モヤモヤした気持ち
久しぶりの新しい仕事は、電話で発注をかけていた資材をネットのアプリでの登録に切り替えるものだった。電話対応ではお互いに時間の制約があり、このシステムが負担になっていた。数か月前まで経営相談員というルート営業の側での意見を部署に反映をさせた形で提案をしたのだ。
新しいシステムの変更は部内でも消極的な意見が大きいが、反対意見に対しての対策は準備してきていたので、部内での仕事の負担も減ることが説明できたおかげで進める結論に至った。
「専任でやってもらいたいけど、部署の仕事も滞らせるわけにはいかないからね」
マネージャーの高浜さんも私の提案に若干心配を見せた。
「わかっております。通常業務は進めていきながら、この形での変更への準備を進めていきます。皆様にご迷惑はおかけしません」
年齢の高いこの部署で、そんなに熱を持って仕事に取組みというのは違うのかもしれない。しかし、どの部署にも改善をしなければならないものはあるはず。この数か月間で私なりに部内の課題や改善点を学んできていたつもりだ。
「鹿島さん、今日もお疲れ様」
隣のデスクの山岡さんが声をかけてくれた。白髪交じりの眼鏡をかけた男性で、いつも優しい声をかけてくれるので相談をしていた。仕事は遅いがこの部署は長いので、困ったことは何でも聞いていた。
「お疲れさまでした」
「いつも頑張っているけど、最近は顔色もいいし、すごくよくなったよ」
「そうですか。自分では特に変わったことはないのですが」
手を横に振って否定した。
「まあ、無理はせずに困っていたらなんでも教えてください。微力ながら、力になりますので」
「ありがとうございます。山岡さんに言って頂いたら、私も心強いです」
頭を下げた。こうやって、仕事を見てくれているだけでもありがたい。
部内の人間がほとんどいなくなったところで、私も片付けを始めた。あまり残業の出来る部署ではないので、仕事に入れ込むことはできない。それに、今日はツインスターズのナイターがある。出来る限り早めに試合を見たい。
いつも最後まで残っている高浜さんに挨拶をして、会社を出た。梅雨前の何とも言えない空を見ながら、今日はドームだなと安心をした。
私は社内でも人とのかかわりを絶っているものの、軽い噂話は聞く機会があった。
あの、赤田真帆が破局したらしい。
注目度が高い彼女の噂は、聞きたくなくても勝手に流れてくる。相手は、役員の息子だったらしく、インパクトのある話だった。彼女の悪評の中に、政略的に女を使って役員に取り入った結果という噂があった。
別れた理由に、なんとなく覚えがある。あの日の夜に外した指輪は、そういう意味だったに違いない。仲が良くなったからと聞くのは野暮な話。今後会った時に赤田さんが話したかったら話せばよい。
あの笑顔が見られれば、裏に大きな隠し事があっても問題はない。野球を通してできたかけがえのない関係を大切にしていたい。
改札を抜けて、途中まで読み進めた小説を開いた。気にしないのが一番。言い聞かせるが、元気がなくなっていないかは気になる。人の不幸が好きなわけではないので、この噂をあえて遠ざけていたが、やはり知りたいのが本音だ。
全然入って来ない内容に、思わず小説を閉じた。やはり、連絡しようかな。こういった場面に対しての経験が少ないせいで、なんてチャットをしていいのかわからない。
迷っていると、サイネージが光った。相手は由香里だった。
そういえば、次週の週末彼女の誘っていたのだった。中間テストが終わっており、ぜひ行きたいと返信が来ていた。
久しぶりに行けるな。誘いに乗ってもらったので、安堵していた。まあ、彼女が行けなくても一人で行くつもりではあったのだが。
一度考えると、モヤモヤする。仕事の際もそうだった。考えて答えが出ないとこうやってずっと考えてしまう。結果や答えが出ないと満足できない性格で、自分でも子の面倒な個性は嫌いだ。
心配しているなら、はっきりというべきだ。いや、その場面で話さなかったのは言いたくなかったからに違いない。それを無理やり聞き出すのは、デリカシーにかけるのではないか。二人の私が脳内で口論を始める。感情的な私は行動的に動くが、冷静な私がそれを止める。
溜息をついた。いつもこうなっても、私生活では弱気な性格が勝つので、何もできないまま相手の行動を待つのが結論になる。わかり切った結末を、こんなに蒸し返す必要はあるのだろうか。時間の無駄遣いだ。
スマートフォンで、試合の速報を確認する。四回表、ツインスターズは二点のリードを許していた。先発のフェルナンデス投手は最近、初回での失点が多い。気になっていたが、今日も厳しいか。
赤田さんの件も重なり、梅雨のようなじめじめとした気持ちになった。不快感を覚えながら帰宅した。
家でテレビをつけたものの、負けている状況での観戦は心が痛む。万が一でも、この数分間で逆転していないかと淡い期待を持っていた。そんなわけはない。
しばらくぼんやりと試合を見ていた。ちょうど、攻撃中で得点のチャンスだったからだ。期待をしてみていたが、今日は私の気持ち同様、バットが湿っているのではないかと思うほど繋がりが悪い。打てない際にバットが湿っているようだという言葉は最近覚えたのだが、使いやすい言葉だと思う。
チェンジになった際にスーツを脱いで、ジャケットをハンガーにかけた。キャミソールのままでも寒くはないが、キャミソールを脱ぐと、長袖のTシャツに袖を通した。下はいつも穿いているジャージに手を伸ばした。
仕事は自らの提案を挑戦させてもらう意味でも、これからが楽しみだ。それなのに、赤田さんの心配で気持ちはモヤモヤしていた。あの時は前向きな話の仕方だったので、悩みが解決したのであればよかったと単純に思っていた。しかし、破局と聞くと彼女が心配で仕方ない。
やはり、自分は人に絡まない方が精神衛生的にはよいはず。ここまで無駄に考えて、行動皆無な自分に対して心底呆れていた。
冷蔵庫から買い置きの缶ビールを出すと、プルタブを開けて一気に半分ほど飲み干した。悩みも一緒に胃の中で消化してほしかった。疲れているせいもあって、一気に意識が鈍っていく。
中継ぎ陣も今日はぱっとしない。相手チームが更に追加点を入れる。全勝なんてすることはない。わかっていても腹は立つ。
今日はどんなに考えたところで、明るい答えは出ませんね。
心の中で、私が私に提案をするように声をかけてくる。
カーペットの上に寝転がって、ぼんやりとテレビを観た。投手交代となり、コマーシャルに切り替わったタイミングで私が目を閉じた。
チームは二連敗した状況で週末を迎えた。久しぶりに抽選に当たってホーム側の席で見られるので、いい試合をしてほしいと期待しながらも不安が消えない観戦になりそうだ。
由香里とは、試合の三時間前に待ち合わせをしていた。グッズを見てから、開場も間もない時間に入ろうと話をしていた。
球場の中は様々な見どころがある。開場時間間もないタイミングでは、グランドで選手が練習をしている。その他にも売店やイベントスペースなどがあり、試合前に楽しむ場所が多く用意されているのだ。野球を見に来るのが最大の目的だとしても、それ以外にも飽きないのは嬉しい限りだ。ただし、私たちは試合も楽しみなので、試合前から見て回ろうと話していたのだった。
決めていた入場ゲートの前で、由香里と待ち合わせをした。彼女はいつも通り、Tシャツにジーパンをはいてリュックを下げていた。かわいらしい顔立ちをしているが、目の力が強く、真面目さが顔に出ている。
「おはよう」
「おはようございます」
きちんと頭を下げてお辞儀をすると、表情がぱっと明るくなった。
「ごめんね、待たせちゃって」
「時間どおりですから。今日は天気も良かったので、少し散歩をしていました」
リュックには、選手のユニフォームをかたどったキーホルダーが一個だけついている。前面にファンという感じを出さないようだ。
「暑いよね。ショップ入ろうか」
「はい」
予定通りの流れで、私たちは試合までの時間を楽しんだ。無機質な人生を送っていた私としては、買い物は目的を持って効率的にするものだった。仲のいい人間と一緒に商品を眺めるだけの時間がこんなに楽しいなんて、想像もしていなかった。
彼女に合わせて、お金を使わない日は合わせるようにしている。それはもちろん、彼女には話していない。しかし、大人ぶってお金を出してしまえば、由香里の性格上気にすると思った。そのため、今日はお金を使うと決めた日以外は、なるべく無駄な出費をしないように決めていた。
観戦の仕方も様々だ。気にせずに球場を満喫したいと思うのもありだが、好きな仲間と一緒にこの場所で野球を見るだけの日もいいものだ。今日はいい席を取ったので、その分の消費は抑えることにしていた。
「ああ、欲しいものばっかり。お小遣い貯めないと」
アルバイトが出来ない由香里は、ため息をついた。
「そうだね、またグッズ増えていたね」
「そうなんですよ。イベントの限定品とか出るので、毎回迷うのですよね。でも、自分で決めた予算で買ったものだから、大切にしますので」
そう言って、首に下げているタオルを握って見せた。
「私もそろそろユニフォームほしいな」
「推しの選手、出来ましたか」
「うーん、みんな魅力的で絞れないよね」
直感で決めていいのではないかとアドバイスは受けていたが、決めかねていた。選手もチームも好きだが、特定の選手への応援には至っていなかった。
勢いで購入していたファルコンズのユニフォームを考えると、本命のツインスターズのユニフォームは欲しい。ただ、好きだからこそ、その日のノリで購入するのは憚られる。
今日の試合で、推しの選手ができればいいな。
言葉に出さずに、私は由香里と共にスタンドに向かって歩いて行った。
「今日の雪乃さん、何か考えていますか」
席に座ってから、由香里は訊ねた。ちゃんと笑っていたし、そんな変化を見せてはいないはずなのだが。
「いえ、別に考えてはいないけど」
周りは試合の開始に合わせて、少しずつ席が埋まってきている。ウォーミングアップをするトランペットの音が聞こえる中で、二人の間には静寂が流れていた。由香里は今までに見たことのない、目を細めて私を眺めていた。
「そうですか。私、嘘や隠し事は嫌いですが」
声も低くなり、眉間にしわを寄せている。
「由香里ちゃんに対してではないから、大丈夫だよ。本当に、嘘なんてつくわけがないじゃない」
「そういうの、本当に嫌です。悩んでいるなら、はっきり言えばいいのに。なんだろう、気分悪いです」
人には言いたくない話だってあるのに、内容も分からないうちからここまで言ってくる由香里に若干嫌悪感はあった。まだ若いからだとは思うが、ここまで言い切るのはいささか不快に感じる。
「仕事先の話だから、由香里ちゃんに話すものもおかしいと思って。顔に出していたなら、ごめんなさい」
「いえ、言いたくない気持ちはわかります。でも、せっかく仲良くなったのだから、私も心配になりますから」
最初から、まっすぐな子だったよな。気持ちを落ち着けて、考え直した。彼女は素直に感じた気持ちを話しているのだろう。意外に強引だった性格に驚いたが、個性は様々なのだから、受け入れよう。彼女は変な部分を覆すほどの魅力は充分持っている。
「あのね、会社で仲良くしてもらっている先輩がいるのだけど・・・」
試合前の大事な時間帯。スタメンを見ながら今日の試合の展望を話すはずの時間に、私は赤田さんへの心配を年の離れた女の子に真剣に話していた。由香里も言い出しただけに、まっすぐな視線を崩さずに聞いてくれた。
「そういう話だったのですね」
「もしかしたら、一緒に試合を見に行った時に私が余計な話をしているのかもしれないと思ったら、罪悪感があって」
しばらく、由香里は左手で顎を摩りながら考えていた。恋愛経験もなさそうな女子高校に通う女の子に、この話題のいい答えはない気がする。
「結論から言うと、雪乃さんが何か感じる必要はないのでは」
さらりと、答えを出してきた。
「いや、でも、あの日に変なことを言わなければ・・・」
「言っていないじゃないですか。お話を聞いている限りでは、赤田さん自身が迷いながらも、答えを決めていた気がします」
確かに、そんな気もしないわけではない。しかし、楽観的に考えていいのかと後ろ向きになっていたのも事実だ。期待はしていなかった分、すっきりとした答えをもらって気持ちが軽くなった。
「そうかな」
「まあ、ここでの話は全て推測に過ぎないので、本人に聞くのが一番ではないでしょうか」
「本人には聞けないよね。話したくないと思うし」
「じゃあ、そのままにしていいのでは」
こんなに年下から、あっさりと悩みを返されるなんて想像もしていなかった。しかも、会話が押されている気がする。
「でもさあ」
「どちらか決めるべきですよ。気になっているのであれば」
あくまでもグランドから目を離さないで、彼女は淡々と話を続けた。
「私は大切な人が悩んでいたら、原因を知りたいです。だから、雪乃さんに聞きました。でも、雪乃さんは聞かないと決めたのであれば、考える必要なんてありません。先輩が自ら話すまでは無駄に悩まずに待っていればいいじゃないですか」
当たり前の返しをされて、無言になってしまった。そんなの、わかっている。わかっているが、止められないからこうやってモヤモヤしている。由香里のようにまっすぐに聞ければ、確かに悩まないのだろう。
「すみません、強引に聞いてしまって」
こちらを振り返ると、彼女は丁寧に頭を下げた。私の知っている由香里に戻って、少し安心した。話し方次第では、このまま喧嘩別れになってもおかしくないと私の中の警報が鳴っていたので、心拍数も上がっている。
「いいの。私も態度に出てしまってごめんなさい。せっかくのお休みなのに、台無しだよね」
「いいえ、悩みもいやな気分も、すべてを発散させるために球場に来ているのではないですか。雪乃さんは違うかもですが、私はそうです。テストがうまくいかなかったことも、友達との関係に悩んだ時も、ここに来れば気持ちが軽くなります」
まだ若いと決めつけていたが、彼女も普段悩みながら生きているのだ。自分とは違う悩みだが、感じる気持ちは同じなのだ。
単純に楽しむだけではなく、自分を選手に投影して応援することで、普段の悩みを解消しているのだろう。
「由香里ちゃんも、悩みがあるの」
不意の質問だったのか、彼女は少しの間こちらをぼんやり見つめた。
「いいえ、そんな大層なものはないです」
大袈裟に手を振って見せた。そういえば、彼女は学校については話を避けていた気がする。そう考えると、ここでは深く聞かない方が良さそうだ。
「じゃあ、由香里ちゃんも悩みがあったら私に隠さないでほしい。約束ね」
深く聞くのを避ける意味でも、この話を終わらせることにした。しばし考えてから、由香里は笑顔を作った。
「はい、約束します」
元気な返事に安心をしたところで、バックスクリーン上のビジョンが切り替わり、試合が始まった。