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酒の呑み方講座

作者: 有栖川 悠歌

この小説には、飲酒、喫煙の描写が含まれる。

また、これはあくまでフィクションであり、実在の団体、人物ではない。

この小説に記された犯罪的とも思われる行為も、同様である。

 夕張楓ゆうばるかえでにとって酒とは、幼い頃から身近に在り続けるものであった。俺の父は運送業者に努めており、深夜にトラックを走らせる。夜中に眠ることが出来ないが故に、夕方の早い時間に睡眠を摂る必要がある。アルコールを摂取して無理やり身体を睡眠に落とし込むのである。そうして行く内に、脳はアルコールに依存していき、脳に快楽を送り込むのと、無理矢理身体を寝かすことのどちらが本当の目的なのか、いよいよ分からなくなって来ていたのだった。俺はそんな父の姿を隣で見て育ったのである。父親と酒というのが常に結びついて生活の一部に組み込まれていた。

 俺の父は毎日酒を飲み、詰まるところ毎日酔っぱらっていた。父の影響で酒を身近に感じ、一六の折には父の酒を傍らで飲んでいた訳だが、父の酒の飲み方は、俺は好まない。少人数でのんびりと、静寂と閉鎖の満ちた空間で、自らの下が幸福を告げる様をできる限り抒情的且つ感傷的に感じるのが、俺が酒を飲む時の基本的な姿勢である。先のどちらが目的であるとしても、父は酒を流し込むように飲む。短時間に流し込み、身体を浅い睡眠の淵に落とす。情緒も感傷も無い飲酒である。これでは何とも面白みがない。

 スマートフォンが振動を伝えた。机に突いた肘に感じたバイブレーションが、回想に浸った俺の意識を確かな物へと引き戻した。左手にあるグラスには、数分前の半分ほどに減ったスコッチが揺れている。一つだけ浮かべた氷は、既に解け減って直に二つになるだろう。結露した水滴が机に落ちて、軽く水溜まりを形成している。これを置き、現実とこの空間の境を切って捨てた先程のバイブレーションに目を向ける。メッセージアプリの通知表示には、花香抄子(はなかしょうこ)の名があった。この名を見ることが出来るのならば、現実というのも悪くはない。むしろ先のバイブレーションが切り裂いたものは、現実と思案の境ではなく、ほのかな心地よい思索と、更に快い夢想との境であって、これを現実と信じ込みたい俺の都合の良い脳髄の勝手で懸命な作用まで感じる。抄子は、この世のどの存在よりもよっぽど美しい女性である。なぜこの様な素晴らしき人が俺の恋人に名乗りを挙げたのか、未だに疑問に思うことがある。メッセージには「少し話したいから電話掛けても良い?」とある。その小首を傾げる可愛らしい仕草も容易に思い描くことが出来た。たかだか液晶が映し出すこんな無機質である筈の文言に、感情やら動きやら、もっと言うならば温もりすらも付与できるのは、彼女の美しさのほんの一握りの権能である。無論、断る理由もなく、しかし単純に掛けて来て良いとしてしまうのも味気ない。俺は返事として、彼女の手の中にある、今は俺たちを繋ぐ唯一の媒介である端末を、此方から振るわせることにした。

 一回半のコール音の後、電話の向こう側に聞こえた声は、何よりも俺の頭を酔わせ、悦楽の果てへと強制的に、暴力的なまでに誘うのであった。

「もしもし、ありがとね、掛けて来てくれて。」

「俺も話したかったからね。」

「何してたの、今は。」

「いつも通りだよ。」

「お酒か。一応一九歳なんだよね、君は。」

こんな他愛もない会話。抄子はよくこんな電話を掛けて来る。特に用向きも重要事も無く、唯なんて事の無い会話、夜中の三時まで続けるのだ。大抵は彼女の声がだんだんと勢いを失って行き、やがて電話口からすーすーという寝息が聞こえてきて、俺が電話を切って終わるのである。

彼女と出会ったのは一年と二月ほど前のことである。この時は確か、大学の帰り、友人と新宿に酒を飲みに行った時であった。このころの俺はまだ、あまり酒へのこだわりが無く、また飲み方の好みも特に無い。酒であればなんでもよく、同年代に対してであれば二年の経験を基に安っぽい発泡酒程度で大手を振って歩いて居られたのである。そしてある程度アルコールへの態勢もあって、ひたすら発泡酒を喉に流し込み、矢鱈大きな声で、気でも狂ったかのような会社帰りの中年の群衆に紛れて、同様に騒ぎ立てることを何とも思っていなかった。歌舞伎町の通りを、細道に少し折れていった辺りの大衆酒場にてハイボールを9杯ほど飲んだ俺は、自分の身体の容量も考えずに俺と同じペースで飲み騒ぎ尽くして潰れた友人を介抱していた。歌舞伎町の、あの輝かしい象徴的な赤い電飾の門の傍らにしゃがみこんで吐瀉した友人は何とも哀れでみじめで、滑稽に見えた。酒は自らの容量と、適正とをしっかりと把握していなければ、それを愉しむことのできる次元が先天的に定められていて、その実俺は先述のどちらも膨大なまでに有しており、これをどこまでも愉しむことを赦されているのだと、そんな心持で、近場のコンビニエンスストアで購入してきた水を友人に差し出していた。友人を駅まで送り届けた後、俺はまたこの喧騒と酒と何とも知れぬ薬の臭いがが渦巻く通りに再び立っていた。このまま友人の吐瀉と愚かな暴飲を支えてやって、それで終わりでは何とも面白みに欠けると感じたのである。

 そうして歩いていると歌舞伎町という名前が、いかに独り歩きしていたかということを感じる。外国人がこぞって例の電飾の写真を撮るために道を塞いでいるが、こんな木偶のような電飾に、わざわざ通行を妨げてまで画像に留め国に持ち帰る必要性など微塵も感じなかった。門をくぐっても、あるのは風俗店と酒場だけで、看板は必ずしも安っぽく下劣な肌色か、殴り書きの毛筆風の、それらしいものの二種類だけである。気取ったネオンフォントの看板は、印象と料金と比べたら実際の内容は何とも詰まらなく汚らわしいものであると律儀に自己紹介するための符であるという印象しか持てなかった。これでは自分の田舎の駅の北口の駅前通りと左程変わりがない。わざわざ金を払って東京まで来て訪れる価値はないという感想であった。

 結局俺は、通りの脇の細道の、更に折れた後の細道。ここは店の裏側、勝手口やらがある、道かどうかもわからないような道を、ほとんど少年の探検と同じような興味で歩いて居た。この道には、建物ひとつ挟んだ向こう側と違って、無駄な喧騒も電飾も存在しなかった。室外機の小気味よい振動と、プロペラの回る音。これが少し五月蝿い事と、多少生ごみの臭いがすることに目を瞑れば、まあ居心地の良い所であった。飲食店に鼠や例の異常な生命力を誇る害虫が出現することはタブーであるから、そういったところもあまり汚くもできないのだろう。多少の生ごみの臭いも、酔い狂った中年の加齢臭や、鼻が機能を失っているオバサン集団のヘドロを塗りたくった様な香水の混ざり合った臭いなど、それら人間をすべて混ぜ合わせたような、人間の臭みと言えるあれよりはよっぽどましである。

 細道から抜け、大通りの反対側に来ると、ぎりぎり車が一台分が通れそうな道であった。それなりに酒を飲み少々時間が経った俺は、なんとなく酔っ払っている自分を感じていた。だからであろうか。最終的に私の興味を引いたのは、道の脇に積まれたゴミ袋達であった。袋が二重になっており、中身の液体や臭いはあまり漏れてこない。六月の夜。まだ夏でもないのにやたらと暑苦しい夜。体は多少のアルコールでその温度を上げており、額に軽く汗をかいていた。眠気と疲労とアルコールで脳が定かではなかった俺は、(今では本当に考えられないのだが)ゴミ袋の群にその身を預けていた。シャラシャラという薄いビニールの音と、火照った体にちょうど良い、冷気を孕んだ感触は実に見事であった。麻痺した脳でも自分の行動の非社会的な様も、自分が身を預けている物の不衛生もすべてはっきりと理解していた。だからこその、ありきたりな背徳からくる悦楽である。本当に、一年前の俺のこの行動や、酔いに任せたみっともない姿も、そもそも大衆酒場で阿呆の様に騒ぎ立てて酒を飲んでいたこと自体も、現在の俺からすると全く理解できないし、理解したくもない。しかしながら、この時の快楽は今も肌に残っているし、この行動を後悔したことは一度だってないのである。さてその時の俺は、その麻痺した脳のままに、冷ややかな廃棄物の群衆に包まれ、その意識をひと時の睡眠へともたれていった。

 体を揺さぶられる感覚があった。

「夕張君、おーい、夕張君―。」

名前を呼ばれていた。朦朧とする意識の中に、なぜか俺の名を呼ぶ、白い顔が浮かんできた。美しい女であった。白く、色調の乱れが一つもない肌はピンと張り詰め、少しばかり汗ばんでいた。便宜上まとめていたのであろう、少し癖のついた髪は(うなじ)の半分程迄の長さであり、癖でうねってはいても、艶やかで流麗な黒髪の流れであった。少し垂れ眼がちの瞳は、髪と同じく黒く、肌と同じく一点の淀みもない。細く形の良い眉も、程よく上を向いた鼻も、色の良い唇も、その顔を構成するすべての要素は美しく、調和がとれ、程よく幼さを醸していた。どちらかと言えば、美しいというより可愛らしいというのがふさわしいのだが、俺の一八年の人生でこれほどまでに人間の造形というものに感銘を受けたのはこれが初めてであった。なれば、単なる見た目の形容としてではなく、もっと大規模な賛辞として、「美しい」と思ったのである。美しい少女は絶えず、だんだんと眠りから覚めた俺の肩を心配と不審を混ぜこぜにした表情を浮かべながら、その小さな手で揺さぶっていた。

 「なんで俺の名前知ってるの。」

これが、覚醒後の俺の第一声である。俺の眼は、彼女の瞳を焦点として微睡(まどろみ)を振り払って定まりを取り戻していた。彼女の表情は心配を、ついでに不審までもを忘れて、嬉しそうな、気恥ずかしそうなものに変わった。

「大学一緒だから。とってる授業もいくつかかぶってるよ。」

俺は大学進学を機に上京してきて、言ってしまえば友人が極端に少ない。授業の時間は常に居心地悪く教室の隅に縮こまっているので、ほかの学生の顔など到底覚えていなかった。花香抄子と名乗った彼女は、俺を助け起こし、自分はまだアルバイトの途中であるからと、近くの店に戻っていった。彼女は俺を知っていたらしい。しかし俺は彼女のことを知らず、覚えもない。俺にとってはこの時が、抄子との出会いであった。


「楓君…、大好きだよ~。」

抄子の声が徐々にふわふわとしてきた。抄子さんは眠くなると意識が朦朧としてくるのと、声がワントーン高くなるのである。そして、全体的に話すペースがゆっくりになる。典型的な「眠くなる」という状態がこれなのかもしれない。しかし俺は他の人間を知らない。眠くなった人間というのを、俺は一年前にようやっと、この電子の繋がりの向こう側に知った。こんな様子になっておきながら、この子はいつも「眠くない。もっと話す。」と、平常より少々幼さの増した声で強請るのだ。電話の音声は、その電波を伝って本人の声が聞こえてくるわけではない。電話口に入った声を、携帯電話が音波として分析、模倣してこの端末に飛ばされるのである。つまり、今俺の脳を酔わせ、心を蕩かすこの音は、彼女の本当の声ではない。それでありながら、この甘えた様子もほんの些細な表情の変化も伝えてくるのはは、単に俺の想像力が逞しいだけであるのか。はたまた、携帯端末の性能が随分良いのか。それとも、抄子は不思議な魔法でも使えて、その声を直接、何らかの脳への作用と共に直接流し込んでいるのか。俺には全く理解らないのであった。左手を口元に持ってきて傾けると、中身はもう小さな氷だけになっていた。俺は冷凍庫から中途半端な大きさの氷を持ってきて、新しいスコッチと共にグラスに放り込んだ。


 俺は現在、居酒屋のホールでアルバイトをしている。この日は平日にも関わらず矢鱈と客足が多かった。そして何より、21:00からの十二名の女衆の団体客が耐えられなかった。こうも典型的に「馬鹿」を晒す酒の飲み方はない。次々浴びるように酒を飲み、グラスの淵から溢れた安酒が、この後俺が拭き上げなければならない机をひたすらに汚す。何よりも俺が耐えられないのは、この女衆の声であった。本来低い声のはずの女も、必要以上に甲高い声で喋る。それに呼応して別の女も金切声を挙げる。ゲラゲラと嗜みの無い低俗な爆笑で応戦する。結果この卓はひたすら高音が、莫大な音量で響き続ける嬌声地獄と化していた。近くの客はヘッドホンをして耳を塞いでいる。

 俺はこれを蔑しながら、とあるバーの女を思い返していた。この女は、風見さんといって、実に上品に酒を呑む。客の話に耳を傾け、常に微笑を浮かべながら時にオーバーな反応を示す。しかし無駄に大きな音は決して出さず、右手の電子煙草を時々()みながら、金宮の茶割を静かに呑んでいる。「酒を呑む」というのはこうでなければいけない。曲がっても、この女衆の様な下劣で低俗な、酒を言い訳に利用した、実際は単なる爛れた人格の露呈。これは「酒を呑む」という行為に付随してよいものでは無い。酒というものに対する冒涜である。風見さんは常に、自分の身体を理解しており、無理な飲みはしないのであろう。そして酒を言い訳に何かしらの汚濁を晒したりもしないのだろう。酒も煙草も一重に言ってしまえば唯の快楽であるが、酒に対する理解、世が酒に対して持つ身勝手な誤解が誤解であることをしかと理解しているようである。あの女衆は、酒を飲んだことで、酔いが回ったことで、叫んで喚いて、「五月蝿くしちゃってごめんなさい」なんて言って帰って行った。これは決して謝罪ではない。言い訳だ。酒を飲んだから騒いだのだと、酔ったから五月蝿くしたのだと、酒を言い訳にした逃げだ。むしろこの女衆は、酒という言い訳を取れば、ある程度の不貞、非社会的態度は、正当な理由として成立すると思っているのだ。しかし酒を飲んで喚き散らす人間は、酒を飲まずともどうせ常から喚いている。飲食店で何時間も席を占有し、他の席にまで荷物や、その脂の塊の腕を投げ出したりして、ガマガエルのような口で近所の噂話などを、奇怪な音波で垂れ流しているご婦人たちは、果たして酒を飲んでいるだろうか。

 抄子さんはどのように酒を呑むのであろうか。と、女衆の濁され尽くした跡を片付けながら思案を巡らせた。確か一度だけ、「家族でお酒を呑んで酔ってるよ~」と、眠い時と同様な声で話していたことがあった。やはりふわふわとした意識の定めらない声音であったが、単に眠い時よりも蠱惑的で、俺を何処か全く知らない領域へ引きずり込もうとしているのかと感じた。電話口で喋るのみでは、彼女の手は届かないし、そのまま雲の様に、一人でどこかに流れて行ってしまいそうな、あの細い体を抱きしめて此処に留めておくことも出来ない。密かに俺は、抄子とグラスを合わせることを小さな目標とするのだった。今この時には不可能である。彼女の家はここから二時間ほど掛かる。大学内以外では滅多に会えない。きっとこの目標が果たされるのはまだ向こうの話なのであろう。少なくとも俺が二十歳になって、その時にはあの子も二十歳で、それでやっと計画を提案する段階程度にはなるであろう。しかし今は、抄子の声が聞きたいと思う。あの優しさと甘露に満ちた声に、俺がこよなく愛するものを汚された不快と、あの女衆によって引き裂かれかけた鼓膜の治癒を求めたい。その温かい手や身体を、触れる創造くらいは許されるのではないか。

 アルバイトの終了時刻までは、あと小一時間ほどある。


バーでは多くの、面白い物を目にする。酔った初老の女の人生観を聞かされる事もあれば、文学に造詣の深い男と好みの文学者について盛り上がることもある。同行人を放り出してビデオ通話をはじめ騒ぎ出す女もいる。しかし今度のは、中でも一風変わったものだった。

 とある女が自分の恋人との事ついて、隣の男と討論している。遠巻きに聞いていて、詳細は聞き取れなかったが、別れたいのか別れたくないのか、よくわからないというような内容。どうにも女は、自分のことばかりで、恋人のことも、その周囲のこともどうでもいいといった風。(本人は相手のためを思っているつもりらしい)その女の話は、どこまで行っても自己満足のほかに要素がなかった。聞き耳を立てているのが馬鹿らしくなった俺は、自分の飲み物を待ちながら、その女の話から気をそらせて呆けていた。

女は突然泣き出し、勘定を済ませて店を飛び出して行ってしまった。残された客は追いかけて行って何かを話していたようだった。話だけならいっとう詰まらないが、こうなると少々面白い。間違いなく自分よりも歳の行った女が、男と拗れて感情を高ぶらせ、感情のままですらない、何の結果も生まない行為に及ぶ。逃亡などして、何を伝えたいのか。何が満たされるのか。自己中心的な意見が通らず、共感と同調を求めて暴論を振り回し、挙句論破され泣いて、憤慨してどこかに逃げるなど。まるで小学校の時に見た、クラスを牛耳ろうと喚いて学級に仲間外れにされた学級委員である。そういった女は統計的に、私は容姿が優れていて、私が発言すれば周りは皆付和雷同を示し、すべて私が正しいと信じている。実際には、適当な中身のない一般論で、自分で思案したことなど何もない講釈で悦楽に浸る、質の悪い自慰行為愛好家である。なんと無様!なんと滑稽!これほどまでに見ていて愉快な、典型的な女は珍しい。肝心なのは、ここがバーであるということ。つまりこの自慰愛好家の女も、例によって、酒を飲んでいたのである。風見さんが新たに、俺の前にスコッチを持ってきた。俺はこれを少し飲み、この出来事を反芻しながら、自らの流儀に従ってしめやかに、煙草に火を着けるのであった。


俺の目標が叶う日は、思っているよりも早く訪れた。バーでの一件から十数日の後、俺の家に抄子がいた。こうして直接会い、親密に話すのは実にひと月ぶりである。大学ですれ違うことは幾度かあれど、親密に話す機会はなかった。頻繁に電話はするものの、やはり直接この幸福な声が鼓膜を震わせるのとは違う。俺は今この、俺の部屋という極限まで俺の領域である閉鎖的空間で、二人きりで並び座っている状況に得も言われぬ興奮と安らぎを感じていた。今この時、二人の間に距離はない。抄子の好意は、触れ合う適度に体温の上がった肩を介して、彼女の潤んだ吐息や若干早い鼓動と共にひしひしと我が骨身と、そして脳髄に供給されている。そう感じさせてくれる抄子が堪らなく愛おしいのである。俺の念願は今叶う。それは性欲でもなく独占欲でもなく、それを差し置いて常に俺の中にある、愛すべきこの万薬への欲求であり、これを、最も愛する殆ど神格化された女性と共に酌むという、神秘的で蠱惑的な行為への欲求である。元より本日はそういう約束でお互いに刻を作り、この夢現の可惜夜(あたらよ)に、こうして集まったのである。

ひとつの中途半端な氷を入れたグラスに流れ込む、俺の愛好する琥珀色が、何時にも増して何よりも美しく見える。普段は決して飲まない発泡酒の、結露の向こう側に浮かんでは消える無数の小さな泡が、この日は何よりも愛おしく見える。今このグラスの中では、数えきれない官能と魅惑を含有した気泡が、無数に上昇しているのである。ついにこの時が来たのだ。互いのグラスは徐々に近づき、互いの人差し指が触れる。この乾杯の、グラスの間の空間は金色の輝きを持ち、泥炭と洋梨と仄かなアルコールの、その魅力から得られるすべての悦楽そのものが融合した亜空間である。

抄子は煙草を喫まない。であれば、俺もまたこれを喫むことはしない。あのような煙よりも、今この空間に飽和した幸福の方がよっぽどの快楽を与えてくれる。我が手に揺れるスコッチは最早水天の恵みと化し、俺は今、神よりも全能の心地であった。隣にいる抄子は、俺にのみ触れることが許された如意宝珠であった。彼女の肩はアルコールによって更にその温もりを増し、彼女の頬と耳は、普段の純白の魅力を更に崇高な物とする朱によって飾られている。その上気した耳に口を寄せた。その頬の悦びに手を触れた。次の瞬間俺の唇に触れていたのは、先程よりも朱みと熱を増した耳ではなく、此方を向き柔和に目を閉じた、抄子の艶めかしい唇であった。

「お酒の味。」

そうつぶやく抄子の頬はやはり、耳と同様に朱みを増していた。その頬に触れている手に伝わる温もりも、その鼓動の逸りも、同様に増していた。

「私、そんなにお酒強くないから。楓君の吐息で酔っぱらっちゃいそう。」

なんと洗練された挑発だろう。気恥ずかしそうな表情も、平常よりも蕩けた目元も、俺の脳髄を震わせ、潤し、そして渇望させた。俺はこの悦びと渇きをありのまま、できる限り情熱的に、美しく、濃厚に抄子に刻み付けたい。この小さくも偉大な美と彩を司る少女は、俺の眼の深淵までもを見透かしてしまう程の神聖な視線を、俺の視線と数秒絡ませた後、机の上の沸き立つ液体にまた口を付けた。

 その夜は短かった。俺たちは満足のいくまで酒を呑み、他愛のない話をし、おどけてじゃれ合い、そして布団に潜った。抄子の腕は俺の背に回され、その身は精一杯俺に寄せられていた。彼女の細い、か弱い腕は、されど何よりも広く、大きく、強く俺を包み込んでいた。今俺を包み込むこの幸福は、神秘は、俺がこれまで何よりも追い求め、探し続けた安らぎを、彼女の可能な限り精一杯の抱擁と共に俺の心を悦ばせた。これは刻みつくものでは無く寄り添うものであった。数時間後にはまた我が身を離れ、俺はまたこれを追い求めるのだろう。しかしそう遠くない時の後、また俺に寄り添ってくれる。そう確信できる安らぎなのである。

 その安らぎを、壊してしまわないように、されど、少なくとも今この時だけは絶対に放さぬように、強く抱きしめた。

この夜が、俺が最も好む、最も美しい酒の呑み方のできた夜であった。



(終)

これは、私の願望であり、私の過去であり、在りえたかもしれない私である。

酒というものがとにかく好きな私の、酒に対する、私の望む私の在り方を、小説として起こしたものである。正直、これがおもしろいかと言われれば、私は否と答える。しかしこれはある種自傷行為であり、また自慰行為である。そこに面白みなど必要ないし、共感も望まない。

ただ一つの、無為な文章であるという印象で良いと思う。

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