、入ればいいんだな?」
「……えっ?」
俺が入る姿勢を見せると、翠玉はピタッと固まり、キョトンとしている表情を浮かべた。
そして、いったい何十人、入れるんだろうかというほどに大きな湯船に向かって歩き出すと――
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!? わかってるの!? 70℃なのよ!? あなたが普段入っている水温より30℃くらい高いのよ!?」
――熊の時と同じように、途端に慌て始める。
こういうところが小物に見えるんだよな。
というか、やはり小心者なのだろう。
ハッタリをかますだけで、いざとなったら余裕がなくなり、慌ててしまう。
権力や金が通じる相手ならいいが、そうじゃない相手にはめっぽう弱いタイプだ。
少なくとも、身近に本物というか、絶対に逆らっては駄目な存在がいる俺にとっては、翠玉なんて恐るるに足らなかった。
真莉愛さんだったらこういう時、自らの手で笑いながら放り込むぞ。
俺はそんなことを考えながら、熱湯へと足を入れる。
熱い――そして、痛い。
皮膚が焼かれるような感覚に襲われる。
だけど……耐えられないものではない。
「馬鹿なの!? 死ぬわよ!! 変な意地を張るのはやめなさい!」
熱湯に肩まで浸かった俺に対し、翠玉は提案した本人とは思えないほどに狼狽える。
「三十分、ちゃんと数えておけよ?」
「――っ。何こいつ、なんで平気なの……!? ほんと意味わかんない……!」
俺が時間を数えるように言うと、翠玉は得体の知れないものを見るような目で、俺を見てくる。
そんな彼女に対し、ストップウォッチを持った風麗が近寄った。
「あの手の人間は……自分のことなら……おとなしいけど……大切な人のためなら……どんな困難にも……立ち向かう……。だから……あの手の人間は……敵に回すと……厄介……」
「でも、これは気持ちでどうこうの問題じゃないでしょ!? ポチのことといい、本当に人間じゃないみたい……!」
「それは……わからない……。ただ……これ以上彼を……怒らせないほうが……いい……」
何やら、風麗が翠玉に小声で話しかけ、それに翠玉が怒鳴っている。
妹にだけは優しい女だったのに、本当に余裕がないようだ。
「駄目よ、危険因子なら徹底的に潰さないと……!」
「どうやって……?」
「それは……っ」
「私の見立てが……正しいなら……仁美でも……勝てない……。今ならまだ……間に合う……。ここが、潮時……」
「既に事を構えているっていうのに……!?」
「雛の写真の件……あの子たちが……お姉ちゃんからの評価を……上げたくて……先走って……やったことは……話せば……わかってくれる……」
「信じるわけがないでしょ……!?」
「そう、かもね……。でも、写真を消せば……まだ交渉は……できる……。交渉は、私がする……」
「…………」
翠玉の怒鳴り声だけしか聞き取れないが、彼女が言っている内容的に、もしかしたら、風麗がいいように言いくるめようとしてくれているのかもしれない。
彼女も雛の写真は消したいはずなので、そこの利害は一致しているはずだし。
まぁ、写真を消したところで終わらせる気はないんだが。
「――愛真君、時間……」
翠玉が黙りきってからただ時間が経つことを待っていると、風麗が三十分経った旨を伝えてきた。
「一応、ストップウォッチを見せてもらっていいか?」
「んっ……」
画面を確認してみると、カウントは三十分を過ぎていた。
考えすぎだったが、三十分が来る前に言ってきていて、熱湯から出たら『三十分経ってませんでした~』ということは、されずに済んだようだ。
「よしっ……それじゃあ、これで約束通り写真を消せよ?」
俺は熱湯から出て、燃えるように熱い体を我慢しながら、翠玉に指示した。
しかし――彼女は黙り込んでしまうだけで、何も言わないし、動こうともしない。
「お姉ちゃん……」
「まだ、終わってないわよ……」
どうやら、翠玉は約束を違えるつもりのようだ。
まぁあの翠玉が、これで終わらせるはずがないとは思っていたが、風麗の説得を無視するとはな……。
もう引くに引けなくなっているのだろう。
プライドが高いというのもあるし、何より今までこういう追い詰められる事態に陥ったことがないはず。
だからこそ、こういう時どう引けばいいのか、わからないのだ。
少なくとも、既に雛の下着姿を写真に納めてしまっているので、俺の怒りを抑えられないと考えているだろうし。
こうなっては、実力行使しか――と言いたいところだが、俺のほうが先に痺れを切らしては駄目だ。
白雪さんの忠告を無視するとしたら、それは翠玉が試練というのをなかったことにし、本当の武力行使に出た時のみだと思っている。
そっちのほうが、やりすぎた時に俺の良心も痛まない。
とりあえず、翠玉のお遊びに付き合ってやるか――と、構えている時だった。
「――ふふ、面白そうなことしてるじゃない、英斗君?」
金色の髪と白色の髪を、頭の中心で左右に分かれるようにして生やしている、二十代くらいの女性が大浴場に入ってきたのは。
直後、翠玉と風麗が怯えるように顔を真っ青にし、ガチッと石のように固まってしまった。
「面白そうなことに見えますか、真莉愛さん? ……真莉愛さん!?」
体の熱のせいもあるが、それ以上に翠玉のことで頭がいっぱいになっていた俺は、見知った女性の登場に、頭の理解が翠玉たちより遅れてしまった。
二度見する俺を可笑しそうに見つめて、真莉愛さんは口元を緩める。
「英斗君が遊びに来てるって連絡が入ったから、予定を切り上げて帰ってきたんだけど~、本当に来てるとはね~。おかげで、私の昔から立ててた計画がぶっとんじゃったんだけど~、どういうことか、説明してくれるわよね~?」
そう間延びした口調で話す、真莉愛さん。
これは、彼女が半ギレしている時になる口調だ。
そんな彼女が向ける視線は――俺ではなく、翠玉と風麗だった。







