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やっとできた推しの選手

 試合はお互いに点数の入らない投手戦。ではなく、打線のつながりがない試合で消化不良になった。

「ああ、もう」

 思わず、声が出てしまった。周りからもため息や野次が聞こえてくる。

「いやあ、今のは惜しかったですね。ここで打ってくれないと」

 由香里も悔しそうにしていた。佐武選手のユニフォームを着ているが、今日は出場していなかった。

「最近は繋がらないよね」

「そうですね。得点圏でのバッティングは課題ですよ」

 腕を組んで、ビジョンに移るスコアボードを彼女は憎らし気に眺めていた。普段の所作は綺麗なのだが、感情が入ると素が出てしまうようだ。その姿の方が年齢相応で、かわいらしい。

 同点か。五回の裏が終わったので、立ち上がった。

「お手洗いに行ってくるね」

 イベントはあるものの、化粧も気になったので立ち上がった。

 案の定、化粧室へは列が出来ている。ただし、男性の方が長い列が出来ていた。並びながら、ビジョンに移る試合に目を向けた。

 用を済ませると、アイスを買ってから席に戻った。赤田さんに初めて観戦に行った際に買ってもらったアイスのモナカだ。

「アイス買ってきたよ」

 由香里に渡した。お互い試合に集中していたので汗もかいており、体も火照っていた。

「いいのですか。ありがとうございます」

 嬉しそうに、由香里は受け取った。

 期待とは裏腹に六回の裏も無得点。そのまま、七回に突入した。

「七回なので、冴島かな」

 右投げのサイドスロー投手。大学、社会人を経てツインスターズにドラフト五位で入団。一年目は二軍暮らしが続いたが、二年目からは中継ぎとして年間五十試合以上の登板を四年連続記録している。

 決して細いとは言えないが、下半身がしっかりしている投手体型。目立つわけではないが、地道にチームを支えている投手で、私も試合を見るようになってから覚えるまでにそれほど時間はかからなかった。

 アナウンスがして、冴島投手が小走りでグランドに上がっていく。キャッチャーと言葉を交わすと、胸に手を置いて数秒目を閉じる。そして投球練習を開始するまでがいつもの流れ。

 赤田さんの推している田上投手とは違うが、中継ぎとして地道に投げている姿は好感が持てる。

「中継ぎってすごいですよね」

 由香里が冴島投手の投げている姿を見ながらつぶやいた。

「先発投手はオフがあったり、登板の日が分かっているから自分のペースでいけるけど、中継ぎはいつ来るかわからない場面で準備をしているから、休みないのですよね。冴島って、昨シーズンも投手で唯一全試合に帯同していて」

 そのあたりはあまり知らなかったので、一軍にずっといるのはそこまで大変なのだと驚いた。確かに、投げないかもしれないが試合前の練習はしなければならないし、負担は大きいのだろう。

 まっすぐな表情で相手に投げ込むと、ヒットは打たれたものの、無失点で切り抜けた。闘志を含んだ表情から一変して安堵した表情を浮かべる冴島投手を、私は見つめていた。

「格好いい」

 独り言が出ていた。

「雪乃さん、冴島にはまりましたか」

 からかうようにではなく、期待を込めた口調で問いかけてきた。

「そうかもしれない」

 名前がコールされると、他の選手以上に胸がドキドキする感覚。周りを眺めても、そんなに彼のファンが多いとは思えないが、そんなものは関係ない。

「推しの選手できましたね」

「そうだね、嬉しいな」

 焦って決めたわけではなく、じっくりと試合を見ていく中で感情移入が出来るようになったのが更に嬉しさが増していく。

 その裏の攻撃も結局得点は入らず、九回の表にまさかのツーランホームランを浴びてしまい、ツインスターズの三連敗で試合は幕を閉じた。

「悔しいなあ。打線が問題ですね」

 ユニフォームを脱ぎながら、由香里はうなだれた。得点が入らないまま負ける試合が続いており、ストレスが溜まっている。

「そうだね。巻き返してほしいな」

 これもまた、ファンとしては苦しい場面だ。ただ、こうやって勝敗の付くものを応援しようと決めてしまったのは私自身。苦しさの分だけ嬉しさもあるのを知っているので、ここは我慢しよう。

「まだ前半戦ですし、三位ですからね。優勝は狙えますよ」

 荷物をすべてしまうと、由香里は立ち上がった。準備が出来ていた私は合わせて立ち上がる。

「今日はありがとうございました。そして、踏み込んでしまって申し訳ございません」

 歩きながら、由香里は謝ってきた。

「そんな、私も悩みを抱えてきてしまったから。それに、聞いてもらえてすっきりしたのは事実だから」

「先輩の方、元気でいればいいですね」

 出口の回転扉が混んでおり、隣の強風の出口を選択した。出る際に強風で帽子などが飛ばされそうになるとの話だが、私たちは問題なさそうだ。それでも風に流されて、予想よりも強い風に驚いた。

「本当にありがとう。試合には負けちゃったけど、由香里ちゃんと見に行くと色々勉強になるよ。次回もよろしくね」

「はい、こちらこそありがとうございます」

 由香里の意外な一面には驚いたが、楽しさが勝ったのでこの関係は続けたい。二人で離れるまで手を振って別れた。彼女は私のことを嫌いにはなっていないはず。自分に言い聞かせた。

 後楽園の駅に向かう途中で足を止めた。せっかくなら、何か買っていこうかな。赤田さんに会う口実を付けたくて、駅の途中にある建物をいくつか探すことにした。午後六時。まだ店舗は空いているはず。

 由香里に言われてから、やはり会って話してみる決心が固まった。こんなに心配しているのであれば、確かに黙っているのはおかしい。

 あの日にどういう心境変化は起きたかわからないが、そのままにしていたくなかった。お別れとは、いい話ではないはず。恋愛経験は自慢できるほどはないにせよ、私も何も知らずに生きてきたわけではない。そもそもコンビニを巡回している経営相談員時代も、その研修の店舗での店長時代も、恋愛感情のもつれのようなトラブルは目にしてきた。相談や相手の心情が全く理解できないわけではない。

 センサーを少し鈍らせなさい。あなたは感受性が高いから、人の傷を自分の傷のように受けてしまう。その癖は、いずれ自分にとって良くない。

 上司の落合さんから、日々言われていた言葉が蘇る。その頃も今もあまり実感がない。

 洋菓子店でクッキーの詰め合わせを買うと、私は駅に向かった。感受性は高くないと思っている。私は相手の気持ちを考えるのが苦手で、だからこそこうやって人との関係を取らないように生きてきたのだ。相手の気持ちが分かるなら、もっと明るい交友関係を築けているに決まっている。

 落合さんは憧れだった。まっすぐで、男女ともに人望が厚い。面倒見も良くて、誰にでも分け隔てなく接している姿を見て、こんな人になりたいと初めて強く感じた。

 帰宅時は赤田さん、今日の試合、由香里の言葉、落合さんの言葉が入り乱れて落ち着かない気持ちで歩いた。

 重い足取りで玄関に立つと、大きく深呼吸をした。一度忘れよう。今日はせっかくの観戦日だったので、ツインスターズの試合の余韻に浸りたい。

 スニーカーを雑に脱ぎ捨てると、リビングに寝転がった。球場は駅からも含めて意外と歩く。その為、ふくらはぎが慣れていないので痛む。

 しばらく横になっていたが、外出の格好のまま寝転がるのは気持ち悪い。重い体に力を送り、起き上った。

 ジーパンを脱いで、上もキャミソールまで脱いだがその先が続かない。下着姿というだらしない恰好のまま冷蔵庫を開けて、缶ビールを出した。

 赤田さんとの観戦とは違い、アルコールオフの体に一気にビールを流し込んだ。考え過ぎているときはこれが一番。思考が鈍り、ストレスが緩和される。

 そのままベットに移動して、スマートフォンを開いた。

 冴島投手について、ネットの記事やホームページを調べた。今日の登板の姿を思い浮かべると、胸が高鳴るのを感じる。しばらく調べると、今度はグッズの通信販売のページを開いた。

 ユニフォーム、買っちゃおうかな。

 チームのピンチを支える姿に、憧れを感じた。記事にも、ブルペンでは不安を持っているが、マウンドでは自分の不安や恐怖を打ち消して臨むために胸に手を当てていることが書かれていた。その場ですべての弱気を払しょくするためのルーティンワークらしい。

 どんな場面でも、強い気持ちを持つ。比べてはいけないが私も仕事の最中に自分に言い聞かせながら、厳しい仕事に立ち向かってきた。自分の出番がどういうタイミングであっても、自分自身を崩さずに立ち向かう彼に共感して、もっと応援したいという気持ちが湧いた。

 喉が渇いていたせいか、ビールがすぐに空になっている。もう一度重い体を動かして、冷蔵庫に向かう。今度は買い置きをしていたレモンサワーを開けた。

 タオルは買おうと決めたが、ユニフォームは中々勢いがつかない。やはり、一万四千円の買い物。独身といえど、即決はできなかった。

 最近、刺激が多いな。異動してきたころは、もっと静かな生活を送れると思っていた。

人間関係の悩みに巻き込まれるのは趣味に目覚めたからなのかは不明だが、少なくとも野球を介して出会った人の事ばかり考えている。

 次の観戦日程は決まっていないが、今シーズンにはユニフォームを着て観戦に行きたい。小さな目標を立てたが、体中を回るアルコールで私は自然と意識が薄れていった。


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