第15話
一花は後ろの本棚に目をやりながら、小さくため息を吐いた。
「いろんな作品にデートスポットって出てくるんです。ロマンチックな場所だったり、男女がはしゃげるような施設だったり……。ですが、名古屋はそういうのが弱くて……」
「ただでさえ、観光地が何もない場所だからなあ」
ロマンチックから最もかけ離れた都市、それが名古屋である。
他県の人から、「今度名古屋行くんだけど、観光スポット教えてよ!」と言われて困る都市、それが名古屋である。
しかし、一花は前に向き直り、そっと両手を重ねた。
「ですが、夏目くん。それでいいと思うんです。たとえばいきなり、遊園地に行こう、とか夜景でも観に行こう、って言われても引くと思うんです。わたしもお兄ちゃんに言われたら、なんで? ってなっちゃいます。だから今は、ちょっとしたお出かけでいいんです」
「なるほど。東山動植物園くらいが妥当だ、と」
「まぁおふたりが東山動植物園に行くと、学校の遠足感とか家族のお出かけ感が出ちゃいますけど……。それくらい気張らずに行けるほうが、いいと思いませんか?」
確かに、そのとおりかもしれない。
初めてのデートなんだし、むしろ軽くないと鈴音は不信感を抱く可能性すらあった。
一花は小太郎をじっと見つめている。
その瞳には、力強い光があった。
本当にこの子は、小説を書くことに熱心なんだな――、と彼女の勤勉さに改めて舌を巻く。
小太郎は机の上で手を組み、ぐっと頷いた。
「――うん。とてもいい案だと思う。さすが綾瀬パイセン……、恋愛のすべてを司る女……」
「えぇ、いや、いぇへへへ……。れ、恋愛の経験ないですけど、わたし……」
賛辞を向けると、一花は恥ずかしそうに気の抜けた笑みを浮かべた。
三つ編みをくるくると手でいじる一花に、小太郎は質問をぶつける。
「なら、綾瀬さん。俺は、東山動植物園にすずを誘えばいいと思う?」
「え? あぁいや……、ううん。どうでしょう。東山動植物園は楽しいですけど、地元感が強すぎてデートっぽくならないかもしれません……。いっしょに買い物くらいで、どうでしょうか? そっちのほうが誘いやすくないですか?」
「ううん。確かに。いきなり、東山動植物園行かない? って言ったら言ったで、なんで? ってなりそうだもんな」
「それもそうなんですよね。むしろ、ちゃんとカップルになってから行ったほうがいいかもしれません」
互いに頷く。
方針は決まった。
今までどうすればいいのか、迷ってばかりで右往左往していたが、小目標ができた。
それは間違いなく前進で、つい安堵する。
もしかしたら、一花の言うとおりに進んでいけば、本当に鈴音と恋仲になれるかもしれない。
それを想像すると、胸が抑えられないほどに気持ちが湧き立つ。
まだデートに行ってくれると決まったわけではないのに、ついウキウキと指折り数えた。
「買い物なら、名古屋駅のタカシマヤか、栄の三越とか……、栄商店街で買い食いもいいかなあ。どうしよう」
「三越、いいと思います。ご飯を手軽に食べられますし、なんでも売っていますし。買い物の口実も付けやすいと思いますよ」
「だよね。三越にしようかな……。すずの誕生日プレゼントも決めないといけないし……」
初めての計画に、そわそわ、ワクワクしてくる。
久しぶりの感覚だった。
どうやって誘おう、どう声を掛けよう、と早速考えていると、そこで一花が妙な動きをし始める。
彼女は自分の手をぎゅっと握り込んで、落ち着きなく身体を揺らしていた。それに合わせて、三つ編みの束が揺れ動いている。
頬は赤く、眉は困ったように下がり、視線は行ったり来たり。
口を開けては、閉じてを繰り返す。
やがて意を決したように顔を上げたと思うと、今までとは比較にならないほど小さな声を紡ぎ出した。
「あ、あのう……。そ、それで、ですね。な、夏目くんは、デェトの経験って、おありですか……?」
「え、いや。ないない。俺、ほかの女の子と遊んだこともないし」
手を小さく振る。
中学時代から誘われることは数多くあったものの、一度も応えたことはなかった。
そのたびに、鈴音から「行ってくればいいのにぃ」と言われるのが悲しかった。
小太郎の返答を聞くと、なぜか一花はぐっと息を呑む。
ますます頬を赤くして、手を握りしめていた。
「そ、それなら、ですね。やっぱり、いきなり本番のデェト、はハードルが高いと思うんです。失敗するかもしれないですし……、格好悪いところは見せたくないじゃないですか。で、すから……、下見に行くのは、どうでしょう……?」
「な、なるほど……! その発想はなかったな……」
思わず、唸ってしまう。
たかが買い物、と侮りそうだったが、もし失敗したら目も当てられない。
せっかく鈴音と行くのなら、完璧なデートを行い、少しでも気持ちの変化を狙いたかった。
万全を期すなら、下見は必須かもしれない。
今度行っておこう……、と思っていると、一花は思いも寄らぬことを告げた。
「その下見、わ、わたしといっしょに行きませんか……?」
勇気を振り絞るように握る手の力を強め、彼女はか細い声でそう言った。
目をぎゅっと瞑って、顔も真っ赤にして。
震え出しそうなほど、不安そうな顔で。
けれど、小太郎は首を傾げてしまう。
「綾瀬さんと……?」
「は、はい……。あの、一応わたしも女ですし……。もしかしたら、何かアドバイスできるかもしれません……。いっしょにいれば、き、気付いたことも言えますし……」
「えぇ? いや、俺、女の子の気持ちなんてぜんぜんわからないし、めちゃくちゃありがたいけどさ。でも、綾瀬さんの休日を使ってもらうのは申し訳ないよ」
現時点で、一花には小太郎にはない着想、アドバイスをもらっている。
そんな一花がついてきてくれるのなら心強いが、さすがにそれは申し訳なかった。
その気持ちは正しく伝わったらしく、一花はぐっと言葉に詰まっている。
そのまま、口を「そ」という形にして何かを言い掛けたが、ぶんぶんと頭を振った。
手をきゅっと握り、小太郎の目をまっすぐに見つめる。
「わ、わたしは取材として、行くんです。で、デートの経験なんてありませんし、下見でも隣に男の子がいてくれたら、すごく助かります。で、ですから、むしろ、わたしのほうが頼み込みたいくらいで……っ」
詰まり詰まりになりながらも、一花はそう主張していた。
どうやら、取材の意味合いが強いらしい。
小太郎に気を遣って提案してくれているなら、とても頷けることではない。
でも、「お互いにメリットがあるから」と言われてしまうと、つい頼りたくなってしまう。
「……本当にいいの? 俺に気を遣って、とかじゃない?」
「は、はい。むしろ、行きたいです。す、すごく」
その言葉を絞り出すのに、とても勇気が必要だった、とばかりに顔を真っ赤にさせる一花。
それに、思わず小太郎は破顔してしまう。
「そっかぁ。それなら、ぜひいっしょに行こう。いや、綾瀬さんって本当にいい人だなあ」
「あ、いえ、いい人なんて、ぜんぜん……、そんなことは……、むしろ、悪い人寄り、です、はい……」
「謙遜超えて卑下してるじゃん」
手で顔を隠しながら、ごにょごにょ言う一花に、呆れそうになってしまう。
一花が悪人と言うのなら、大抵の人は悪人だろう。
それはさておき、小太郎はスマホを取り出した。
「なら、予定合う日を決めよう。綾瀬さん、いつなら空いてる?」
「あ、い、いつでも、だいじょうぶです、はい……」
わたわたとスマホを持ち上げた一花と、互いの予定を擦り合わせる。
ふたりとも暇なようで、早速次の土曜日に行くことに決まった。
――小太郎が部室を去ったあと。
スマホを口に当てて、ぴょんぴょんと部室内を跳ねまわる一花の姿があったのだが、それをだれかが見ることはなかった。