星空に告白
エリシアの頭をスパンと叩くと、小気味良い音が暗闇に響いた。小さな手から落ちた携帯食料を砂に塗れる前に掬い上げる。
「いたーい! 何すんの!」
「無駄にすんな、馬鹿が!」
「またバカって言った! なんだよぉ! 昼間はお兄ちゃんの言うとおり、邪魔にならないように大人しくしてあげてたのに!」
お兄ちゃんには感謝の気持ちってものがないの!? なんて耳を疑う発言をするから心底呆れる。
「次に落としたらもうやらないからな」
「いらないもん。ボソボソして気持ち悪い。そんなの食べるなんて信じらんない!」
「そうかよ。じゃあ勝手にしろ。空腹で苦しんでも知らねぇぞ」
「そんな臭いもの、食べるなら死んだ方がましだね」
無表情で言い捨てるエリシアの表情は、どこか大人びて見えた。無理やり口に入れてやる義理もない。勝手に苦しめ。
昼の暑さが嘘のように、夜の砂漠は寒さが厳しくなる。木に背中を預けたまま体を縮こまらせて外套の中に蹲った。
やっと目を瞑ったというのに、膝の上に重みを感じて目を開ける。エリシアの金の髪が顎下を擽った。
「んだよ……」
「寒いから〜」
「離れろ」
「いーや」
押し退ける気持ちにならなかったのは、凍えるような寒さにエリシアの体温が身に染みたから。
息を吐くと、エリシアが呟くように言った。
「他人とくっつくと温かいんだね。知らなかったな」
哀れなガキだなと思う。事情は何も知らないけれど、親はいないと言っていたし、常識すら持ち合わせていない。
何よりざまぁないなと思うのは、何を考えたのかこんな場所についてきていること。頭のネジでも一本抜け落ちているのか。
「黙って寝ろ」
そう言って目を閉じた。すぐに寝息を立て始めたエリシアを突き飛ばす気にならなかったのは、『他人とくっつくと温かい』。そう、俺も思ってしまったから。
二日目は初日より苛烈だった。狼型の魔獣に加え、空を飛ぶ魔獣が増える。剣での一撃が届かず、回復用に温存しておきたい魔力を使って攻撃しなければならなかった。
魔法は得意ではない。当たり前だ、一年前までは海で港を作る仕事をしていたのだから。自分が魔法で生き物を殺す生活をするなんて、想像もしていなかった。
エリシアが黙って後ろについてきている。砂嵐が酷くて視界が悪い。鳥型を相手にしているときに、狼型を注視してくれていて何度か命を救われた。
襲ってくる魔獣が疎らになり、ほとんど前に進めていないにも関わらず夜が来る。砂に剣を刺して膝をついた。
二日目で、この状況。どうせ砂漠を越えられずに死ぬくせに、どうしてこんなに頑張っているんだっけ。疲労でそれすらも考えられない。
「お兄ちゃん、くたくただね」
「…………」
「変なの。どうしてそこまでして魔王のところに行きたいんだろう」
知るか。そんなのこと、俺が知りたいよ。
干乾びて喉の奥が張り付く。呼吸をすると肺に激痛が走る。声は出なかった。
三日目も、二日目と同じで状況は好転しない。狼型と鳥型が襲いかかってくる。回復すら追いつかない。あぁ、もう死ぬんだ、と何度も思うのに、体がギリギリのところで耐えていた。
「そろそろ、お兄ちゃん死んじゃいそうだね」
夕陽の落ちた地平線を眺めながら、呆然と仰向けに倒れていたら、エリシアがクスクスと笑いながらそう言った。
顔の横にしゃがみ、俺の髪にかかっている砂を払っている。夜色に濁った瞳は暗く、薄く光るような金髪には似合わない。
何故か無傷のエリシア。今はもう、それについて深く考えることすらできない。
「……嫌なこと言うガキだな」
「だって、本当の事でしょ?」
本当の事だ。もう指先に力が入らない。きっと明日には死ぬ。この気味の悪いガキと一緒に。
完全に夕陽が沈むのと同時に意識を失うように眠りに落ちた。
夢を見ることすらなく次に意識が戻ると、視界いっぱいに星空があった。変わらぬ位置にエリシアが座っていて、ジッと見下ろしている。
「水、飲む?」
頷くと、エリシアが水の入った瓶を手渡してくる。上半身を起こすのを手伝ってくれて、生温い水を喉に流し込んだ。
「ねぇ、死ぬ前に教えてよ。どうして『勇者』なんてしてるの? お兄ちゃん、そんなタイプに見えないけど」
「どんなタイプだよ」
「勇者様って、あれでしょ。人類のために魔王を倒すっていう崇高な意志を持った人でしょ?」
エリシアの言葉を聞いて、乾いた笑いが溢れた。
死ぬ前に愚痴を言える相手がいる。完全な孤独ではなく、正体不明だし子供だけれど、エリシアがいる。そのことだけは唯一の幸運だったのかもしれない。
「そんなの、嘘だよ。信じる奴が馬鹿だ」
「どうして?」
「俺は、1年前……18歳の誕生日に王宮に呼ばれたんだ」
「……18……」
「同い年の男女が集められて、わけも分からないままに何か検査だの試験だのやらされて、勝手に適正を測られて」
そうして、大勢いた若者たちの中から二人が『合格』した。
貴方たちが勇者様です、と称えられたときの、王宮の人間たちの胡散臭い笑顔と拍手の音が今でも鮮明に蘇る。
戦士を紹介されたときの、何か可哀想なものを見る目が忘れられない。戦士は俺と、もう一人の勇者に言った。「お前たちが逃げたら、自分の家族が殺されると思いなさい」と。
「俺だって、どうしてこんなことをしてるかなんて、知らないよ。勝手に選ばれて、死地に送られただけだ。逃げたら家族を殺すぞと脅されて、外せない腕輪で監視されてる」
「家族を殺す……」
「俺ともう一人、勇者に選ばれた奴がいた。そいつは途中で逃げたんだ。こんなことやってられるかって、そして……」
全てを亡くしたそいつが、一緒に王宮に復讐しないかと誘ってきた。虚ろな目が怖くて、王宮の本気が怖くて、俺はその手を振り払って先を進んだ。戦士はやっぱり不憫そうな表情をしていた。
「戦士も、魔術師の女も。むかつく」
「どうして?」
「簡単に逃げやがって。そのくせ、俺のことを責めるんだ。酷い奴らだろ」
「酷いの? よく分かんない」
「酷いよ。ずるいし、最低な人間だ」
エリシアが少しだけ考えている素振りを見せてから、「あぁ」と呟いた。
「そっか。お兄ちゃんは逃げたいんだね? 逃げたいのに逃げられないから、逃げた奴らが羨ましいんだ」
俯いていた顔を上げてエリシアを見ると、無邪気な表情のままだから腹が立つ。血色の悪い青白い顔には、同情も憐憫も何もない。純粋な興味だけで、人の見たくもない心を暴いてくる。
「うるせーよ」
「あ。否定しないの? 当たっちゃった? なーんだ、結構分かってきちゃったかも」
「嫌なこと言うガキだな、本当に」
なんだ、簡単じゃん。と、エリシアは分かったような口を利く。
立てた膝の上に腕と顎を乗せて、低い位置にあるエリシアと目線を合わせた。
「お前は?」
「なに?」
「エリシアはどうしてここにいる?」
きょとんとした10歳ほどの子供の顔が、ふいに微笑んだ。意地悪な、大人びた表情にゾッとする。
「私は、砂漠の向こう側にある国から逃げてきたの」
「あ?」
「羨ましい? あー、でも、完全に逃げ延びたわけではなくて今も逃げている最中かな」
「何から逃げている?」
「家族から」
挑発的に口角を上げるエリシアに、急に嫌悪の気持ちが湧いてくる。そしてすぐにさっきのエリシアの言葉がリフレインした。
――逃げたいのに逃げられないから、逃げた奴らが羨ましいんだ。
そう、羨ましい。その通りだ。能天気なクソガキを妬む自分なんて、くだらない。
投げやりな溜め息を吐きながら思うのは、こいつが妙に常識が通じないのは砂漠の向こう側の人間だからかと気づく。
砂漠を介したあちらとこちらでは常識も、理屈も、何もかもが違うのかもしれない。
「お前、親はいないって言ってたじゃねーか」
「いないよ。あのオアシスにも、この砂漠にも親はいない。嘘じゃないよね?」
「可愛くねぇガキ。騙しやがったな」
「だからぁ、嘘はついてないもーん」
脱力してしまい、砂の上に仰向けに寝転んだ。星空が綺麗で、この光景は故郷の空と変わらない。
「で? どうして家族から逃げる?」
「え? あー、そうだなぁ。家族が美味しそうに食べるものが気持ち悪かったから」
「はぁ?」
「腐っていて、生臭くて、ドロドロした液体を飲みなさいって、毎日毎日言われるの。限界だったから、逃げたの」
「それだけ?」
くだらない、と口に出た。それを聞いたエリシアは吹き出して笑う。屈託なくて、俺の心ない言葉を許すような表情で。
「それだけ。でも、誰の悩みだって他人にとっては『それだけ?』って思うことなんじゃないかな。お兄ちゃんは家族を殺されないために悩んでいるんでしょ? それだって、私からすれば『それだけ? そんなこと?』だよ」
「それは……」
「死んでほしくない家族がいる。私にはお兄ちゃんが羨ましいかな。お互い、無い物ねだりだね」
エリシアの声には諦めみたいなものを感じた。それを分かってしまったのは、その声のトーンを俺も知っているから。
諦めて、状況を飲み込もうとしているときの声。でも俺と違ってエリシアは、受け入れているのかもしれない。
虚勢を張るのと、受け入れること。……どちらが苦しいのだろうか。
「お兄ちゃんは家族を守って死ぬんだね。それって、やっぱり可哀想。その家族に守る価値はあるの? 自分の命や自由よりも?」
「価値なんて、分かんねーよ。ただ、俺が逃げて家族が殺されたら、取り返しが付かないだろ。死んでしまったらあとには戻れないだろ。俺はそれを選べないだけだよ」
「お兄ちゃんが死んだら、それも戻らないことじゃないの?」
「死んだら、終わりだから。罪悪感に押し潰されることもない」
今まで何度逃げようと思ったか知れない。そのたびに、何も知らない10歳の弟が「行ってらっしゃい」と手を振った姿を思い出す。
逃げて自分だけ生き延びる選択を、できないだけだ。結果的に守れているだけで、絶対に守るという強い意志があるわけでもない。
「んー、よく分かんないや」
しばらく悩んでいたエリシアが、降参するように両手を上げた。
「言っている意味が全く分からない。難しいね。お兄ちゃんを苦しめる家族なんて、見殺しにすればいいのに」
「なんてこと言うんだよ。恐ろしいガキだな。別に俺の家族が悪いわけじゃないだろ」
「えー? そうかなぁ? 信じらんなーい。いいなぁ、私も誰かに守られたいよー。お兄ちゃん、私のことも守ってよー」
「死にかけた人間になに言ってんの?」
呆れて言うと、エリシアは楽しそうに笑った。夜空みたいな瞳に微かに煌めく金髪。星空みたいな気味の悪い子供。
家族から逃げてきたエリシアと、家族を理由に逃げられない俺。変な出会いもあるものだと、エリシアの金の髪を眺めながら思った。
エリシアがハッと顔を上げた。星以外に光源のない空に視線を向けて、俺の外套を軽く引っ張る。
「やっぱり、お兄ちゃんの血の匂いって強烈なんだね。来たよ、大きいのが」
何かが滑空するような風を切る音がした。もう辞めてくれ、起き上がれないんだ。手に力も入らない。剣だって脂で切れ味が悪くて、それを振っても叩き付ける以外の意味がなくなりつつある。
そう思うのに、体が反応した。柔らかい砂の大地に拳を突き立てて上体を起こす。木に立てかけた意味のない剣を手に取った。
「お兄ちゃん、戦うの?」
「さぁ……」
「勝てるとも思えないけど」
「そう、だな」
死にたくないという意地なのか、もしくは腕輪の呪いなのか。
大男三人分はある大きさの鳥型の魔獣が、翼を広げて目の前に迫った。素早いけれど、真っ直ぐ飛んできているからタイミングは測りやすい。
腕を抉りにきた嘴を無意識と反射だけで避けて、長い首に剣を叩きつけた。長毛種のそいつは毛が固くて刃が通らない。
使い物にならない剣をすぐに投げ捨てて、首に手の平を当てた。魔法は得意じゃない。今できる最大の力を込めて、雷の攻撃魔法を叩き込む。
雷の魔法が使えたことが、きっと勇者に選ばれた一因だった。選抜試験でこれを使ったとき、試験官の目の色が変わったから。
裂けるような雷鳴の音が轟き、暗闇の中を光が空から地面に向かって突き刺さる。頭に雷が直撃した魔獣は、そのまま地面に落ちた。
麻痺して痙攣する魔獣に突き飛ばされて、俺の体も砂の上に落ちる。激しく暴れる魔獣に「もう起きるな、起きるな」と心の中で念じた。
もう俺には何もない。空っぽだ。何もできない。
突き飛ばされたときに腹を切られた。触れると、滑った温かいものが手に纏わりついた。
耳鳴りが酷い。大きく傷ついた場所が発火したかのように熱いだけで、痛みも何も感じない。
自分の短い呼吸と、痙攣しながらも起き上がろうとする魔獣の翼の音が妙に大きく聞こえる。
「あーあ。血だらけだぁ。お兄ちゃん、死ぬの?」
返事をしようとしたのに、逆流してきた血が邪魔をして声が出なかった。
星空を仰ぐように倒れた俺のそばまでやってきて、エリシアが両膝をつく。観察するように腹の傷を覗き込んだ。
「この匂い……やっぱりそうなんだ。お兄ちゃん、19歳ってことだよね。19年前に生まれたってことでしょ?」
それ以外にあんのかよ、馬鹿。
「お兄ちゃんが、私のことを呼んでたんだね。私、その時は子供だったけど19年前から気づいてたよ」
「なに、言って……」
「ある日ね、急に遠くから甘い匂いがしたの。うん、あれは19年前だった。そっか、そうだったんだね。……なーんだ、せっかく会えたのに、会いに来たのに。お兄ちゃんもう死んじゃうの? 残念だな」
耳鳴りの中でもはっきりと聞こえるのは、微塵も残念そうではない無邪気な声色。何を言っているのか理解できなかった。頭が働かなくて。
「よかったね。家族に縛られた呪われた人生から解放されて。お兄ちゃんの望み通り、もう逃げられるよ。ようやく楽になれる」
そう。死んだほうが楽だ。こんな苦しい旅なんて逃げたい。解放されたい。
「死にた……」
「なーに?」
「し、しに、たくない、」
くたばれと思う、俺なんて。
それなのに、俺の本心はこんなにも卑しい。




