初めての観戦
残されたチケットを見ると、試合開始は十八時。仕事の終わりが十七時半なので、ぎりぎり間に合う時間だ。
溜息を吐いた。嫌な話が来てしまったな。全く興味のわかない話にげんなりとした。しかし、ここで捨てて帰るのもおかしいと思い、手に持ったまま部署に帰った。
仕事が溜まっていれば、それを理由に断ればよかったのだが、そういう日に限って仕事はさっさと終わる。家に帰って、夜中まで小説を読み漁りたいという野望までつぶれそうで、いら立ちを隠せずにいた。
私は立ち上がると、長浜さんのデスクに足を運んだ。
「長浜さん、私の仕事終わりました。何かお手伝いすることはありませんか」
定時まであと五分。ここで何か仕事が入れば、理由が出来るのだが。
「鹿島さん、今日はここで終わりにして準備しなさい。先ほど財務の赤田さんから連絡があったけど、今日は予定があるのだろう。遅れずに向かった方がいい」
まさか、手を打っているとは思わなかった。ここまでされたら、諦めよう。私は渋々デスクに戻ると、荷物を入れてフロアのみんなに挨拶をした。
それにしても、遊びに行く予定をわざわざ他部署に伝えるなんて、赤田さんも変わった人だな。今までの仕事の感覚からでは、ふざけているようにも感じる。前の部署では定時に上がるのも少なく、私用を前面に出すような雰囲気ではなかった。
いつもの道を歩きながら、頭を巡らせた。プロ野球観戦は生まれて二回目。一度、中学生の頃に父がチケットを頂いて帰ってきた。家族は誰も興味がなかったため、暇だからという理由で兄弟の中で一番年下の私が連れていかれる羽目になった。その時も、ルールも分からないので父が満足するまで席に座っていた記憶しかない。
そのため、何が必要なのかもわからないまま駅まで歩いた。そのままで行くのは逆に迷惑にならないか。でも、変なものを勝手に購入していくのはおかしい気がする。
南北線のホームに着くと、ちょうどよく電車が来た。足は進まないが電車に数分間揺られて、後楽園駅についた。
長いエスカレーターを数回乗り継ぎ、改札まで歩いた。赤田さんの姿はなく、部署からの配慮をもらった私の方が早くついてしまったようだった。
これでは、楽しみにしていたように思われないか。
くだらない考えがよぎったが、気にしても他に行く場所はない。しばらく改札の前に立っていた。それに、どう思われても私にとっては無駄な時間には変わりないのだ。
改札をドームに向かう人間が通過していく。すでに野球のユニフォームを来ている人間も多く、子供たちも楽しそうに球場に向かって歩いている。平日と会って、スーツ姿の人間も多く、私達のように仕事終わりに観戦に来る人も一定数はいるようだ。
「ああ、鹿島さん」
明るい声が聞こえて、赤田さんが早足でこちらに近寄ってきた。
「急な誘いで、本当にごめんなさい。他の二人は少し遅れてくるみたいだから、先に行きましょう」
仕事用のバックと一緒に、一度ニュースで見たことのある球団マスコットのキーホルダーが付いているトートバックを持っていた。
「今日は、ファルコンズとツインスターズの東京対決だから楽しみだね」
ピンとこないワードを言われて、頭が追い付かない。
「東京対決ですか」
「ごめんなさい、いきなり言われても分からないよね。東京ドームはツインスターズの本拠地だけど、ファルコンズも本拠地は東京の神宮球場だから、お互いに東京のチーム同士の試合になるのよ」
だから何だよ。言いたい気持ちを抑えて頷いた。先ほどから歩いている人のユニフォームは何種類にも及び、どのチームが今回のチームなのかもわからない。
「赤田さんは、ツインスターズのファンなのですか」
「違う、私はファルコンズのファンなの。これ、ファルコンズの球団マスコットのファルコ君。かわいいでしょう。性格は悪いけど、憎めないの」
会社にいる時とは違い、やわらかい口調でキーホルダーを見せてくれた。後楽園の駅を出て階段を上ると歩道橋になっており、そこをわたると既に東京ドームが目の前に広がっている。よく聞く東京ドーム何個分という話だが、こうやって見ると大きいものだとわかる。
ラクーアの方面に見えるジェットコースターに目が行ったが、彼女は右を指さした。目の前のビジョンには、今日の試合の表示が大きく出ている。何も知らない私でも、これを見るとイベント前の胸の高鳴りを感じた。
チケットを見ながら、赤田は慣れたように歩いていく。いくつかのゲートを通りながら、チケットに書かれたゲートまでついた。
「今日は小松さんの配慮もあって、ビジターの方に席があるから」
「ビジターですか」
「ごめんね、この球場を本拠地にしているのがツインスターズで、他のチームは招かれているのでビジターと呼ぶの。ホームは一塁側、ビジターは三塁側って決まっているから、今日は三塁側っていう話」
赤田さんは、丁寧に説明してくれた。こんなに知らない人間を連れていては迷惑になっているに違いない。無理に誘われたとはいえ、申し訳ない気持ちになった。
「すみません、何も知らずに」
「いいの。無理に来てもらったけど、これがきっかけで鹿島さんが野球観戦を好きになってくれるといいな」
笑顔を向けた。さっきから、通り過ぎる男性の視線を集めている彼女にこの笑顔を向けられるのは、男性なら幸せに違いない。女性の私でも、可愛いと素直に思える。
ただし、これで野球観戦を好きになるかは別の話だ。以前の経験から、絶対に私には合わないはずだ。
ゲートでは少し並んだが、手荷物検査を経て球場に入ることが出来た。回転扉を抜けると、
大歓声がいきなり聞こえて圧倒される。
「もう始まっているね。席に行きましょうか」
自分たちの席に向かって歩いていくが、大音量の応援団の声やファンの手拍子の大きさに驚いた。
自分たちの席に着くと、赤田さんがトートバックからユニフォームを二枚出した。
「一緒に着ましょう」
黒のカーディガンを脱ぐと、彼女は慣れたようにユニフォームに袖を通した。私も真似して、ジャケットを脱ぐと借りたユニフォームに袖を通した。胸にファルコンズと書かれている。
席は三塁側より外野に寄っている場所だが、かなり近い場所だった。チケットにも、三塁側内野指定席と書かれている。外野と内野くらいは、私でも知っている単語だ。試合は開始しており、すでに選手が出てきている。
「二人が来てから、食べ物は買いに行きましょう。少し見ていようか」
そう言って、赤田さんは簡単にルールや選手を教えてくれた。聞いたことのある程度の選手の名前が何人か出ているが、分からない単語が多いせいかほとんどが付いていけていなかった。
目の前の試合を目で追う。投手の投げる球の速さに驚く。あの球速を距離のあるスタンドに放り込むのであれば、それはすごい。
「今日はエース同士だから、点数は入らないかな」
赤田さんの話に私は頷くしかなかった。何となくしかわからないが、ファルコンズの選手の打席では応援歌に合わせて手を叩くのは嫌いではなかった。最初は分からないながらも、リズムは一定なので合わせるのは難しくない。外野席にいる応援団のトランペットを見て、応援はまさかその場でやっているのかと驚いた。
試合も面白いが、表裏の交替時にある演出の多さに、思わず興味が湧いてしまう。以前の印象が強かったため、つまらないという気持ちが先にあったが、これなら楽しめそうな気がした。
「遅くなって申し訳ない」
ちょうど三回の表が終わったあたりで、二人の男性が到着した。上司と聞いていたが、まさかの人間だ。
「私たちもついたばかりです。今日は、同じフロアの鹿島さんを誘いました」
赤田さんと席を立って、私は頭を下げた。
「あれ、君は・・・」
「総務部の鹿島と申します。今日は、お誘い頂きありがとうございました」
気が付いたような表情をされたので、先に頭を下げた。相手は何かを悟ったのか、それぞれ自己紹介した。
誘ってくれたのは、営業本部長、つまり以前までの直属の部署のトップと財務部の部長だった。この大きな会社でも、それなりの期間働いていれば顔は必ず見るような立場の二人だ。
こんなに偉い人間の誘いなら、赤田さんもわざわざ私の仕事の確認を高浜さんにまで確認をするよな。遅れるのは許されない。
謎が一つ解決して、勝手に満足していた。
「あの、何か買ってきますね。行こうか、鹿島さん」
「そんな、気を遣わなくていいよ。簡単なつまみは買ってきたよ」
「いえ、私たちもお腹空いたので。私たちのチョイスでいいですよね」
二人の役職を知っての動きではあるが、この二人にこんなに気さくに話が出来るのは赤田さんと二人の関係は深いのだろう。私では、緊張してこんなにきれいに話が出来ない。
「任せるよ。ありがとう」
私たちは席を離れて、ドームの中の売店へ向かった。
「あのお二人だったのですね」
「ごめんね。いきなり名前出してしまうと、緊張して来られなくなるかなと思って。でも、野球を見るときは役職関係なく優しいから、二人のお誘いはなるべく行くようにしているの」
慣れたように人混みを抜けていく彼女についていくのが必死で、頷くことしかできない。
ドームの中の売店は祭りの屋台のように多く、この他にもお店があるのだと赤田さんは話した。
「肉がいいかな。それとも、ハンバーガーみたいなのがいいかな」
首をかしげながら、赤田さんは売店を見て回った。ツインスターズの選手のコラボ商品などもあり、ここにいるだけでも数時間はいられる気がした。
「ねえ、鹿島さんはお腹空いている」
「はい」
素直に答えた。周りの店の雰囲気が食欲を誘ってくる。
「じゃあ、カルビ丼にしましょう」
そう言って、行列に並び始めた。値段を見ると、大した大きさではない丼が二千円近い値段で販売されている。普段なら、絶対に選ぶはずのないお店に並んでいる。
「高いでしょう」
私の心を読んだように、彼女は訊ねた。
「はい、思ったよりも値が張ると思っています」
「こういった施設は、割り増し料金だからね。でも、おいしいのよ。だから、贅沢しようと思っていつも食べちゃうのよね」
いたずらな笑顔を見せる赤田さんは可愛かった。確かに、この雰囲気と好きな野球を見るなら、こういった料理にお金を払うのもいいのかもしれない。
何も知らないながら、それなりにこの雰囲気を楽しんでいる自分がいた。別々のユニフォーム姿の人が行列に並びながらも、設置されているモニターから流れる試合を真剣に見ている。ヒットが出ると、大きな声援とため息が聞こえてきた。
「ああ、打たれちゃった」
横で赤田さんが呟いた。
「赤田さんは、昔からファルコンズのファンだったのですか」
「大学生の頃に神宮球場でビールの売り子をしていたけど、その時はあまり野球にも興味がなかったの。でも、仕事が行き詰った時に、部長の小松さんに連れて行ってもらってから、ファンになってね」
メニューを眺めながら、彼女は答えた。
「球場って、野球だけじゃない楽しみもあるし、野球も楽しめるから居酒屋行ってみんなで飲むよりも話をしなくても済むしね。以前は、色々な飲み会に誘われて週末はストレスたまっていたのだけれど、こうやって部長に誘われて球場に行くようになってからは、誘いも減ったから一石二鳥だよね」
美人には美人なりの面倒もあるのだろう。他部署の人間も知っているレベルの美女だけに、誘いも多いに違いない。
順番が来たので、人気のカルビ丼とビールを四つずつ購入して席に戻った。
試合は中盤に差し掛かっていた。
「わざわざありがとう」
「いいえ、いつもお誘いを頂いていますから」
四人並んでいる席で、端に彼女は座って話した。私を端にして一人きりにさせないための配慮だろう。
カルビ丼は肉が柔らかくて、ビールにも相性がいい。横で、男性陣も野球の話で盛り上がり、分からない用語を丁寧に説明してくれた。
「すみません、何もわからなくて」
私が謝ると、赤田さんが笑った。
「おじさん二人は、一緒に野球を見てくれる人がいれば満足だから」
「そうそう、真帆はいつも来てくれるから楽しいよ」
いつも会議で真面目に話す姿しか見たことない営業本部長の姿を見て、リアクションに困った。赤田さん、下の名前で呼ばれているのか。しかも、おじさんなんて冗談でも言える気がしない。
「次は七回だね。応援のタオル用意しないと」
そう言って、彼女がトートバックからタオルを二つ出して、一つを私に渡した。
「七回はラッキーセブンということで、応援歌に合わせてこのタオルを振るの」
話しているうちに、六回裏の攻撃が終わった。レフトスタンドにいるファンが、一斉にタオルを広げた。
球場に音楽が流れて、横で赤田さんも歌っていた。タオルは、広げているだけなので、私はみんなの真似をして広げた。男性陣は、歌っている赤田さんを優しい表情で眺めていた。
「一緒に付き合ってくれて、ありがとう。二人は、付き合ってくれないのでうれしいよ」
「さすがに、真帆ほど熱心には応援できないなあ」
頬を膨らました赤田さんに、二人は困り顔で答えた。確かに、こんなに大きな声で歌うのは恥ずかしい。何も気にせずに歌っている赤田さんの表情を見ると、彼女が本当に野球好きなのは充分伝わった。
七回の表が終わると、次はツインスターズの番だ。赤田さんはトイレに行ってしまったので、二人と一緒に眺めていた。大きな音響でチアガールが出てきて応援歌をファンが歌っている。ホームの球団は演出が強い為、思わず見入ってしまった。
「すごいだろ、東京ドーム」
財務部長の小松さんが訊ねた。演出に驚いていたため、私は無言で頷いた。
「ファルコンズの応援より、ツインスターズに目がいくよね」
「あの、それは・・・」
「今は真帆もいないし、気にしないで。野球観戦はどうだい」
「失礼かもしれませんが、あまり面白いとは思ってはいませんでした。でも、実際に来てみるとすごく楽しいです。演出もあって、野球自体も見ていて楽しいです。わからないことも多いですが、もっと知れば楽しみも増えるのかと思います」
勢いよく答えてしまった。話していて、我に返って恥ずかしくて下を向いてしまった。
「それはよかった。せっかく来たのだから、楽しんでくれてよかったよ」
そこで、赤田さんが帰ってきた。最中アイスを全員分買ってきていた。大きなアイスだが、冷たくておいしかった。
試合自体は、途中まで一対一の同点で拮抗していたが、八回の表にファルコンズの四番沢尻のホームランで勝ち越し。そのまま逃げ切ってファルコンズの勝利で終わった。
「楽しかったなあ」
試合に勝って、赤田さんのテンションは上がっていた。しっかりとヒーローインタビューまで見てからドームを出た。
「今日は、お誘いを頂きありがとうございました」
私はみんなに頭を下げた。私も試合後の興奮が残っており、体が熱くなっている。
「こちらこそ、急な誘いにも関わらずありがとう」
「あの、ユニフォームは洗って返します」
「いいよ、一緒に洗っておくから」
赤田さんの優しさに、甘えてしまった。それにしても、思っていた何倍も楽しかった。食べ物もおいしいし、お酒も普段よりもおいしかった。球場でみんなと食べたから、普段よりもおいしく感じたのかもしれない。
もう一度、チャンスがあれば。
しかし、言葉が出なかった。誘われたとはいえ、本来は呼ばれるはずのない人間の立場で、次をおねだりするなんてできない。
「そういえば、これがあった」
横で、本部長がチケットを出した。
「二週間後になるが、東京ドームのチケットもらったのだが、行けなくなってね」
土曜日の試合で、相手はファルコンズではなかった。
「真帆は興味ないだろうから、良ければ誰か誘っていってみてはどうかな」
そう言って、私にチケットを差し出した。
「いえ、そんな。申し訳ないです」
「どうせ、このまま持っていてもごみになってしまうものだから、良ければもらってくれないか。別に、行けなければいけないでいいから」
「頂いておきましょう」
横で、赤田さんもフォローしてくれた。私は頭を下げた。
「ありがとうございます。お金、払います」
「言ったでしょう。そもそも貰ったチケットでいけなくなったものだから、遠慮せずにもらってくれないか。もし気に入ったのなら、今度観戦に行く際は、また来てくれればいいから」
「ぜひ、よろしくお願い致します」
私の反応に、赤田さんも目を輝かせていた。水道橋駅から帰る二人に挨拶をして、赤田さんと後楽園駅へ向かって歩いた。
「楽しかったです。今日はありがとうございました」
「楽しんでくれたのであれば、誘った甲斐もあったみたいで良かった。急な誘いになってしまって、ごめんなさい。また今度、誘ってもいいかしら」
少し間を空けた。会社内で、今後は私的なお付き合いをするのをやめようと決めて、ここまで静かに生きてきた。ここで乗ってしまうと、それが崩れてしまう。それに、目の前にいるのは部内でも有名な赤田さん。この人と付き合うことで、面倒な付き合いに巻き込まれないかが心配になった。
「あの、お願いします」
迷いは、野球観戦と天秤にかけたら消えた。まだ、東京ドームで聞いた歓声が頭を何度も駆け巡っている。
どこかに置いてきた感情が、目覚めた気がする。その日寝るまで、気持ちの熱は冷めなかった。