忘れ物とひと騒動
鬼川教諭によるひと騒動があった後、俺たちはこれから毎日通うこととなる、2年C組の教室に入った。
今年もこいつ――菅原和樹――と同じクラスである。嬉しいような、嬉しくないような。今年も楽しめそうだなと言うか、疲れそうだなと言うか。
まあ、クラスメイトはまあまあである。
まあまあであるというのは、ほぼ全員知らない。話したこともない。
8時30分になると予鈴が鳴り、クラスのほぼ全員が席に着く。
5分後の本鈴と共にこのクラスを担当する教師が教室に入ってきた。
その担当教師は誰あろう、今朝の平川教諭だ。
と思いきや、平川教諭は副担任。
このクラスの担任は、新野真紀子教諭だった。
年齢:不詳(見た目30代)
性別:女性
性格:普通
まったくもって平凡な教師。
安定の「普通」
なんか、担任よりも副担任の存在感のほうがすごい。
まあ、隣の和樹は今日の朝の出来事を忘れたように、涼しそうにしている。
ただ、その視線は下を向いていて……その視線をたどると、ちょうど教師たちからは見えないであろう絶妙な角度でスマホをいじっている (和樹は『45~60度が最適解である』と言っていたが、ばれた時が怖いため試したことはない)。
教師による自己紹介で終了したHRが終わり、1校時が始まる。
新野先生は職員室へと戻り、古文の先生が入ってきた。
まあ、新学期初日もあっという間に過ぎ、温かい春の日差しの中で眠りたい気分となった7時間目。
その担当教師は、やってきた。
つまり、和樹を目の敵にしているであろう人物かつ、このクラスの副担任、平川先生である。
絶対体育会系だと思ったのだが、予想は外れたらしい。7時間目は地理だ。
隣の和樹は平川先生を見るなり、にやりと笑った。
やばっ。絶対ろくでもないこと考えている。
この笑みは、ろくでもないことしか考えていない。
そもそも、和樹は常日頃からろくでもないことしか考えていないのだ。
いやな予感しかしねぇ。
と思っていたのだが。予想に反して、何もなく50分が過ぎようとしていた。
ちなみに平川先生の授業は面白いわけでもなく、平川先生の自慢話で終わった。
彼の世界のいろいろな場所に行ったことがる。という自慢話で。
平川先生はことあるごとに『グローバル』、『グローバル』と言っていて、世界地図の中心が日本であるのはまったくもって自己中心的であるなどと述べていた。
要するに、つまらなかった。
最後に、平川先生は、
「春休みの課題の提出は今日の午後16:35分までだからな。大半は提出済みだが、未提出のやつはしっかりと出しておけよ」
それだけ言って、平川先生は授業を終わらせた。
この学校の課題の提出方法は7〜8割くらいがネット上からである。
この点はすごく進んでいると俺は思う。
ネットであるため、提出期限が分単位まで決められていて、今回の春休みの宿題の提出期限は16:35分だった。
ちなみに、提出期限を過ぎれば、二度と提出できなくなる。時間に厳しいのだ。ネットは。
チャイムが鳴り、この授業の終わりを知らせる。和樹の笑いは杞憂に終わった。俺はそう思った。そう判断した。
しかし、俺の目に狂いはなかったようだったのだ。
つまり、またも問題が起こったのだ。
いや、和樹が起こしいたのだ。
帰りのHRが終わり、職員室前を通って下駄箱に向かおうとすると、平川先生が進行方向に仁王立ちで誰かを待っていた。
いやな予感がするので、一緒にいた冬華と菜乃葉に迂回策を提案する。
和樹にも提案しようと反対側を見ると、もうすでに時遅し。
和樹は歩くスピードを速め、まぶしく光る西日のような太陽の中に突っ込んでいく。
ちなみに冬華と市川と俺はその場で足を止め、平川教諭とは5mくらいの距離をとる。
平川教諭は、和樹が横を通る時に、彼の腕を掴んだ。
そして、
「菅原、地理の課題が出ていないが、どういうことだ?」
おい、和樹、その課題、提出してなかったのかよ。
そういえば、今日の朝『オンラインのやつはやったよ。提出もした』とか言っていたじゃねえか。それに、その証拠を俺にだって見せてきたし。
えっ、もしかして、白紙のやつを再提出した?
つまり、ただ平川先生にケンカを売りたいだけでしょそれ。小学生以下かよ。
ちなみに、彼は今日の朝のひと騒動で学習したらしい。
平川教諭の声は冷静だった。
声を大きくして威圧することは無駄だと悟ったらしい。
それはそうと。
この巨漢の制裁のとばっちりを受けないようにと誰もが自分の気配を押し殺す中。
この重い空気を(あえて、であると信じたい)読んでいない和樹は平川教諭のほうを向いて。
堂々と、冷静な声で。
「この学校の教育目標は何ですか」
そんな質問をした。
「なぜ今そのような質問をする必要がある?」
「いえ、確認のためです」
「俺がそんなことも知らんと思っているのか? それぐらいわかる。
個々の意見を大切にする、グローバルな生徒の育成、だ」
平川先生もよく律儀に質問に答えるよな。
どうも横文字というものでうまくはぐらかされている気がする、この学校教育目標。
今から20年前にこの教育目標が作られたというので、当時に『グローバル』なんて言ってたのであれば、それなりに進んでいた高校だったのだろうが。
いや、今もある程度の進学校だが。
『グローバル』の意味は『世界的な』などという意味らしく、この高校の学校目標は日本語に訳すと『個々の意見を大切にする、世界的な生徒の育成』ということになる。まったくもって意味不明。
「その通りです。つまり、この学校は『グローバル』を意識していると」
和樹の堂々とした声が教室に響く。
「そうだが?」
「7時間目におっしゃられた通り、世界地図というものは基本、イギリスを中心にして描かれています。
日本が中心の世界地図なんてほかの国ではめったに見られません。
あるとすればアジア諸国くらいでしょうか。
また、時差を表す時も、イギリスからプラス何時間か、マイナス何時間か。などという風にあらわされます。
これは、大英帝国時代、イギリスが世界を支配していて、本初子午線がイギリスのグリニッジ天文台を通ることが主な理由です」
「もちろん」
まあ、腐っても平川先生は地理の先生である。見た目はバリバリの体育会系なのだが。
いや、腐っているのは和樹の方か。
「つまり、グローバルな視点で見るとするならば、イギリスのグリニッジ子午線の時間に合わせるべきでしょう。
先生もご存じの通り、提出期限は16時35分まで。つまり、7時間目の授業が終わってから5分後ですね。日本時間では。
イギリスとの時差はサマータイムも計算に入れて8時間です。そのため、国際的に考えると提出期限は、日本時間0時35分。つまり、あと約8時間も僕には提出するまでに猶予があると」
ほかの教師が『またやってるよ、和樹って子』みたいな目で彼を見ている。
菜乃葉は『和樹、あとで殺す』みたいな目をしている。
冬華は少し引いた目で和樹を見ている。
いや、普通に考えたら和樹お前いつも日本時間で生活しているんだからいまだけグリニッジ天文台出してくるとかおかしいでしょ。そう思ったのだが、平川教諭は――――何も言い返せないのか、こぶしを握り締めたまま黙っている。
悔しいですよね。でも、諦めましょう。これが和樹っていう人の性格なんです。俺も呆れています。
まあ、平川先生も今日の7時間目、事あるごとに『グローバル』、『グローバル』なんて言っていたものだから、言い返せないのにも無理はない。
和樹はそれだけ言うと、すたすたと平川教諭の前を通って行ってしまった。
俺たちも和樹の後を追い、平川教諭の前を少しかがみながら通る。
それから、この学校の提出物の提出期限には「日本時間」という注意書きがされることとなった。
ちなみに、その日の下校時、和樹が市川の手により、問題集を背表紙から頭にぶつけられてから、家に帰ったというのはまた別の話。