第49話
電車を乗り継ぎ、鈴音と小太郎は家の近所まで帰ってきた。
のんびりとご飯を食べている間に、ちょっとだけ遅くなってしまった。
鈴音の家は、明確な門限があるわけではない。
でも、あんまり帰る時間が遅くなると怒られてしまう。
まぁでも、今日は小太郎といっしょだから、大丈夫かな?
そんなことを考えながら、鈴音が小太郎と歩いていると。
「ちょっと遅くなっちゃったね。おばさん、怒るかな」
小太郎も同じことを考えていたらしく、腕時計を見る。
それに鈴音はやわらかく笑い、「大丈夫でしょ」と小太郎の肩をぽんぽん叩いた。
おっきい肩。
いつも何気なく触っていて気付かなかったけれど、小太郎も大きくなっている。
男子の身体なんだなあ。
なんだか、不思議。
ちょっと前まで、こーんな小さかったのに。
そんなことを振り返っているうちに、小太郎の家の前にまで辿り着く。
鈴音は改めて、頭を下げた。
「小太郎、今日はご馳走様でした。ご飯、とってもおいしかったです」
「いえいえ。喜んでもらえてよかったです」
店の前でしたようなことをもう一度繰り返し、ふたりしてまた笑う。
「それじゃ、おやすみ。ありがとね」と鈴音が手を振ると、小太郎は恭しく、「家まで送るよ」と言い出した。
「いや、家そこだし」
たった数歩先を指差し、お互いにまた笑う。ふたりの中でのお決まりのジョークだった。
おやすみを言い合って小太郎と別れ、鈴音は自宅に帰ってくる。
「ただいま~」とリビングに顔を出すと、母がひとりでテレビを観ていた。
母には、小太郎とふたりでご飯を食べに行く、と伝えてある。
そのおかげなのか、やっぱり怒られはしなかった。
「おかえり~。こた、なに食べに連れてってくれたの?」
「それがね~……」
鈴音はすぐに、今日のあらましを話そうとする。
小太郎が大人っぽいお店に連れて行ってくれたこと、そんなお店でも彼が緊張せずに堂々としていたこと、でもそれは全部下見のおかげであって、前はちゃんと緊張していたこと。それを指摘すると、とてもばつが悪そうな顔をしていたこと。
それらすべての出来事が、母に聞いてもらいたい話だった。
だから、勢い込んで話そうとしたのだが。
口を開きかけて、ふふ、と鈴音は笑った。
「ないしょ~」
「え~、なにそれ気になるぅ」
母がおどけるので、笑いながら話題を変えた。
「お風呂、入ってもいい?」
「大丈夫。洗濯機、回しておいて」
「はいは~い」
どうやら母は、「早くお風呂に入りたいんだな」と判断して、何も聞かないでくれたようだ。
もしかしたらまた訊かれるかもしれないし、そのときはすべて話してしまうかもしれない。
でも今は、なんとなく自分の胸だけの出来事にしておきたかった。
なんでそう思ったか、自分でもわからない。
まだレストランの匂いが残っていそうなワンピースを、脱衣所で脱ぐ。
洗濯機に入れてから、スマホだけを持ってお風呂に入っていった。
湯船に浸かったあと、パタパタとスマホに文字を打ちこむ。
「今日は、ありがとね~……、っと……」
小太郎に向けて、お礼のメッセージを送った。
そのあと、小太郎といくつかメッセージをやりとりし、料理の写真なんかを送って、ふふふ、と思わず鈴音は笑う。
胸がぽかぽかと温かい。
まさか、小太郎があんなにちゃんとお祝いしてくれるとは思わなかった。
もちろん、彼にお金を出してもらうのは、今でもやっぱり気まずい。
それでも、嬉しかった。
「あの、こたろーがね~……」
メッセージのやり取りが途切れたので、湯船の縁に頭を乗せる。
ぼんやりと、今日のことを振り返っていた。
レストランでの小太郎は、まるで違う男の人みたいだった。
あとからやっぱり、いつもの小太郎だとわかったけれど。
彼が一花と出会ってからというもの、今までと違うことが小太郎と鈴音の周りに起こっている。
小太郎が女の子と買い物する姿を見るのも、みんなで遊びに行くことも、鈴音と小太郎がふたりで晩ご飯を食べに行くことも、今までなかったことだ。
そのどれにも一花が関わっているし、小太郎も変わっている。
そして、鈴音は思うのだ。
「綾瀬さん……、小太郎が好きじゃないのかな……」
確証は持てないし、小太郎自身が女の子に好意を持たれやすいから、断言できないけど。
一花が小太郎を好きなのでないか、というのは、つい考えてしまう。
よくあることだ。
鈴音は距離が近すぎてもうわからないけれど、世間一般的に小太郎はかなり格好いい部類に入るらしい。
勉強も頑張っているし、筋トレもしていて身体は引き締まっているし、運動神経もいいし、やさしい。
だから、いろんな女の子にアプローチされていた。
一花がそのひとりであっても、何らおかしくない。
そして小太郎自身も、少しずつ変化している。
そのうち、本当に彼女ができるかもしれない。
それは一花かもしれないし、また別の相手かもしれない。
なんにせよ、そうなればもう、こんなふうにふたりで出かけることはなくなる。
十年以上続けていた、いっしょに登校することもきっとなくなる。
もしかしたら、お互いの家を行き来するのも控えたほうがいいかもしれない。
お弁当だって、そうだ。
彼女が嫌がるのなら。
ちゃんと距離を取るべきかもしれない。
「はぁ~……」
今までは、別にそれでもよかったはずなのに。
胸が、ちくりとした。
思わず、人より少し大きめの胸に手を当てる。
この痛みは、寂しい、というものなのだろうか。
弟に彼女ができて、姉離れすることが。
初めての経験で、これもまたわからない。
考えていれば、もしかしたら答えに辿り着けるかもしれない。
でも今は。
幸せな一日に満足して、温かいお湯に目を瞑った。