観戦へのお礼
ただ単純に仕事をする日々を過ごしていたはずが、ふとしたきっかけで週末の楽しみを得た。想像をしていた趣味とは大きく外れていたが、こんなに楽しめるとは思わなかった。
午前中は黙々と仕事をしていたが、どこかで赤田さんに連絡をしたいとソワソワしていた。忙しいのに、仕事外で連絡をしていいのか憚られたが、自分の携帯電話でチャットをしておいたので気付いてくれていれば、昼休みに会いに行く。
十二時になると、さっそく携帯電話を見た。サイネージに返信の通知がある。しかも、二件あった。
一件は赤田さんだ。お渡ししたいものがあるので、お時間を頂きたいと送ったメールに対してだった。お昼は食堂にいるのと、今日ならデスクにいるからいつでもいいとのことだった。
会社内を把握できていない状況で、普段全く縁のない部署に顔を出すのは無謀すぎる。この時間に食堂にいてくれるのであればちょうどいいので、向かうことにした。
鞄から紙袋を出すと、私はお昼を頂くと告げて総務部のエリアを後にした。階段を抜けていくが、五階まで登るのは楽ではない。息が上がっていくのを感じて、運動不足を痛感する。
「あれ、鹿島じゃない」
すれ違いざまに、声をかけられた。
ダークグレーのパンツスーツを着た、細身で長身の女性だ。今一番会いたくない人間だ。
「お久しぶりです」
感情の無い挨拶をすると、相手の顔が曇った。黒い髪を一本に縛って、切れ長の目の力が強いので、いつも話をしているときには緊張が走った。
「元気にしている」
「はい、残業も休日出勤もないので充実していますよ」
嫌味に聞こえてもいいと思って話した。相手は頷いた。
「心身が落ち着いているなら、今はそれでいいと思う。今度時間あったら、一緒にご飯でもいきましょう」
「はい、ありがとうございます」
感情を入れないまま返事をした。彼女の配下にいるときは、この態度を何度もたしなめられた。
あんたは、自分の感情にまっすぐ過ぎるの。私の下にいるうちはいいけど、いつかは直しなさい。
そう言って、いつも背中を強くたたかれた。会議の際に先輩と議論になる度に、私の態度が変わる癖を注意しながらも、納得いくまで話に付き合ってくれた。
もっと、落合さんの下で働きたかったです。なんで私を捨てたのですか。
彼女から辞令の連絡を受けた際も、そして今だって、言えるなら何度でも口にしたい。でも、彼女に捨てられた感情の方が強く、何も言えないままこうやって彼女を避けるしかできない。
私の中で、目の前の落合さんこそが最高の上司だった。彼女の下で反発をしながらも、成果が出るまで毎日必死にやってきた。それなのに、彼女が私をこの部署に追いやったのだ。
「気持ちが落ち着くのを待つからね」
珍しく言葉を詰まらせながら話した。彼女としても、異動をさせた人間に話をするのは言葉を選ぶのだろう。その姿にすら、寂しさを覚えた。
「ありがとうございます」
最後まで淡々と答えて、落合さんと別れた。
気持ちの整理がつくのは、もう少し時間を置かなければならない。確かに、この数日のおかげで私の生活に光がさしたが、ほとんどの時間を目の前の仕事に捧げて没頭していた私としては、この状況を受け入れて前向きにいなさいと言われても受け入れられるわけがない。
気持ちを切り替えて食堂に入った。広い食堂だが、赤田さんは目立つのでそこまで焦っていなかった。
少し浮いた存在なのか、彼女の周りは少し席が空いている。まあ、様々なうわさもある人間の為、近寄りがたい存在でもあるようだ。
予想通り、彼女は食堂の奥の方に座っていた。
「こんにちは。横に座ってもよろしいでしょうか」
私は声をかけた。昼の時間を考えれば、ここで一緒に食べるしかない。途中で落合さんにも声をかけられて、休憩時間もそこまで余裕がない。
「ああ、鹿島さん。どうぞ」
明るい声で、彼女は答えた。
「すみません、お時間頂いて」
「いいえ、今日はいつものメンバーの休憩の時間がばらけたので、寂しかったから助かったよ。一緒に食べましょう」
向かい合った席に座ると、私は紙袋を渡した。忘れるといけないので、早めに渡したかった。
「あの、先日のドームの試合のお土産です」
「ええ、そんなのいいのに」
驚きながら、彼女は受け取ってくれた。東京ドームではその日の試合相手ではない限り、ファルコンズのグッズはおいていない。その為、ツインスターズのロゴは入っているが、おいしそうだったのでお菓子を購入してきた。
「前回のお礼も兼ねておりますので」
「ありがとう」
表情を緩めて彼女は頭を下げた。やはり、この人は可愛いな。笑顔を作るだけで、その場の雰囲気まで華やかになる気がする。
「あと、これなんですが、前回のお二人にもお渡しを頂きたいと思いまして」
そう言って、二つのお土産を赤田さんに渡した。お願いするのは失礼かと思ったが、上位職の方に直接お時間を頂くのも気が引けたので、近い存在の彼女にお願いすることにした。
「わざわざ買ってきたの。鹿島さん、しっかりしているね」
彼女は目を丸めた。私としては別に大したことをしたつもりはないが、珍しいのだろうか。
「楽しませていただいたので、何かお礼をしたいと思っていまして。失礼ですかね」
「そんなことないよ。二人には渡しておくね。今度、また行くときに誘うから」
「ありがとうございます」
「あのさ、試合どうだった」
明るい表情で、彼女は訊ねた。まるで友達に質問するような口調だ。仲良くしてもらえているならありがたいが、この質問には困った。
さて、本音で答えていいものか。
彼女はファルコンズのファンである以上、私が先日東京ドームでツインスターズの応援を楽しんで、おまけにツインスターズのファン友達を作ってしまったのを話せばどう思うだろうか。
せっかく始めた趣味だが、分からないことも多い。試合に誘ってくれる先輩との関係を終わらせるのは、得策ではない気がした。
そう考えると、この数日間で自分は結構打算的になったと思う。興味など持たずにひたすら家に帰って本を読む生活にはまっていれば、人間関係の悩みなんて生まれるはずもなかったはず。しかし、あの球場での雰囲気に溶け込んでいく感覚が忘れられない。
応援の熱気や、それを共有できる仲間との時間。心の中に熱が生まれて、それが日々の中でも何かをしようという気持ちになった。
まるで、仕事に向き合っている時間そのものだった。
私の中で、仕事はすべてだった。そのため、奪われたものが大きすぎて気持ちの整理がつかなかった。元々、人間関係の構築は業務の中にあったので、こうやって相手の気持ちを考えるのは習慣だった。しかし、部署を追放されてから、人間関係を煩わしいと思うようになっていたのだ。
「あの、楽しかったです。どの球団とか関係なく、今は野球って面白いなって思っていて」
わざとぼかして答えた。具体的に言えば、墓穴を掘る危険がある。
「一人でいったの」
「はい、友達も都合がつかなかったので。ルールははっきりとはわからなかったのですが、周りの雰囲気を見ながら楽しみました」
赤田さんの方を見ると、弁当を食べながらも複雑な表情を浮かべている。まさか、この言動で嘘がばれたのか。
由香里との出会いは、この場面で言うべきではないと思った。もちろん、ツインスターズのファンだとばれる危険と共に、あの一件を話して信じてもらえるとは思えない。
「一人で行くなんて、かなり野球にはまったの」
「はい、球場の雰囲気が特に好きです」
「そうなんだ。嬉しいな、そういう話を聞くと、誘ってよかったと思う」
嬉しそうな表情を彼女は向けた。自然とする上目遣いといい、彼女の仕草一つ一つが私の感情に刺さっている。
「いえ、最近楽しみがなかったので、野球観戦を教えてくれた赤田さんには感謝しています」
言えなかった感謝をここで口にできた。
「そんな、そうしたら今度はファルコンズをもっと好きになってもらうから、神宮球場での試合に誘うね」
私の本音には気が付いていないようで良かったが、このままファルコンズのファンに勧誘を受ける日々は続きそうだ。
やはり、野球のファンは同じ球団を応援してほしいと思うのが当然なのだろうか。見に行くのであれば、もちろんそうであるに違いない。関係を継続したいなら、このまま黙っていた方が無難だ。
その後は、他愛ない会話をして部屋に戻った。あと数分休憩の残り時間があるので、もう一件のチャットの連絡を確認した。
相手は由香里だった。あの日以降、彼女からもツインスターズの情報や近況の報告のチャットが少しずつ来るようになっていた。彼女は高校の校則が厳しいらしく、朝早くの時間から塾の終わりまではチャットをしてこない。塾の終わりといっても、午後十時を超えており、勉強量はかなり多い方だ。
合間を縫って私なんかにチャットをしてくれるのが申し訳ないが、話題を振ってくれるのも彼女の方が多かった。
そういえば、今週の日曜日の午後に会う約束をしていた。球場のチケットは外れてしまったので、近くの喫茶店でお話をしたいと誘いを受けた。
こちらも、まるで友達ではないか。戸惑ったが、せっかくの誘いと思って受けてみることにしたのだ。それに、ファンクラブの入り方やチケットの取り方など教えてほしいことがいくつかあった。
ネットを見て調べるのもいいが、せっかくなら現地に足を運んでいる人間の言葉を聞きたい。貪欲に知りたいことへの探求心が日々高まっていくのを自分の中で楽しんでいた。
待ち合わせ場所の確認だったので、時間と場所の候補を入れて返信をしておいた。彼女は今日も夜遅くに確認して、返信をくれるはずだ。
パソコンのタイピングが軽い。仕事をしていくうえで、息抜きがこんなに影響するとは思わなかった。早く終わらせたいという気持ちよりも、週末を充実させるために今を集中しようという気持ちが湧いてくる。
以前までは休日を趣味に使っている人間を見て、仕事に集中できているのかと感じていた自分がいた。遊びに時間を使っているのに、体力が湧いて来るなんて嘘だと思っていた。
性格がねじれていたのかもしれない。なんとなく、最近感じるようになっていた。しかし、何か嫌なものまで引き出しそうな気がして、ここから先は考えないようにしていた。