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初めての神宮観戦

 朝六時に目を覚まして、部屋の掃除をする。週末の朝はそこから始まる。

 五月の中旬にはなるが、既に朝から若干汗ばむような気温で天気も一日快晴と予報が出ている日だ。天気予報は数日前から気にしていた。

 東京ドームと違って、今回誘っていただいた神宮球場は野外の球場になっているので天候が非常に大切だ。赤田さんから、日差しは強いので日焼け止めや服装のポイントを送ってもらっていた。

 この後のイベントが楽しみで、掃除をしながら思わず鼻歌が自然と出ていた。この一か月弱で、私の生活は大きく変わった。数か月前は週末の朝に起きても、溜まった残務を仕上げてから日用品を買いに出かけて、終わった後も仕事が頭から離れないまま、小説を一日中読んで過ごしていた。

 観戦用のリュックを引っ張り出して、中身を確認する。ツインスターズのタオルを今日はおいていこう。汗を拭くためのタオルや、買っておいたお茶を中に入れた。ファルコンズのグッズはないが、せっかくなのでこの後購入しようと思う。選手は分からないが、由香里の時のように赤田さんにも聞けばいい。

 随分と前向きに考えているのに気づき、一人の部屋で笑みがこぼれた。ここまではまるなんて、想像もしていなかった。

 ジーンズに白のTシャツ、その上にボタン付きのブラウスを着て準備完了。半袖の方がいいと言われているが、どうしても長袖になってしまう。私なりの最大限のおしゃれが完成した。今後を考えれば、もう少しカジュアルな私服は持っていた方がいい気がする。

 数少ないデートの記憶を思い出す。付き合った人数は二人。大学生の頃の二回だけだった。

初めては一学年上の先輩で、二回目は同級生。思い出は数えるほどしかないが、デートの日はこんな風に、ドキドキしながら準備をしていた。

 無論、赤田さんに恋心を抱いているわけではない。しかし、誰かと一緒に趣味を満喫するのが楽しみで仕方ない。子供のような気持ちで準備を進める。

 彼氏と一緒に出掛けるのも、いつも自分の意見を言えずに合わせるばかり。嫌われたくない気持ちが先行して、主張をできない私は彼らにとっては期待外れのつまらない女と映ったようだ。それは間違っていない。

 早い時間ではあるが、待ちきれずに家を出た。早く到着する分には構わないはず。球場の周辺はショップも多くあり、時間がいくらあっても足りないくらいだ。

 自分の興味あるものを、ここまで純粋に追い求めるのは初めてだ。誰かの希望に合わせて、なんとなくその場を楽しいものと言い聞かせながら過ごしていた。そのため、何かに熱中する経験もなく、みんなとも深い関係にならずに過ごしてきた。おそらく、彼氏だった人たちも、そんな私を見抜いていたのだ。

 楽しみが無かった分、仕事は簡単に没頭できた。やればやるほど、誰かが喜ぶ。その姿を見て、単純に私は自分の存在を確かめていたのかもしれない。生きる意味なんて、哲学的な思考は持ち合わせていない。しかし、感情が日々動かない人生を過ごしていたせいで、自分の存在価値については日々考えさせられていた。

 働けば働くほど、他の人から信頼される。どんなに負荷がかかっても、努力をすれば達成できるし、みんなも私を必要としてくれる。

 落ち着いて考えれば、それが自分を追い込む羽目になっていたのにあの頃は気が付かなかった。

 白のスニーカーは、最近になってから登板回数が増えている。仕事用のパンプス以外はほとんど靴も持っていなかったので、目的もなく動きやすいものとして買ってみたものだった。重さが無い為、足取りも自然と軽くなる。気分も自然と軽くなってきて、心拍数が早くなっているのを感じる。小学校の遠足のような気持ちと言えばいいのだろうか。

 仕事に没頭していたのが、全く悪かったとは思ってはいない。純粋に目の前の課題に向かっていき、各部署と連携して、上司から指摘や助言を頂きながら課題解決を達成できた経験はこれからの私の人生のプラスにはなるに違いない。

 しかし、このまま続けていたら、どこかで大事なものを失っていたのではないかと、最近ふと感じるようになった。

 疲れていたのかな。

 一呼吸を置くことで、見えてきたものが確実にある。ただ、だからと言って今を納得するに至るわけではないが。

 気持ちよく出たのに、また仕事のことか。ため息をついた。せっかくの休みなのだから、もっと周りの新鮮な景色を堪能したい。普段会社に向かうために早足で過ぎる道も、こうやって余裕を持っているのだから、もっと目に焼き付けよう。

 路地で遊ぶ子供たちを眺めながら、駅に向かって歩いた。駅まであとわずかのところで、スマートフォンの通知音がした。

 今日は、何時くらいに着く予定かな。

 赤田さんからだった。集合時間を決めていなかったので、そのあたりが曖昧だった。チケットは電子チケットの為、既に送ってもらっていたので球場前で待ち合わせる必要もなかった。

 素直に、もう少ししたら電車に乗ると返信を入れた。試合の二時間前には球場の最寄り駅である外苑前に着く計算だ。

 返信はすぐに着た。

 良かった。そうしたら、駅に着いたら連絡もらえますか。少し買い物してから中に入ろうよ。

 絵文字もない平凡な文章。私にまだ心を開いていないのだろう。遠慮しているのが、文章からも伝わってくる。

 ありがとうございます。私も慣れていないので、非常に助かります。

 私も合わせるように、丁寧に返信をした。まあ、砕けろと言われても私の方は無理なのだが。

 予定通りの電車に乗り、空いていたので席に座った。土曜日の朝とあって、車内は空いている。返信に対して、既読のみになっているので若干の不安を覚えた。返信は間違っていないはず。

 神宮球場は初めてで、最寄り駅が外苑前なのは赤田さんに教えてもらった。上京してから、東京の観光名所はほとんど立ち寄った経験もないので、銀座線と聞いただけでも都会の雰囲気に気圧されている自分がいる。

 テレビで見た場所に行くのか。東京ドームもそうだったはずだが、嫌々だったデビュー戦の気持ちのおかげか、そこまでの緊張はなかった。しかし、今は自分から望んでいく場所がこんなにおしゃれな響きの場所でいいのかと疑心暗鬼になってくる。

 服装は砕けたものを意識したが、これでよかったのか。慣れていないのが伝わると、赤田さんに迷惑をかけてしまうのではないか。今からでも服装を聞くべきか。彼女は、動きやすいものであればなんでもいいよと言ってくれた。それならば、このまま行くべきではないか。

 結局、期待感なのか緊張なのかわからないまま、高い心拍数の女が一人で外苑前に降り立った。乗り換えた銀座線は人が多く、ファルコンズのユニフォームを着た人が沢山いた。

 自然と女性の服装や雰囲気を見た。綺麗な人が多いな。服装こそ浮いていないが、みんな笑顔で明るく見えて、違う意味で浮いていないか更に不安が増していった。

 外苑前の駅も地下鉄なので、階段やエスカレーターを使って上に行くまでに距離がある。

 これから野球を見ようとしている人だけではなく、綺麗な格好をしたカップルも多くいて、都心にきた感じがした。

 階段を上り切った出口からすぐの交差点近くに、赤田さんは立っていた。オフホワイトのロングスカートに黒のカットソーという服装で、いつものトートバックを抱えていた。

「すみません、お待たせしてしまい」

 まさか、こんなところで待たせてしまうとは。小走りで近づき、頭を下げた。

「いや、ちょうど着いたところだよ」

 いつもより大きなピアスを付けており、メイクもいつもよりピンクを基調としたものになっている。目鼻が整った印象があったが、今日は年齢よりも若く見える。

「普段着、初めて見たから新鮮だなあ」

 柔らかい口調で、彼女は切り出した。逆に私は見とれてしまい、言葉が出なかった。

「なんか、変かな」

「いえ、あの、綺麗だなって思って」

 私の反応に眉毛が上がったが、直ぐに笑顔に戻った。

「ありがとう。ここで話すのも変だから、行こうか」

 そう言って歩き始めた。周りの視線が彼女に向いているのを横にいても感じる。会社内でも圧倒的な美人と評判だが、外に出てもそれは変わらないようだ。

「なんでこんなに早く来たの」

「私神宮球場も外苑前駅も初めてだったので、試合の前に色々雰囲気を知りたかったので。でも、本当はドキドキして、待っていられなかったのが本音ですが」

「意外だなあ。そんなに楽しみにしていてくれたならよかった」

 秩父宮ラグビー場を抜けて、神宮球場が見えてきた。そのまま入るのかと思ったら、赤田さんはゲートを通り過ぎていった。訳もわからないまま、私は黙ってついていった。

 聖徳記念絵画館の前まで来て、彼女は足を止めた。

「鹿島さん、今日は来てくれてありがとう」

 彼女は向き直って、急に頭を下げた。

「そんな、わたしこそ誘っていただいてありがとうございます」

「あのね、鹿島さんが私のことをどう見ているのかわからないけど、私は鹿島さんには本音で話せる関係になりたいと思うの。だから、今日は私の好きなように接していいかな」

 意味の分からない提案に、首を傾げてしまった。

「あの、よくわかりませんが、その方がいいですよ。だって、遠慮されても楽しめないではないですか」

 彼女の今までを考えても、変なことをしようと思っているとは到底思えない。むしろ、今までのように気を遣ってもらうのも変なので、ここは素直に頷いた。

「ありがとう。だから、鹿島さんも今日は遠慮しないでやりたいことを教えてね」

 なんか、緊張しているのかな。頬を赤らめて、真面目な表情の赤田さんには違和感を覚える。この雰囲気のままでは何も進まない気がするので、甘えてみることにした。

「わかりました。そうしましたら、観戦に必要なグッズを揃えたいのですが」

 一番の不安は、観戦で浮くことのない準備だった。驚いたように私を見ていたが、赤田さんの頬の赤さが少し薄くなった。

「そうだね、まずはそこから揃えよう」

 小走りで勝手に歩き始めた。

「このお店はグッズの種類多いけど、ちょっと混んでいるから球場に入ろうか」

 あの話をするために、わざわざ球場を通過したようだった。当たり前のような話をされて、面食らっている。深い意味が隠されているとも思えないが、なぜわざわざ聞いたのか。

 記載されているゲートから入場して、席にまずは向かった。入ってから席までの距離は近いので、迷うことなく探すことができた。通路に近い席を抑えてくれていたようだ。

「どうかな、結構見やすいでしょう」

「はい、外野席での観戦は初めてですが、臨場感がありますね」

 座らずに、そのままグッズを買いに向かった。

「ユニフォーム、貸す分も持ってきたよ」

「いえ、この際ですから一枚買っておこうかと思います」

 この先も見に行きたいという気持ちを、遠回しに表現したつもりだ。赤田さんの表情も緩くなった。

「推しの選手はいるの」

「すみません、全然いません」

 素直に謝った。こんな人間で、ユニフォームなんておこがましいのかもしれない。

「じゃあ、これだ」

 彼女が取ってきたのは、マスコットキャラクターのファルコ君のものだ。そもそも、マスコットのユニフォームがあるのが驚きだった。

「ファルコ君のもあるのですね」

「そうだよ、これなら迷うことなく、長く使えるから」

 生まれて初めて買ったユニフォームが、公式マスコットなのは想定外だが、赤田さんのいう通りな気がする。これと一緒に応援用のタオルを購入した。

「じゃあ、今度は私の番だね」

 そう言って、私を連れて今度は食べ物を購入する流れになった。

「レモンサワーでいいかな」

「はい。でも、自分の分は・・・」

「いいから、ここは見ていて」

 強い口調で言うと、レモンサワーと唐揚げを二つずつ購入すると、その足で丼物を買ってから席に戻った。

「今日は先輩も上司もいないから、好きなだけ飲んで、好きなだけ食べようね」

 まだ練習の時間が残っていたみたいで、しばらく練習を見ながら買ってもらったご飯を頂いた。量は多い気もするが、赤田さんはあっさりと完食した。

「お腹空いてなかった」

 あまり進んでいない私を見て、彼女は訊ねた。

「いえ、そんなことはないですが、ゆっくり食べようと思って」

「もしかして、大食いとか思って引いてないよね」

「別に、そこは気になっていません」

 正直見た目とのギャップは感じているが、羽を伸ばしたいと思っているのが強く伝わるので、変な目で見る気は一切なかった。むしろ、ありのままの赤田真帆が見られて、悪い気がしない。

「よかった。あのさ、私って近寄りがたいかな」

 気付けば、レモンサワーも既に空になっていた。大きな目が、少し細くなっている。

「いえ、そうは思いませんよ。でも、人気があって、いつも人が周りにいるよなって印象はありました」

「そうか、そうなのね。逆だよ、全然いません」

 そういうと、立ち上がった。

「お酒買ってくるね。鹿島さんはいる」

「まだたくさん残っています。買ってきましょうか」

「気を遣わなくていいよ。ちょっと出てくるね」

 言い残して、彼女は売店へ消えていった。まだ試合までは時間があるが、そろそろ出場選手の発表があるはずだ。デーゲームで、日差しが強い。タオルで汗をぬぐった。

 出ていくときの態度が気にかかって、ぼんやりと埋まっていく席を眺めながら不安になった。冷めた口調で言い残されたのが、自分の行動に過ちがあったのではないかと先ほどまでの行動を逆算して考えるようになってしまった。

 こういった場所も人間関係でのコミュニケーションも希薄だった私としては、相手の行動変化に対して敏感だ。人と話すのが嫌いではないが、人から嫌な気持ちを持たれるのが耐えられないからこうやって今まで人と関わらなかったのだ。

 ルート営業に近い仕事だったので、この性格はむしろ好都合だったが、こういう繊細な性格はプライベートでは封印してほしい。

 レモンサワーが進む。いや、のどが渇くのでついつい飲んでしまうのが正しい。一緒に買ってもらった唐揚げの組み合わせも絶妙だ。赤田さんは中々戻って来なかった。

 東京ドームと違って、投手の練習場所が外にあって、お互いのスペースで投手が投げている。ビジョンに映っていた投手のようで、この後の試合での先発なので、最終の準備をしているのだろう。

「ごめんね、時間がかかって」

 赤田さんはビールと焼きそばを抱えて戻ってきた。あれだけ食べて、更に食べられるのか。

「いえ、投手の練習スペースって、外にあるのですね」

「ああ、ブルペンね。神宮球場はそうなのよ。今日は岸本と楢橋なので、投手戦になりそう」

 以前と違って、単語は少しずつ理解できるようになった。いい投手同士の試合は点数が入りにくく、投手戦と言われる。由香里は試合の臨場感を味わう時は、投手戦よりも打ち合いの方が好きだと話していたのを思い出した。

「そうなんですね。そういえば、さっきの話・・・」

 言いかけて、途中でやめた。もしかしたら、話したくなくてここを離れたのかもしれないのに、私が戻すのはおかしい気がした。

「私の話のこと」

 首を横に傾げたが、目を細めてこちらを見た。この表情はどんな感情なのかわからない。

「途中になっていたので」

 触らなくていいのに、話の筋が見えないと聞いてしまうのは悪い癖だ。

「よく考えれば、近寄りがたいっていうのは違うのかもしれないね。でもさ、私って勝手なイメージを持たれることが多いのよね。頭がいいとか、愛想がいいとか」

 ビールに口を付けてから、赤田さんは話した。

「それなりに努力はしてきたけど、陰口を言われているうちに見かけだけで今のポジションを得た気がしていたの。そう思ううちに、みんなの思っている赤田真帆を守らないといけないっていつも気にするようになっちゃって」

 こちらに向けずに、彼女の目線はグランドに向かっていた。食堂では言えない話に追いつけていない私だが、赤田さんがストレスを感じていたのはわかった。

 仕事も人間関係も恵まれているように見える人にも、その人にしかわからない悩みを抱えているのだ。男性が多い会社の中なので、私ですら女だからというワードを使われた経験は一度ではなかった。特に赤田さんのような本社勤務は羨望の的になる。それであの容姿なら、目につかない方がおかしい。

「いうやつには、言わせておけばよくないですか」

 無意識に口を突いて出た。赤田さんが驚いたようにこちらを向く。

「どんな部門にも、人の努力を見ないでポジションばかり見てくる奴なんて沢山いるじゃないですか。くだらないですよね。そんな話聞いても、得はないですよ。赤田さんをまっすぐに見てくれる人だけ見ていればいいのですよ」

 言ってからはっとした。暑さで酒が進んでいたせいだ。

「ごめんなさい、私も飲み物買ってきますね」

「鹿島さん、ありがとう」

 立ち上がった私に、赤田さんが頭を下げた。

「やめてください。お手洗いも行きたいので、少し離れます」

 恥ずかしくなって、言葉を遮る形になってしまった。焦っているので、頭が真っ白になって彼女の顔が見られない。

 悪い癖が出た。時として、感情が抑えられないと自分の素の姿が突発的に表れる。化粧室に並びながら、頭を冷やそうと深呼吸をした。

 彼女の話を聞いて、思わず感情的になってしまった。別に彼女と同じ経験をしたからではないが、彼女の孤独が伝わって力になりたいと強く意識が向いた。

 周りに人がいるのに、自分を出せなくて感じる孤独も辛そうだな。

 楽しそうに通り過ぎる人の中で、雰囲気に反した気持ちを考えている。私に求めているものがあるはず。

 追加のレモンサワーを購入すると、席に戻った。とにかくどこも人が多く、並ぶのは時間がかかる。しかし、冷静に戻せる時間としてはちょうどよかった。

「すみません、遅くなりました」

「いいえ」

 気付けば、カップの数が増えている。売り子さんから購入していたようだ。

「暑いですよね」

 遠回しに聞いてみた。彼女の視線が、重なったカップに移る。

「そうだね。いない間に追加しちゃった」

 あどけない笑顔を見せる。本当の姿は、おそらくこちらなのだろうと思う。

「私も気にせず、たくさん飲みますね」

 変に気を遣わないようにしよう。彼女の横の席に腰かけた。

「そろそろユニフォームを着ようか」

 トートバックから、ユニフォームを出した。五十二番田上投手のものだった。

「赤田さんの推しの選手ですね」

「そうです。私の元気の源」

 深くは語らず、お酒を飲んだ。試合の始まる前で、チアリーダーのダンスが始まっており、そこが気になっているのかなと気にはならなかった。

 想定通り、試合は投手戦になった。ヒットはおろか、ランナーすら出ない展開で、いつもよりも試合は早めに進行していた。赤田さん野球情報を聞きながら、心地よい時間を過ごした。

「次の回くらいで動くかな」

 投手の練習場を見ながら、彼女が呟いた。

「練習しているからですか」

「そうだよ。あそこはブルペンといって、次に投げる投手が準備するの。立っているときはまだウォーミングアップだけど、もうキャッチャーが座っているでしょう。そろそろ動くはず」

 口元は笑顔を崩さないが、目はまっすぐにブルペンを見ている。二人の投手が投げているが、片方は田上投手だった。

 試合を見ながらも、ブルペンをチラチラ見ている赤田さんが気になった。推しの選手の姿は、ずっと見ていたいのか。そういえば、由香里も同じような行動をしていた。

 六回の表、ワンアウトながら二塁三塁になってしまい、ファルコンズがピンチを迎えた。ここで投手コーチと監督が出てきた。

「交代だね」

 既に五杯目のピールに手を付けていた赤田さんが話しかけてきた。

「ブルペン見て」

 投手交代が告げられて、最後のボールを投げた投手のもとに、他の投手やコーチが集まり、タオルと水を渡す。呼吸を整えてから向かう姿に、後ろでブルペンのスタッフや近くの観客までもが拍手を送っているのを見て胸が熱くなった。

 このピンチとわかる状況でもまっすぐに向かっている中継ぎ投手の姿に、ピンチになった時に颯爽と現れるヒーローの姿が重なった。

「いいでしょう。この回は中山投手だったけど」

 左投げの投手がマウンドに向かった。

「このタイミングは中山か田上だけど、打線が左打ちで続くから中山だよね」

 独り言のように、赤田さんは頷いていた。キャッチャーとマウンド上で軽く会話をしたら、中山投手が投げ始める。ビジョンに登板数が記載されていたが、確かに五月で二十登板を超えている。

 ブルペンでは、まだ他の投手が準備をしている。中継ぎ投手の出番はそんなに長くない。

 このピンチを乗り越えられるのかをじっと見ていた。ファンではないチームだが、今はユニフォームも来ているので、真剣に応援をしている。周りも真剣に見ている観客が多いので、一体感を体中に覚えながら見守った。

 結果は、三振とセカンドゴロでピンチを切り抜けた。思わず、赤田さんとハイタッチをした。

「すごい、格好いいです」

「そうでしょう。このピンチを抑える姿が格好良くて」

 声が上ずって、興奮している。こんなに興奮したのは、いつぶりだろう。社会人になってからは、少なくともここまでドキドキするような機会はなかった。

「まだ、ブルペンは動いているのですね」

「八回は外国人のリチャード、九回は定本っていう流れにつなぐために、中山、田上が控えているの」

 勝ちパターンと呼ばれる、勝っているときにリードを守るための投手の出番が決まっているとの話だった。

「今は同点ですよね」

「今日は勝ちたいところだから、このまま勝ちパターンで投げると思うよ」

 確かに、ブルペンを眺めると田上と長身の外国人が投げている。

「良かったですね、田上投手見られて」

「確かにね。中継ぎって出ない日あるから。でもさ、大事な場面での登板が多いからいつも緊張感たっぷりの中で見ているの」

 暑い日だが、五月とあって吹く風は涼しい。汗ばんだ体に服がくっついて不快感はあるが、外で趣味を楽しんでいる気持ちが勝っている。

 私はお手洗いついでに、ウーロン茶を二人分買って戻った。少しだけだが、アルコールを抜きたかった。

「赤田さんも、どうぞ」

「ありがとう。そういえば、飲み過ぎちゃったよね」

 ケラケラ笑いながら、彼女は受け取ってくれた。大きな目はすっかり細くなり、垂れていた。白い肌も赤みを帯びていて、汗がキラキラ光っている。いつもと違って大きな口を開けて笑っていた。

 六回の裏の攻撃で、ファルコンズは打線がつながり二点を奪った。そして、赤田さんの推しがマウンドに上がる。

 七回の攻撃はラッキーセブンとあって、相手の球団応援歌が流れる。レフト側が騒がしくなっている中でも、ブルペンは変わらずこれからマウンドに向かう投手を送り出す準備をしていた。

 背番号五十二が強い球を投げると、全員の送り出しを受けてマウンドに小走りで向かった。赤田さんは興奮するのかと思いきや、タオルを強く握りしめてじっとマウンドに目を向けていた。

 彼女の想いが伝わるように、田上投手は直球を武器に相手から三振、センターフライ、レフトフライと三人で終わらせた。

「きっちり抑えたね」

 ほっとしたように、彼女は息を吐いた。タオルを強く握っていたせいで、皺が付いていた。そのタオルを二つにたたむと、ウーロン茶を口に運んだ。

「良かったですね。田上投手、格好いいです」

「でしょう。最高だよね」

 はにかんだ彼女に見とれてしまった。仕事の時に比べても、何倍も球場で見る赤田さんの方が魅力的だ。

 試合は二点を守り切り、ファルコンズが勝てた。ヒーローインタビューを聞きながら、ごみを片付けた。赤田さんは横で選手の話を聞いていた。

「いやあ、最高だった」

 午後の五時半だが、まだ辺りは明るい。気分が良かったので、直ぐには出ないで一緒にスタンドで写真まで撮っていた。

 沢山の人が歩く道を一緒に歩いていた。試合前と違って、赤田さんはゆっくりと歩いている。私もお腹が一杯だったので、このくらいがちょうどいい。

「食べ過ぎたね」

「そうですね」

 べらべらと話すわけでもないが、一緒に歩いているだけで気持ちが高ぶっていた。楽しい時間は、このお別れの前になると一気にテンションが落ちていく。もう少しで訪れる気持ちの落日に対して、余韻を楽しんでいたかった。

「すごく楽しかったよ。やっぱり、鹿島さんを誘ってよかった」

 分かれ道となる球場のゲート前で、彼女は私に話した。

「こちらこそ、誘って頂き、本当にありがとうございました」

「途中になっていたけどさ」

 彼女はそう言って、左手を空にかざした。薬指に光る指輪を眺めながら続けた。

「鹿島さんに言われて、私も自分自身に嘘をつくのはやめようと思って」

「今日の赤田さん、すごく過ごしやすかったです。いつもみたいに気を遣っていただくのも感謝はしていますが、本音で話せる関係っていいですよね」

「恥ずかしいなあ。すぐには慣れないと思うけど、これからもよろしくね」

 右手で指輪を引き抜いた。そうして、こちらに笑顔を向けた。

「また誘うね。これからも、時間が合えばいきましょう」

「はい、ぜひお願いします」

 あえて深くは訊かないでおこう。彼女が何かを割り切ったのはわかったが、この話は彼女が話したくなった時に聞きたいと思う。

 心なしか大きくなった足跡を聞きながら、私は背中を見送ってから帰路についた。

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