第51話
伊達華蓮はトントントン、と階段を下りていく。
すると、廊下を小走りしている小太郎を見掛けた。
彼は急いでいるようだったが、華蓮を発見すると小さく手を挙げてきた。同じように華蓮も返す。
「なに、夏目。急いでんの」
「あぁうん。用事があって。文芸部寄ってたら、ちょっと長居しちゃってさ。ギリギリになっちゃった。悪い、華蓮さん。また明日」
「ん。また明日」
忙しなく走っていく小太郎を、華蓮は見送る。
静寂を取り戻した昇降口で、華蓮はそっと旧校舎のほうを見た。
小太郎が帰ったということは、一花は文芸部室にひとりらしい。
お邪魔したら、ダメだろうか。
小太郎とふたりでいるのなら遠慮するけれど、今はひとりだ。
彼女とともに放課後を過ごせたら。
そう思っただけで、心が湧き立つ。話したい。どんな些細なことでも聞いて、彼女の気持ちを知って、自分の話をして。
言葉を交換したい。
きっと緊張するだろうけど、とっても楽しい時間になるに違いなかった。
「……」
小さく頭を振り、華蓮は下駄箱に近付く。
用がないのなら、文芸部室に行くべきではない、と華蓮は思う。
彼女を困らせるだけだ。
以前の華蓮なら、狙っている女子がいれば適当に接触し、べらべらと耳障りのいい話をして、さっさと親密になっていただろう。
でも、一花に対してはそれができない。
緊張して、顔が熱くなって、普段よりも頭の回転が鈍くなる。
あとから会話の内容を思い出して、「もっとこんな話をすればよかった」「なんでこんなことを言っちゃったんだろう」と後悔することもしばしばだ。
初めて恋をしたわけでもあるまいし。
下駄箱を開くと、その中にちょこんと手紙が入れてあった。
差出人を見ると、女子の名前だ。ラブレターだろう。
以前ならほいほい喜んで開いたが、今は面倒くささが先立つ。
はあ、とため息を吐いて、再び旧校舎の方向を見た。
彼女と接触する理由があればな、と思う。
以前のように。
先日、文芸部室に顔を出した日のことを思い出す。
それは、四人で遊びに行った日のあと、まもなくだった。
お昼休み。
小太郎が文芸部室に行かないことを確認してから、華蓮は旧校舎に向かった。
文芸部の扉をノックすると、「ふぁ、ふぁい」という、おそらく口に何か入れた状態の返事が聞こえてくる。
扉を開くと、目を丸くした一花が胡桃パンを頬張っているところだった。
かわいい。
しかしその目は、客が小太郎であることを期待していた。
一花は露骨に態度に出すことはなかったものの、華蓮は落胆を見抜いてしまう。
そのうえ、なんで華蓮が? と顔に書いてあった。
華蓮は精いっぱいの作り笑いを浮かべながら、彼女に声を掛ける。
「こんにちは。や、入っていい? ちょっと話したいことがあって」
「あ、ど、どうぞ……」
一花は口元を隠しながら、目の前の席を示す。
お邪魔します、と華蓮はそこに腰掛けた。
一花は気まずそうに、視線をきょろきょろさせている。
用もなく会合するほどの仲でもない。
ここで雑談でも始めれば、一花はずっと作り笑いをして困り続けるのだろう。
ちくりと胸が痛むのを感じながら、華蓮は口を開いた。
「前に話したと思うんだけど、あたしは一花ちゃんの恋を応援したい。今日もそれで来たんだ。一花ちゃんは、夏目が鈴音の誕生日プレゼントに迷ってるって話、知ってる?」
「あ、ま、前に聞きました。難しい、探してるって。今でも、ぜんぜん目途が立ってないみたいで……」
「そうそう。それでね、こんなプレゼントはどうかなって思ったんだ。一花ちゃんから教えてあげなよ」
華蓮は、一花にスマホを差し出す。
そこには、華蓮が時折訪れるレストランが表示されていた。
高校生でも手が出る値段で、いい雰囲気でおいしい料理を出してくれる、穴場のお店だ。
華蓮のとっておきでもあった。
「ここにね、鈴音を連れて行くのはどうかと思うんだよ――」
そうして、華蓮が考えた計画を伝える。
鈴音には体験をプレゼントする、普段とは違う姿を見せることで意識させる……。そういったメリットをちらつかせれば、きっと小太郎は食いついてくる。
そこまで話しても、一花はピンと来ていないようだった。
真面目な表情で、ふんふん頷いている。
「いい、プレゼントだと思います。夏目くんにとっても、理想形かもしれません……。でも、わたしから言わなくても、伊達さんからお伝えしたほうがいいのでは……?」
「や、一花ちゃんが教えることで、夏目の一花ちゃんへの株が上がるんでしょ。だから、あたしが教えたってことは内緒ね。そんで、ふたりで下見に行けばいいよ。『初めてだと緊張するだろうけど、下見しとけば安心だから』っつって。そしたら一花ちゃん、夏目とふたりでご飯食べられるんだよ。嬉しいでしょ」
そこまで伝えると、一花は目を丸くさせた。
情報が一気に来たせいでパンクしたらしく、詰まり詰まり言葉を返してくる。
「そんな、いいんですか、や、そんなの、伊達さんの情報なのに……! で、でもふたりでご飯を食べに行けるのは、う、嬉しい……、で、でもでもでも、そんなの申し訳……」
「いや、気にしないでいいんだって。あたしは、一花ちゃんが夏目と上手くいってほしくて、こうして協力してるんだから」
華蓮は頬杖を突きながら、彼女に笑い掛ける。
自分で言っておいて、胸がずきんと痛んだ。
本当は、自分が一花といっしょに行きたい。
夏目となんかと行ってほしくないし、万が一にでも上手くいってほしくない。
心からそう思っているのに、こうして提案することを止められない。
彼女が喜んでくれるから。
こうして、一花と少しでも話ができるから。
そのために、穴場であるお店の情報も簡単に渡してしまう。
それでも、一花は躊躇っているようだった。
察するに、人から教えてもらった情報を、自分の手柄にするのが心苦しいのだろう。
そんな心の綺麗さも素敵だった。
だから、ポンと背中を押してやる。
「夏目が鈴音をかっちりエスコートすれば、鈴音は夏目を見直すかもしれない。でもね、一花ちゃん。夏目と最初にそのお店に行くのは、一花ちゃんだ。だれだって、初めてのほうが強く印象に残るもの。夏目だって鈴音とのご飯は楽しいだろうけど、一花ちゃんとあわあわしながら、ふたりで緊張しながら行ったときのほうが、絶対に思い出に残る」
そう説明すると、一花ははっとして口を閉じた。
緊張した面持ちで、真剣に華蓮の話に耳を傾ける。
「それは絶対に上書きできない。鈴音の株を上げたとしても、それ以上に夏目の記憶に残るのは、一花ちゃんのほう。一花ちゃん、夏目から初めてをもらえたら嬉しいでしょ。そういった積み重ねが、絶対にあとで効いてくるもんだよ」
現状、一花と鈴音では一花に勝ち目はない。
小太郎自身が鈴音にベタ惚れしているし、その想いは思った以上に強固だ。
十年以上も片思いしているのだから、それも致し方ない。
でも、完全に崩れない牙城かといえば、そうでもない。
こういった積み重ねが、やがて芽吹くはず。
ふたりで初めての体験をした、という事実は、思った以上に心に根付くものだ。
そこまで聞いて、一花はきゅっと手を握った。
覚悟を込めた瞳を床に向けていたが、一花は意を決して顔を上げる。
華蓮の目をまっすぐに見つめたあと、勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます、伊達さん……っ! このお店、使わせてもらいます……!」
「うん。いいよいいよ。気にしないで。また何か思いついたら、教えるね」
そうして、華蓮はとっておきのお店を自ら手放した。
少なくとも、一花を口説くためにこの店はもう使えない。
彼女の初めては、小太郎のものになるからだ。
あぁ。
墓穴を掘るとはまさにこのこと。
この場合、わかっていて掘りに行くのだから、よりたちが悪い。
でも仕方がない。惚れた弱みだった。
「それじゃ、もう行くね」
用件を伝えたあとも、ダラダラと居座ることは今の華蓮にはできない。
彼女相手でなければ、とりとめのない会話をして、歯が浮くようなセリフで口説くこともできただろうけど。
スマートに話せるとも思えないし、それならば気まずくなる前に立ち去ったほうがいい。
もっと話したいな、なんて思っていても。
「あ、だ、伊達さん! ありがとうございますっ」
一花のお礼に、華蓮はひらひらと手を振る。
部室から出て、扉を後ろ手に締めて、はあ、と目を瞑る。
天井を仰ぎ、心臓がバクバクしているので胸に手をやった。
敵に塩を送ったというのに、それでも一花から感謝の言葉を聞くだけで、じんわりと幸せな気持ちになってしまう。
彼女に掛けられた言葉ひとつひとつが、胸に染み込んでいた。
「あぁ……、好きだなぁ……」なんて、独り言をぽつり。
けれど、幸せな気持ちは、徐々に虚しさに穴を開けられてしまう。
完全になくなってしまう前に、人気のない廊下をカツカツと歩いた。
小さなため息が、浮かんで消えていく。
第一章 終